50 迷う心
翌日もデイジーは目覚めなかった。熱が下がらず、朝すぐに医者を呼んで診てもらったが、起きないことには薬も飲ませられない。
結局は額を冷やしたり、汗で濡れた体を拭いて着替えさせるくらいのことしかできなかった。それも使用人達がやるから、僕ができるのはせいぜい手を握ることくらいだった。だから僕はレスターに使いを出した。彼が側に居る方がデイジーも喜ぶだろうと思ったからだ。
朝一番で知らせを出せば、すぐにレスターは柊宮を訪れる。
「デイジーは大丈夫なんですか?!」
「エスクロス卿……来ていただきありがとうございます。デイジーはまだ目が覚めなくて……」
「……そうですか……あの、顔を見させていただいても?」
「えぇ、勿論」
レスターは私以上にデイジーのことを心配し、痛まし気な表情をしていた。彼がデイジーに会いたいと言うので、僕はすぐにそれを了承し、部屋に案内する。
急いで部屋に入っていくその後ろ姿を見守りながら、僕は二人のことを思った。
(デイジーに本当に必要なのは、代わりになる存在ではなく、愛する人そのものだ……)
デイジーが自分らしくいられるのは、父である僕の前ではないのだろう。そう、きっとレスターだけが、彼女を本当の自分でいさせてあげられるのだ。彼と共にあることが、デイジーにとっての本当の幸せなのだから。
「……エスクロス卿……デイジーを頼みます……」
閉じられた扉に向かって、僕は一人小さく呟いた。
その後、レスターは仕事が残っているというので柊宮を後にしたが、デイジーは未だ目覚めないままだった。医者は疲れが出たのだろうと言っていたが、僕にはデイジーが何に苦しめられているのか分かっていた。
眠り続けながらも、彼女は時折苦し気な表情をして謝罪の言葉を口にする。きっと僕とディアナに対する罪悪感からだろう。
彼女は自分が幸せになることを恐れている。自分のせいで、僕とディアナが幸せを失ってしまったと思い込んでいるのだ。だからレスターとうまくいきそうになって自分自身を責めている──僕にはそんな風に思えた。
その考えが頭にこびりついてからは、僕はデイジーの下へ足を運ぶのを躊躇うようになった。僕の存在が彼女の幸せの妨げになる、そんな気がしたのだ。
僕の代わりにはレスターがいる。彼は仕事の合間を見つけては何度も柊宮に来てくれた。このまま僕よりもレスターが側にいることが増えれば、二人の関係もいい方向へと変わっていくだろう。老いた父親など早々に娘の人生からは退場すべきだと、本気でそう思っていた。
「ん……朝か……」
微睡みつつも目を薄っすら開ければ、いつの間にか夜が明けていた。デイジーが倒れてから丸一日以上が経っていた。
「デイジー……」
窓越しに明るくなっていく空を見上げながらその名を呟く。夜半を過ぎてまで彼女の側にはレスターが付いていたから、僕は自分の部屋にいた。
パタパタと使用人達の動く音がし始めて、朝がやってきたのだと改めて自覚する。僕は重い頭と体を何とか動かして部屋の外へと出た。すると丁度そこには侍女のメルフィがいた。
「メルフィ……デイジーの様子はどう?」
「あ、エルロンド様……まだお熱があるみたいです。今、水分だけでも取ってもらおうと、準備しているところです」
そう言ったメルフィは、新しい水差しを部屋に持っていく所だったようだ。
「そうか……すまない。彼女の為に色々と手を尽くしてくれて……」
「いいんですよ。それよりもエルロンド様の方が酷いお顔です。きちんと休まないと」
「うん……そうなんだけどね……」
「先に朝食を取ってください。そんな顔色で病人の前で倒れたらどうするんですか?デイジー様が心配されますよ?」
「……メルフィには敵いそうもないな」
「ふふ、これでも私はデイジー様付きの侍女ですからね」
酷い顔色だと逆に心配され、メルフィの提案に押し切られてしまう。僕まで倒れられたら困ると言われては、素直にその言葉に従うしかなかった。
