49 歪な幸せの形
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『エル、いってらっしゃい』
『あぁ、行ってくるよ。ディー』
笑顔のディアナが仕事に行く僕を見送ってくれる。二人で暮らす小さな家のその前で、僕らはいつものように口づけを交わした。
柔らかな頬をそっと撫でると、ディアナがくすぐったそうに目を細めて笑う。
『もう、悪戯ばかりして』
『ふふ、君と離れるのが名残惜しくてね』
『それは私もよ、エル。でもお仕事に行かなくちゃ』
『あぁ……仕事に行くのがこんなに億劫になるなんて。君とずっと一緒にいられたらいいのにな』
『ふふっ、いけない人ね』
僕は子供のようにディアナの前で駄々をこねて、それを彼女に笑われていた。けれどそうして彼女を笑顔にできることが何よりも嬉しい。そんな何気ないやり取りに幸せを感じる。
こんな日々がずっと続けばいいのにと思っていた。しかし──
『……ディー?』
『エ……ル……』
気が付けば大きな影がディアナのいる小さな家を覆っていた。いつしかそれは覆いかぶさる影と共に崩れ始め、ディアナの笑顔を埋め尽くしていく。
『!!ディーっ!!』
僕は必死に彼女へと向かって手を伸ばした。けれどどんなに手を伸ばしても、僕が近づこうと走っても、そこには届かない。
崩れ落ちていく彼女の姿は、遠く小さく消えていき、やがてどこにも何も見えなくなってしまった。
『ディーーっ!!』
悲痛な叫びも伸ばした手も、最早何の役にも立たない。崩れ落ちた幸せの象徴は、もう欠片さえそこには残っていなかった。
『ディー……』
僕は何も無くなったその場に跪き、ディアナを思って泣いた。愛する人を失ったその心の痛みに、いっそ死んでしまった方が楽だとさえ思えてくる。
その時、蹲る僕の肩に誰かが触れた。
気が付けばすぐ傍らに子供がいて、心配そうにこちらを見つめていた。
『どうして泣いているの?』
嗚咽を漏らしながら、僕はその問いに何とか答える。
『…………悲しいから……』
『どうして悲しいの?』
『……愛する人を……失ってしまったから……』
『どうして失ってしまったの?』
その子供はただ問うているだけで、何も責めてはいない。けれど、僕にはその言葉の一つ一つが、ナイフのように心の深いところに突き刺さるのを感じた。
『僕のせいだ……僕が……』
子供の問いかけに答えていくうちに、僕は次第に自分の中にある感情をせき止められなくなっていった。
『……僕が……悪かったんだ……彼女を守れなかった……僕のせいだ……!ディアナが攫われたのも、彼女が一人孤独に死んでしまったのも……!全部……全部全部!』
『貴方のせいじゃないわ』
慟哭とともに想いの丈を吐き出すと、子供が泣きそうな声で僕を慰める。
その声があまりにも優しくて、僕は肩に置かれた小さなその手に縋って泣いた。
『うぅ……』
『泣かないで……エル……泣かないで……』
僕の名を呼ぶその声に、ハッとして顔を上げた。
そこには愛しい人と同じ翠玉色の優しい眼差しがあった。
『ディー……?』
その名を呼べば、翠玉色の眼差しが切なげに揺れる。
僕は失ったと思った愛しい存在をそこに見出して、必死にそれに縋った。その小さな小さな子供に。
『ディー……ディアナ……僕の……愛しい人……』
翠玉色の瞳を持つその子を、僕は愛しい人の名で呼び、きつくその小さな身体を抱きしめる。
絶望の中に差し伸べられた優しさに、僕は溺れていった。
『ディー……行かないで……お願いだ……ディアナ……ディアナ……』
けれどその子は首を横に振るだけで、僕の願いに答えてはくれなかった──
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「……ディアナ……」
目を覚ますと、そこに愛しい人の姿は無く、ただ真っ暗な闇が広がっているだけだった。
「夢……か……」
あまり気持ちのいい夢ではなかった。寧ろ酷い気分になる夢だった。
「…………僕はあんな……」
夢の中で自分が晒していた醜態に、眉を顰める。ディアナを失った悲しみを紛らわせる為に、子供に縋っていたのだ。まるでその子供をディアナの代わりにするように。
夢の内容についてモヤモヤとした気持ちを抱えながら考えていると──
「…………うぅ……」
「っ――!デイジー!」
デイジーがうなされているのを耳にして、ハッとして我に返る。
「デイジー……大丈夫か?」
声を掛けるも目が覚めたわけではないのだろう。苦しそうに息をするだけで、閉じられた瞼は開きそうもない。
僕は落胆のため息を一つ落とし、彼女の額に触れた。乗せていた濡れ布巾は、随分温くなっている。
僕は布巾を取ると側に置いてある盥の水に晒してゆすいだ。そして再び固く絞ってデイジーの額へと置く。
「ん……」
冷たいのが気持ち良かったのか、デイジーの様子が幾分か穏やかなものになった。そのことに安堵の息を漏らすも、それは一瞬で崩れ去る。
「……ごめん……なさい……エル……お母さま……」
「っ──」
小さく漏れ出た謝罪の言葉。気が付けばデイジーの堅く閉じられた眦から、ジワリと滲むものが雫となって落ちていく。
「……デイジーっ……」
彼女が夢の中でもまだ自分を責め続けているのだと知り、僕は絶望した。どんなに時が経っても、何度もデイジーのせいではないと言っても、彼女が自分の心に課した枷は未だ外れないままなのだ。
「まさか……僕のせいで、君はまだ苦しんでいるのか……?」
先ほど夢に見た内容と今の状況を重ね合わせて、次第に血の気が引いていく。
夢の中で僕は、ディアナと同じ瞳を持つ子供に縋っていた。その子をディアナと呼びながら……。
僕がディアナの名を呼んで悲しむ度、デイジーが見せた切ない表情。僕を慰める為に、その名を優しく呼んで、ディアナの代わりになろうと必死で微笑んでいたあの子の顔は──
「ずっと泣いていたのか……自分を責めながら……」
ずっとずっと、彼女が僕の世話をするのは、失った恋人の代わりにする為だと思い込んでいた。けれど……本当はそうではなかったのかもしれない。
デイジーはずっと僕とディアナに対して、大きな罪悪感をもっていた。僕が失ったディアナの代わりになろうと、必死でその役目を果たしていたのだ。
自分の為に生きずに、ただひたすらに僕の為に生きてきたのだ。
「あぁ……すまない……すまないデイジー……」
僕がもっとしっかりしていたら。ディアナを失った悲しみを、デイジーが自分を責めずにいられるようにちゃんと隠せていたなら。彼女はここまで自分を犠牲にしなかったかもしれない。ちゃんと自分の為に自分の人生を歩んでいたかもしれないのに……。
夢の中で見た光景が真実を物語っている。
デイジーを支えているつもりで、僕はずっと、彼女の存在にディアナを投影してきたのだ。自分の寂しさを身勝手な優しさで包み込んで誤魔化して。
そしてデイジー自身も、自分がディアナになりきることで、罪悪感を誤魔化そうとしたのだろう。
僕らは互いを支え合っているつもりで、歪な形で依存しあっていたのだ。そのことに今まで何も気づかないでいた。それが普通の幸せだと思っていたから。
けれど僕は気が付いてしまった。それが本当に互いの幸せの為ではなかったのかもしれないのだと──




