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あなたとの愛をもう一度 ~不惑女の恋物語~  作者: 雨音AKIRA
6章 秘密の代償

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38 時の移ろいに霞む面影

 白く儚い花が揺れる。

 はらはら──はらはらと──

 その小さな花弁を散らしながら。


『ねぇ──どうして?』


 薄く輝く水面みなもの上にその人はいた。

 揺れる金色の髪は、波の上にゆるゆるとほどけていって

 微かな波紋が広がっていく。


『──どうして貴女がそこにいるの?』


 冷たい声が空気を揺らす。

 はらりとまた一つ、小さな花弁が散った。

 波紋の上に落ちたそれは、やがて深い水底へと沈み

 無垢な白が闇の中に消えていく。


『──貴女のせいで……』


 足元から沈んでいく。ずぶずぶ、ずぶずぶと。


──そして彼女が振り返った。

その瞳に果てしない闇を抱えて──


『貴女がいなければ──私は──』

 

 ………………

 …………

 ……



「っいやぁっ!」



 叫び声を上げながら私は飛び起きた。ドクドクと鼓動が嫌な音を立て、震えるような寒気と共に、汗が全身を濡らしていた。


 悪夢にうなされて目覚めたのだという事実に、暫くの間気が付かなかった。


 現実味の無い夢。


 けれど心の奥底にある恐怖を呼び覚ます。



「うぅ……」



 既に現実と言う名の安全地帯に這い上がったはずなのに、未だその恐ろしさに体が言うことを聞かない。震える手で私は何とか自分自身を抱きしめた。


 脳裏をよぎるのは、夢の中で見た光景。現実ではありえないそれを記憶の中から消し去りたくて、頭を振ってベッドにうずくまった。


 夜の静寂の中に、小さな衣擦れの音だけが響く。



 誰もいない──


 こんな夜は、まるで自分が世界から隔絶されたように感じる。


 己の孤独を思い知らされる。



 私はそれをやり過ごす為に暫くベッドの上でじっとしていた。けれどこのままでは再び寝入るのは無理のような気がしていた。妙に感覚が冴えてしまっているのだ。静まり返った闇の中に、現実ではありえない何かが蠢く気配を感じてしまいそうなほどに。


 私はなるべく余計なことを考えないようにして、震えが収まるのを待った。そして少し落ち着いてきた頃を見計らい、ガウンを羽織り部屋の外へ出ることにした。


 ベッドから起き上がり、部屋の扉をそっと開けて外へ出る。けれど扉の外にも真っ暗な闇が広がるばかりだった。重い足を引きずりながら、私は廊下を進んだ。



 ここではないどこかに行かなければいけないような気がした。


 けれど思うように体が動かない。


 再びじわりと嫌な汗が噴き出して、肌が粟立つような感覚がした。


 真っ暗な闇の中に、自分が今どこにいるのか。


 ここが悪夢の中なのか現実なのか分からなくなってくる。


 足元から崩れていくような気がして、夜目が利いていないのに酷い眩暈がした。


 どこを目指せばいいのだろう。


 ただ無性にここではないどこかへ行きたかった。


 自分のいるべき場所を必死に探した。



 そうして暫く歩いていると、果てしなく続くと思われた暗闇の中に、一筋の光が見えた。扉の隙間から漏れる温かな光──エルの部屋だ。私はその光に導かれるようにしてそこへ近づいた。


 音を立てないようにそっと扉を開けば、寝椅子に腰掛けたエルが見える。


 疲れてそのまま寝てしまったのだろう。着替えもせず、シャツを少し寛げたままの姿で、眠っていた。


 近くのテーブルには酒瓶とグラス。彼は眠れぬ夜にはこうして一人酒を飲むのだ。


 いつものエルの姿に、私はほっと安堵の息を吐くと、彼に近づいた。先ほどまでの足元から迫ってくるような孤独と言う名の恐怖は、温かな光の中で小さく萎んでいく。



「エル──起きて、こんな所で寝たら風邪をひくわ」



 私はエルを起こそうとして彼の肩を揺さぶった。その時──



──パシっ──



「っ──エル──」



 エルの大きな手が私の腕を捕らえた。そして──



「ディアナ……」


「っ──!」



 エルの寝言にビクリとした私は、思わずのけぞった。そして後ろにあったテーブルにぶつかってしまう。


 その拍子にテーブルの上にあった物が下へと落ちた。


 バサバサと音を立てて床に落ちたのは、一冊の日誌。それを見て心臓が凍りつく。



「あ…………お……かあさま……」



 途端にカタカタと体が震えだし、視界がぐるぐると回り出す。自分の体が自分でなくなるような感覚。溢れ出すのは強烈な自分への嫌悪感。


 闇が再び足元から迫る。


 その悪夢に引きずられるようにして、私はそのまま気を失った──




******




「……イジー……デイジー……」



 私の名前を呼ぶ優しい声に、沈んでいた意識が浮上する。微睡の中から掬い上げるように、手に力強い熱を感じた。



「ん……」


「デイジー!」



 瞳を開ければ美しい冬空色の瞳が、心配そうにこちらを見つめていた。



「……レスター……」


「デイジー!良かった……!」



 レスターが私の手を握り絞め、それを祈るように額に当てる。彼の様子を見れば、酷く心配をかけたことが窺えた。けれど何故レスターがここにいるのかわからなくて、少しだけ混乱する。



