57 怒りと慟哭と
「お前とディアナが──私の人生を狂わせたんだ!」
フラネルのその言葉を聞いた瞬間、僕はそれまで何とか怒りを抑えてこの場を切り抜けようとしていた考えが、全て吹き飛んだ。
「お前がっ──その言葉を言うのかっ!!」
怒りに理性を失った僕は、襟元を掴むフラネルの手に爪を立てた。そして強く力を入れて引きはがす。
「くっ……そうやってあの時も本性を隠して家にやって来たんだな……!」
「……本性など……貴様のような人間にだけは言われたくない!……ディアナの人生を奪った罪人などにっ!」
僕はそれまでの態度を一転し、フラネルへとこれまでの怒りと憎しみの全てをぶつけた。完全に後先のことを忘れ、慟哭にも似た憎しみを叫ぶ。愛する妻、ディアナが受けたであろう屈辱と悲しみを、この男にわからせてやりたかったのだ。
だがフラネルは口元を歪めて僕を嘲笑う。
「くく……奪ったか……確かに、彼女は私の妻として死んでいったからな」
「ディアナはお前の妻なんかじゃない!彼女は……彼女は……!」
「ははっ!やはりそうだったか!あの時から怪しい奴だと思っていたが……まさかお前が彼女を惑わし続けていた男だったとはな」
「っ──」
「お前のせいで彼女がいつまでも私になびかなかったんだ!……せっかく貴族である私の妻にしてやったのに、恩知らずなあの女め!」
その言葉がすべてを物語っていた。
(この男は──何一つ自分が悪いと思ってなどいない──)
怒りで指先が氷のように冷たくなっていく。僕がどんなにディアナの苦しみと悲しみを伝えた所で、この男には何一つ通じない。自らの欲望を満たすことにしか興味がないのだから。
「お前みたいな男をディアナが愛するわけがないだろう?こんな欲深い自分勝手な奴にっ……!」
「何をっ!」
そこからは互いを罵る言葉の応酬となった。頭ではこれではダメだとわかっていても、積年の憎悪を抑える術を知らない。決して交わることのない主張に、いつしか僕らは互いを掴み合っていた。
走行中の馬車の中で取っ組み合いとなり、狭い空間は悲鳴を上げる。御者が外で何かを叫んでいるが、僕らは互いを罵り合うのに必死で聞こえず、馬車がそのまま走り続けようとしたその時──
──ガタンッ!──
突然、馬車が大きく揺れた。
「くっ……!」
僕は背中から床に落ち、その上にフラネルが僕の襟元を掴んだまま倒れこんだ。胸に強い圧迫感を覚え呻くと、先に体勢を立て直したフラネルが、僕に馬乗りになったまま歪な笑みを浮かべた。
「はっ!無様だな……そうしていると、惨めに死んでいったあの女とお前がお似合いだとよくわかる」
「……貴様……!」
フラネルの侮辱に、僕は鋭く睨みつけるが、その顔が気に食わなかったのだろう。奴は拳を振りかぶるとそれを僕に向かって振り下ろした。
──ガッ!!──
「ぐっ!」
「よもや自分の立場を忘れたわけではあるまい?私は貴族で、お前はただの商人だ……それが何を意味しているか、体にわからせてやろうっ!」
──ドガッ!バキッ!──
「くっ……!」
座席の間の狭い床に身体が挟まり身動きが取れな腕で頭を防御するが馬乗りになった相手には敵わず、フラネルは嬉々として殴り続けた。
激しい殴打に口の中が切れて血の味がする。だが僕は痛みよりも別の感情でいっぱいだった。
(こんな酷い暴力を、ディアナやデイジーに向けていたなんて……)
この男が暴力的で嗜虐的な性格なのは知っていたが、自分よりも下に見ている人間に対して、ここまで非道になれるとは思ってもみなかった。だからこそこの男はディアナやデイジーの人生を壊しても何も感じなかったのだろう。
それからどれだけの時が過ぎたのか分からない。だが気が付けば馬車は停止していて、夕焼け色の光が開いた扉から差し込んでいた。
通りから慌ただしい人の声と足音が響き、フラネルのまくしたてるような怒りの声が聞こえる。殴られ続けたせいで僕の意識は半分飛んでいた。
ぐらりと視界が揺れたかと思うと、突然腕を強い力で引っ張られる。痛みに呻くがその手が緩むことなく、僕は馬車から引きずり出された。
「おい!こいつを捕まえて牢に入れておけ!」
その声に兵士達が一斉に僕を取り囲んだ。




