37 父と娘の日々と懸念と
デイジーと再会を果たした後、僕らは様々な国を巡った。彼女が生まれ育ったフィネスト王国からは遠く離れることになったが、あの国であったことを思うと近くにいるのが心配だったのだ。
幸いなことに僕は各国に拠点のある大商会の会長だったから、仕事にかこつけてデイジーを色んな国に連れて行くことができた。
フィネスト王国から出たことの無かったデイジーは、異国の景色や変わった風習など様々な物に触れて次第に笑顔を取り戻していく。その度に本当の家族になれたと実感するようになっていった。
僕らは、失った時を取り戻すかのように多くの時を共に過ごした。そして気が付けばあっという間に数年が経過していた──
「エル、お茶が入ったわ。少し休憩したらどう?」
「もうそんな時間?うん、もらうよ」
商会の執務室で書類と格闘していると、デイジーがお茶を持って来てくれた。応接用の広いテーブルに茶器を並べ、手慣れた様子で香りのいいお茶を入れる。
「お昼も食べてないでしょう?軽くつまめるものを作ったから、これも食べてね」
「いつもありがとう。やぁ、今日も美味しそうだね」
デイジーが用意した軽食は、僕が好んで食べる木の実入りのパンにハムや野菜を挟んだものだ。準備ができると彼女は執務机に座る僕の所へやって来て、早く休憩をしろと背中を押す。その世話焼きっぷりに苦笑しながら、僕は彼女に促されるままにテーブルの方へ向かった。
共に過ごすようになって以来、デイジーは僕の世話焼きに熱心だ。初めの頃はあまり慣れずに失敗を繰り返していたが、今ではかなり上達している。料理だけでなく、大抵の家事は一人でできるまでになっていた。
「ん、美味しいね。パンと具材の組み合わせが最高だな」
「ふふ、そうでしょ?色々試してみたんだけど、木の実入りのパンにはこの組み合わせがいいかなって」
軽食を頬張りながら素直に美味しいと褒めると、デイジーが嬉しそうに笑う。今ではすっかり打ち解けて、豊かな表情を見せてくれるようになっていた。
彼女は僕が食べている姿を見るのが好きなのか、お茶を飲みながらじっとこちらを見て、視線が合えばその度に微笑んでくれる。
そんなデイジーの様子に、僕はディアナのことを思い出していた。そして気が付けばそれを口にしていた。
「そうしていると何だか……あの頃のディアナを思い出すな……」
「お母さまを?」
僕の呟きを聞いて目を丸くしているデイジー。それでようやく僕は心の内を口にしていたことに気が付いた。
極まりが悪くなって視線を外すと、デイジーが不安げに声を掛けてくる。彼女は、僕がディアナのことで心を痛めていないか心配しているのだ。
「エル……大丈夫?」
「あぁ……何でもないよ、大丈夫。こうして君が用意してくれた食事を食べながら笑い合っていると、ちょっと昔を思い出してね……ディアナもよく僕が食べているのを見ながら笑顔を浮かべていたから」
「そうなんだ。お母さまも料理していたのね」
「あぁ、そうだね。最初はデイジーみたいに慣れなくて失敗だらけだったけど」
「もうっ!それは言わないでって言っているのに!」
僕が茶化して言うと、ようやくデイジーも安心できたのか少し怒った風に振舞ってから声を上げて笑い出した。
(本当に……君は彼女によく似ているよ……)
平民としてディアナと暮らした僅かな時。あの頃のディアナと同じようにデイジーは幸せそうに笑っている。まるでディアナが戻って来たみたいに。
けれどようやく取り戻した家族との時間を嬉しく思う一方、少しだけ不安に感じていることがあった。
「この分ならディーはいつでも素敵なお嫁さんになれるね」
「……そうかしら」
「そうだよ。料理や家事もできるし、こうしていつも気遣ってくれるだろう?優しくてしかも美人ときたら文句なしだよ」
「……」
「君がお嫁に行ってしまうのは寂しいけれど、花嫁姿を見るのは楽しみだなぁ。誰かいいなと思う人はいるのかい?」
「…………そんな人いないわ」
