38 時の移ろいに霞む面影
白く儚い花が揺れる。
はらはら──はらはらと──
その小さな花弁を散らしながら。
『ねぇ──どうして?』
薄く輝く水面の上にその人はいた。
揺れる金色の髪は、波の上にゆるゆると解けていって
微かな波紋が広がっていく。
『──どうして貴女がそこにいるの?』
冷たい声が空気を揺らす。
はらりとまた一つ、小さな花弁が散った。
波紋の上に落ちたそれは、やがて深い水底へと沈み
無垢な白が闇の中に消えていく。
『──貴女のせいで……』
足元から沈んでいく。ずぶずぶ、ずぶずぶと。
──そして彼女が振り返った。
その瞳に果てしない闇を抱えて──
『貴女がいなければ──私は──』
………………
…………
……
「っいやぁっ!」
叫び声を上げながら私は飛び起きた。ドクドクと鼓動が嫌な音を立て、震えるような寒気と共に、汗が全身を濡らしていた。
悪夢にうなされて目覚めたのだという事実に、暫くの間気が付かなかった。
現実味の無い夢。
けれど心の奥底にある恐怖を呼び覚ます。
「うぅ……」
既に現実と言う名の安全地帯に這い上がったはずなのに、未だその恐ろしさに体が言うことを聞かない。震える手で私は何とか自分自身を抱きしめた。
脳裏をよぎるのは、夢の中で見た光景。現実ではありえないそれを記憶の中から消し去りたくて、頭を振ってベッドにうずくまった。
夜の静寂の中に、小さな衣擦れの音だけが響く。
誰もいない──
こんな夜は、まるで自分が世界から隔絶されたように感じる。
己の孤独を思い知らされる。
私はそれをやり過ごす為に暫くベッドの上でじっとしていた。けれどこのままでは再び寝入るのは無理のような気がしていた。妙に感覚が冴えてしまっているのだ。静まり返った闇の中に、現実ではありえない何かが蠢く気配を感じてしまいそうなほどに。
私はなるべく余計なことを考えないようにして、震えが収まるのを待った。そして少し落ち着いてきた頃を見計らい、ガウンを羽織り部屋の外へ出ることにした。
ベッドから起き上がり、部屋の扉をそっと開けて外へ出る。けれど扉の外にも真っ暗な闇が広がるばかりだった。重い足を引きずりながら、私は廊下を進んだ。
ここではないどこかに行かなければいけないような気がした。
けれど思うように体が動かない。
再びじわりと嫌な汗が噴き出して、肌が粟立つような感覚がした。
真っ暗な闇の中に、自分が今どこにいるのか。
ここが悪夢の中なのか現実なのか分からなくなってくる。
足元から崩れていくような気がして、夜目が利いていないのに酷い眩暈がした。
どこを目指せばいいのだろう。
ただ無性にここではないどこかへ行きたかった。
自分のいるべき場所を必死に探した。
そうして暫く歩いていると、果てしなく続くと思われた暗闇の中に、一筋の光が見えた。扉の隙間から漏れる温かな光──エルの部屋だ。私はその光に導かれるようにしてそこへ近づいた。
音を立てないようにそっと扉を開けば、寝椅子に腰掛けたエルが見える。
疲れてそのまま寝てしまったのだろう。着替えもせず、シャツを少し寛げたままの姿で、眠っていた。
近くのテーブルには酒瓶とグラス。彼は眠れぬ夜にはこうして一人酒を飲むのだ。
いつものエルの姿に、私はほっと安堵の息を吐くと、彼に近づいた。先ほどまでの足元から迫ってくるような孤独と言う名の恐怖は、温かな光の中で小さく萎んでいく。
「エル──起きて、こんな所で寝たら風邪をひくわ」
私はエルを起こそうとして彼の肩を揺さぶった。その時──
──パシっ──
「っ──エル──」
エルの大きな手が私の腕を捕らえた。そして──
「ディアナ……」
「っ──!」
エルの寝言にビクリとした私は、思わずのけぞった。そして後ろにあったテーブルにぶつかってしまう。
その拍子にテーブルの上にあった物が下へと落ちた。
バサバサと音を立てて床に落ちたのは、一冊の日誌。それを見て心臓が凍りつく。
「あ…………お……かあさま……」
途端にカタカタと体が震えだし、視界がぐるぐると回り出す。自分の体が自分でなくなるような感覚。溢れ出すのは強烈な自分への嫌悪感。
闇が再び足元から迫る。
その悪夢に引きずられるようにして、私はそのまま気を失った──
******
「……イジー……デイジー……」
私の名前を呼ぶ優しい声に、沈んでいた意識が浮上する。微睡の中から掬い上げるように、手に力強い熱を感じた。
「ん……」
「デイジー!」
瞳を開ければ美しい冬空色の瞳が、心配そうにこちらを見つめていた。
「……レスター……」
「デイジー!良かった……!」
レスターが私の手を握り絞め、それを祈るように額に当てる。彼の様子を見れば、酷く心配をかけたことが窺えた。けれど何故レスターがここにいるのかわからなくて、少しだけ混乱する。
「……どうしてここに?」
「君が倒れたってフリークス氏から連絡があったんだよ」
「え?」