自室に押し戻されて食事をし、その後医者と少し話していると、やがてレスターが柊宮へとやって来た。彼が自分の屋敷へと戻ってから、まだ幾ばくも経っていないが、デイジーのことが心配で、仕事前にまた寄ったのだろう。
「デイジーの様子はどうですか?」
「まだ目覚めていないんです」
開口一番にデイジーの様子を問うレスターに、僕は昨日と同じ答えを返すことしかできなかった。
デイジーの体調は変わらず、まだ熱が高い状態が続いている。水分は口元に濡らした布をあてて与えてはいるが、いかんせん目が覚めないことには食事もとらせられない。昨日と同じで、目立った進展はないままだった。
「……そうですか……少し顔を見ていくことはできますか?」
「えぇ……ですがエスクロス卿も顔色が随分と悪い……休まれていないのですか?」
「私は大丈夫です。デイジーの辛さに比べたらこんなのはどうってことないですよ」
そう答えるレスターの眼の下には、はっきりとクマができていた。きっと昨夜も帰った後に仕事をしていたのだろう。忙しい最中もデイジーのことを優先して、無理して休まずに仕事をこなしているのだ。
(これではレスターまで体調を崩しかねないな……)
ここまで尽くしてくれるレスターには感謝しかないが、無理をするその姿に心配になってくる。彼が体調を崩してしまったらデイジーも悲しむだろう。
「では失礼して、デイジーに会ってきます」
「えぇ……よろしくお願いします」
僕の心配をよそに、レスターは早速デイジーの下へ向かうと言ってその場を辞した。この後も仕事が控えているのだろう。随分と疲れた顔をしているが、ピシッと仕事用の服を着こなし颯爽と歩く姿には隙が無い。きっとデイジーの前では弱みを見せないようにしているのだ。
その後ろ姿に頼もしいものを感じながら、僕はデイジーの下に向かうレスターを見送った。
すると僕らのやり取りを聞いていた医者が、呆れたように口を開いた。
「全く、この宮にいる方は誰もが無理をなさるから、医者としては大いに不満が募りますな」
「すみません……どうも心配で仕方なくて」
「患者を心配するなら、相手から心配されないように自分の体調を整えるのも大事ですぞ。貴方もさっきの彼もな」
そこまで意識していなかったが、確かにデイジーが倒れてからというもの、食事も睡眠もおろそかにしてきた。バツが悪くなって黙り込むと、追い打ちをかけるようにして医者にしっかり釘を刺された。
「患者が起きた時の為にも、しっかり休まないといけませんぞ?」
「そうですね……だが彼女が目覚めないことにはどうにも眠れなくて……」
そう正直に自分の気持ちを吐露していると、俄かに部屋の外が騒がしくなった。人の足音が廊下に響き、何かがあったのだと感じる。それが良い知らせなのか悪い知らせなのか分からずに椅子から腰を上げれば、すぐに僕らのいる部屋に使用人がやって来た。
「デイジー様が目覚めたようです。今、侯爵様がすぐにエルロンド様にもお伝えするようにと……」
「あぁっ……!よかった……!」
待ちに待ったその言葉に、思わず呻くようにして安堵の息を漏らした。重たい胸の痞えがとれたようで、久しぶりにまともに息が出来た気がする。
「やれやれ、これでようやく患者になりかけの者達も回復してくれそうだ」
僕の様子を見た医者は、大きくため息をついて腰を上げた。患者になりかけの者達というのは、僕とレスターのことなのだろう。
「とりあえず患者には消化の良くて滋養のあるものを食べさせてくださいな。それとさっきの彼にもな。あれは今にも倒れそうでしたぞ」
「えぇ、そうですね。すぐに手配します」
「よし。じゃあ儂は患者を診てきますかな」
僕の返事を聞いた医者は満足気に頷くと、患者の様子を見てくると言って、そのまま部屋を出て行った。