僕がこういう類の話をすると、デイジーは途端に表情を曇らせる。彼女は居心地悪そうに視線を逸らした。それでも僕は諦めずに話しかける。
「そうか……でもこないだ取引先の子に食事に誘われてなかったっけ?あの子とはどうだったの?」
「あれは……断ったから。ほら、仕事も忙しいし」
「仕事は僕に任せておけばいいんだよ。たまには息抜きに誰かと食事したって文句なんて言わないよ?」
「……でもエルが一人になっちゃうでしょう?私がエルに食事を作ったり一緒に食べたりしたいから……」
「それはありがたいが……」
「この話はもういいでしょう?エル、私ちょっと後片付けが残っているから……食器はまた後で取りにくるわね」
「あ、ディー──」
デイジーは無理やり話を切り上げると、すっと席を立ち、部屋から出て行ってしまった。
「……はぁ……うまくいかないな……」
僕はため息を一つ吐くと、額に手を置いて項垂れた。いつもこの調子でデイジーにはぐらかされている。何度もこの手の話をしようと試みたが、今のところ成功していない。あまり強く言うこともできないので逃げられてばかりだ。
「せめて少しでもディーの心を動かせればいいんだけど……」
デイジーは一見穏やかで優しい。だが芯の所では結構頑固な所がある。その強さはディアナにそっくりだ。
デイジーがこの手の話を避ける理由はわかっている。過去の婚約破棄が大きな傷を残しているのだろう。その件に関しては、あの国を出て暫くして彼女自身の口から事情を聞いていた。
「……婚約破棄……か」
相手は侯爵家の嫡男、しかも宰相の息子だった。普通ならば政略だと思う所だが、驚くことに相思相愛の仲だったという。しかし結果としてその婚約は破棄された。
詳しい事情を聴けば、デイジーは何者かの罠に嵌められたとしか思えないような顛末だった。宰相に取り入りたい人間の仕業か、逆に宰相を陥れようとする者の仕業か……どちらにせよデイジーは無実の罪を着せられ、相手の男に捨てられたのだ。
「まだ相手のことを忘れられないのか……ディー……」
酷い目にあったというのに、デイジーはまだ相手のことが好きなのだろう。時折ぼんやりと虚空を見つめては儚いため息を落とし、悲し気な表情を作っていた。その心が別れた男に囚われたままなのは明らかだ。
僕からしたら、好き合って生涯を共にしようと約束したくせに、愛する者を信じずに捨てた男など想うに値しない。だからさっさと忘れて欲しいのに、デイジーの心は前の男から動かないのだ。
いざ自分に好意を寄せてくる相手がいればそれを酷く嫌がるし、僕以外の男に対してはいつもどこか一線を引いている。誰かを紹介しようとしても、困ったように「こういうのはしないで」と叱られる始末だ。
その一方で、デイジーは僕の世話を焼くのに熱心だ。まるで妻が夫にするかのように、あれこれと気を配り、僕を生活の中心にして日々を過ごす。
初めは家族の時間を取り戻せてただ嬉しかった。けれどそれが、デイジーの苦悩の表れであるとわかってからは、それが僕の心配の種となってしまった。
デイジーは失った恋を忘れられないのだ。心はずっと過去に囚われたままで、他の人を見つけようとすることさえ諦めている。なのに誰よりも愛を欲していて、悲しみの淵でいつまでも喘いでいるのだ。
だから己の矛盾する心を誤魔化すように、そして寂しさを補うように、彼女は僕の世話に必死になっている。それが酷く痛々しくて、見ていられなくて……何とか新しい恋を見つけてあげたいと思っても、彼女は頑なにそれを拒み続ける。
けれどデイジーだけを責める事はできない。僕自身ずっと一つの恋に囚われているから。
僕とディアナがそうだったように、娘のデイジーも同じような恋をしたのだろう。だがデイジーの恋は成就することがなかった。それが大きな傷となって、次に踏み出せないのだ。
「……いつかディーの心が癒えて、新しい幸せをみつけてくれたら……」
父としての願いが、いつかデイジーに届いて欲しいと願わずにいられなかった。