「夜中に突然倒れたんだって。覚えてないのかい?」
「……それは……」
そう言われて自分がどうしていたのかを必死に思い出す。
悪夢にうなされ目覚めてしまい、眠れなくて部屋の外に出た。そして──
「っ──」
思い出そうとして、ズキリと頭が痛む。突き付けられる現実から、本能的に目を逸らしたいのだろう。けれど自分が見た悪夢を忘れられるわけがない。
「無理をしないで、デイジー。今は休むんだ」
レスターが心配そうに、私の頬に手を寄せる。その温かさに次第に気持ちが落ち着いていった。
「……エルはどうしているのかしら」
「フリークス氏は、医者と話しているよ」
「……そう」
エルの前で愚かな失態を犯してしまった自分が恨めしい。また彼に辛い思いをさせてしまう。
「私……どれくらい寝ていたのかしら……」
「君が倒れて既に一日以上経っている。……とても心配したよ」
「ごめんなさい……」
「謝らないで。君が健やかに過ごせれば、私はそれでいいんだ」
「レスター……ありがとう」
「いいんだ……君が目覚めたことを皆にも伝えてこよう。お腹もすいているだろう。すぐに用意させるよ」
「えぇ」
柔らかい笑顔を向けて名残惜しそうに手を離したレスターは、そのまま部屋から出て行った。
(久しぶりにあの夢を見た──ずっと見ていなかったのに……)
この国を離れた当初によく悩まされていた夢。真っ暗な闇の中、足元から暗闇に沈んでいく──そんな悪夢。
その中心にいる人物は、いつも同じ──母のディアナだ。
子供の頃の記憶の中で、母はいつも穏やかに笑っていた。その手は優しく私を抱きしめてくれていた。けれど悪夢の中で、彼女は私を責め立てるのだ。
(……お母さまはそんな事は言わない、言わないとわかっているのに──)
責めるように母からぶつけられる言葉で、自分の罪を思い知らされる。それを罪ではないと母もエルも言うだろう。けれど繰り返しあの悪夢を見てしまうのだ。
しかしここ最近は歳を取ったこともあり、次第に悪夢を見なくなっていった。それと同時に、母の笑顔も遠い記憶の向こうに霞んでいくのを感じる。母の亡くなった歳を、私はとうに超えているのだ。それも仕方のないことだろう。
それでもこうして記憶とは違う母の悪夢を見るのは、精神的にとても辛かった。
そうして私が自身の心と葛藤していると、扉がノックされレスターが入って来た。食事を運んできてくれたようだ。
「デイジー、少しでも食べられそうかい?」
「……えぇ、ちょっとお腹がすいているわ」
「ミルク粥を作ってもらった。フルーツもある」
「ありがとう」
レスターは私を起き上がらせると、背中にクッションを差し込み、楽な姿勢にさせてくれた。そして自身は椅子を持ってきて、食事の介助の準備を始める。
「一人で食べられるわ」
「こういう時は甘えて欲しい……むしろ私が甘やかしたいから……」
レスターの思いもよらない言葉に、頬が熱を持つ。気づかれないように、私はそっぽを向いた。しかしすぐに声を掛けられ、それは儚い抵抗に終わる。
「ほら、こっちを向いて」
まるで子供にするように、レスターは粥を掬ったスプーンを私の口もとへと持ってきた。チラリと視線を向ければ、真剣な瞳がこちらに向けられていた。
彼が少しも引く様子がないので、観念して口を開くと、ついとスプーンが差し込まれる。程よい温度にされた粥の優しい味が、口いっぱいに広がっていった。お腹が満たされると同時に、心まで温かくなっていくような気がする。
口に含んだものを飲み込むと、レスターはすぐに次を差し出した。少し躊躇ったけれど、私は黙ってそれを受け入れた。
そうして暫くは黙々と食事を続けた。レスターは何も言わない。けれどそこに流れていた時間は、とても穏やかなものだった。
食事が終わると、お腹が満たされたからか、再び睡魔が襲ってきた。既にたくさん寝ていたから起き上がろうとすると、レスターに止められた。
「デイジー、君は熱があるんだ。寝てなきゃだめだよ」
「でも……」
「君はもっと周囲に甘えるべきだ。みんな君を大事に想っているんだから」
「っ──」
レスターの言葉に、憂いに沈んだ心が優しく解けていくのを感じる。
(……ほんの少しだけ、あなたの優しい言葉に甘えてもいいの……?)
「ほら、横になって。タオルがぬるくなったから冷たいものに取り換えてこよう──」
そう言って部屋から出て行こうとするレスターの服の裾を、私は思わず掴んでしまった。
驚きに彼が目を瞠る。
私は自分の行動に驚いて、すぐに手を引っ込めた。
「っ──ごめんなさい……」
「いや……いいんだ。タオルは侍女に持ってこさせよう。私は君の側にいるよ」
レスターは少しだけ耳を赤くしながら、なんでもない風に振舞ってそう言った。
照れているのを誤魔化しているのかもしれない。若い頃そうしていたように、視線を逸らして恥ずかしがる姿が可愛い。
それでも彼は私の手を握り、眠るまでそのままでいてくれたのだった──