「……どうしてここに?」


「君が倒れたってフリークス氏から連絡があったんだよ」


「え?」


「夜中に突然倒れたんだって。覚えてないのかい?」


「……それは……」



 そう言われて自分がどうしていたのかを必死に思い出す。


 悪夢にうなされ目覚めてしまい、眠れなくて部屋の外に出た。そして──



「っ──」



 思い出そうとして、ズキリと頭が痛む。突き付けられる現実から、本能的に目を逸らしたいのだろう。けれど自分が見た悪夢を忘れられるわけがない。



「無理をしないで、デイジー。今は休むんだ」



 レスターが心配そうに、私の頬に手を寄せる。その温かさに次第に気持ちが落ち着いていった。



「……エルはどうしているのかしら」


「フリークス氏は、医者と話しているよ」


「……そう」



 エルの前で愚かな失態を犯してしまった自分が恨めしい。また彼に辛い思いをさせてしまう。



「私……どれくらい寝ていたのかしら……」


「君が倒れて既に一日以上経っている。……とても心配したよ」


「ごめんなさい……」


「謝らないで。君が健やかに過ごせれば、私はそれでいいんだ」


「レスター……ありがとう」


「いいんだ……君が目覚めたことを皆にも伝えてこよう。お腹もすいているだろう。すぐに用意させるよ」


「えぇ」



 柔らかい笑顔を向けて名残惜しそうに手を離したレスターは、そのまま部屋から出て行った。



(久しぶりにあの夢を見た──ずっと見ていなかったのに……)



 この国を離れた当初によく悩まされていた夢。真っ暗な闇の中、足元から暗闇に沈んでいく──そんな悪夢。


 その中心にいる人物は、いつも同じ──母のディアナだ。


 子供の頃の記憶の中で、母はいつも穏やかに笑っていた。その手は優しく私を抱きしめてくれていた。けれど悪夢の中で、彼女は私を責め立てるのだ。



(……お母さまはそんな事は言わない、言わないとわかっているのに──)



 責めるように母からぶつけられる言葉で、自分の罪を思い知らされる。それを罪ではないと母もエルも言うだろう。けれど繰り返しあの悪夢を見てしまうのだ。


 しかしここ最近は歳を取ったこともあり、次第に悪夢を見なくなっていった。それと同時に、母の笑顔も遠い記憶の向こうに霞んでいくのを感じる。母の亡くなった歳を、私はとうに超えているのだ。それも仕方のないことだろう。


 それでもこうして記憶とは違う母の悪夢を見るのは、精神的にとても辛かった。


 そうして私が自身の心と葛藤していると、扉がノックされレスターが入って来た。食事を運んできてくれたようだ。



「デイジー、少しでも食べられそうかい?」


「……えぇ、ちょっとお腹がすいているわ」


「ミルク粥を作ってもらった。フルーツもある」


「ありがとう」



 レスターは私を起き上がらせると、背中にクッションを差し込み、楽な姿勢にさせてくれた。そして自身は椅子を持ってきて、食事の介助の準備を始める。



「一人で食べられるわ」


「こういう時は甘えて欲しい……むしろ私が甘やかしたいから……」



 レスターの思いもよらない言葉に、頬が熱を持つ。気づかれないように、私はそっぽを向いた。しかしすぐに声を掛けられ、それは儚い抵抗に終わる。



「ほら、こっちを向いて」



 まるで子供にするように、レスターは粥を掬ったスプーンを私の口もとへと持ってきた。チラリと視線を向ければ、真剣な瞳がこちらに向けられていた。


 彼が少しも引く様子がないので、観念して口を開くと、ついとスプーンが差し込まれる。程よい温度にされた粥の優しい味が、口いっぱいに広がっていった。お腹が満たされると同時に、心まで温かくなっていくような気がする。


 口に含んだものを飲み込むと、レスターはすぐに次を差し出した。少し躊躇ったけれど、私は黙ってそれを受け入れた。


 そうして暫くは黙々と食事を続けた。レスターは何も言わない。けれどそこに流れていた時間は、とても穏やかなものだった。


 食事が終わると、お腹が満たされたからか、再び睡魔が襲ってきた。既にたくさん寝ていたから起き上がろうとすると、レスターに止められた。



「デイジー、君は熱があるんだ。寝てなきゃだめだよ」


「でも……」


「君はもっと周囲に甘えるべきだ。みんな君を大事に想っているんだから」


「っ──」



 レスターの言葉に、憂いに沈んだ心が優しくほどけていくのを感じる。



(……ほんの少しだけ、あなたの優しい言葉に甘えてもいいの……?)



「ほら、横になって。タオルがぬるくなったから冷たいものに取り換えてこよう──」



 そう言って部屋から出て行こうとするレスターの服の裾を、私は思わず掴んでしまった。


 驚きに彼が目を瞠る。


 私は自分の行動に驚いて、すぐに手を引っ込めた。



「っ──ごめんなさい……」


「いや……いいんだ。タオルは侍女に持ってこさせよう。私は君の側にいるよ」



 レスターは少しだけ耳を赤くしながら、なんでもない風に振舞ってそう言った。

照れているのを誤魔化しているのかもしれない。若い頃そうしていたように、視線を逸らして恥ずかしがる姿が可愛い。


 それでも彼は私の手を握り、眠るまでそのままでいてくれたのだった──


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[一言] >「あ…………お……かあさま……」 んんんんんん!?!?!?
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