36 父と娘の出会う時
暫くして僕の話をじっと聞いていたデイジーが、ぽつりと呟いた。
「……母と貴方は本当に愛し合っていたのですね……」
ハッとして視線を上げると、彼女の美しい碧玉色の瞳には涙が浮かんでいた。まるで失われた僕らの時を惜しむかのように。
(あぁ……君は……僕らの愛を信じてくれるのか……)
デイジーが、僕とディアナの過去を信じてくれたのを確信した。その瞳には、確かに母親を想う優しい心と、その悲劇を嘆く悲しみとが垣間見えたから。
永遠を誓い合ったディアナが遺してくれた大切な娘。これまでその存在を知らず、僕はどれだけ酷い父親だっただろうか。
けれど彼女は、出会ったばかりの僕の話を信じてくれた。その事実に例えようの無い喜びが胸に広がっていく。もう一度、僕は手に入れることが出来るかもしれない。僕らが求めていた愛する家族との暮らしを……。
「……私たちは家を飛び出し、平民として暮らし始めた。懇意にしていた商人の友人に頼んで、働かせてもらったんだ」
今思えば、あの頃が最も幸せだったかもしれない。何者でもないただ一人の男と女として、慎ましい暮らしの中に生きる喜びを分かち合っていた。
もしあの時のまま、今も暮らしていたらどうだったろう?僕らの間にデイジーが生まれ、その成長を二人で見守って。仕事が終わって家に帰れば、ディアナとデイジーが待っていてくれる。
そんなごく普通の生活が、こんなにも遠く儚い夢だったなんて──
「ディアナは平民の暮らしも厭わずに、慣れない家事をして私を支えてくれた。私はそんな彼女を何とか幸せにしたいと、必死に働いていた。だが──あの男がやってきて全てが変わってしまった──」
「……フラネル子爵ですね……」
「あぁ……そうだ。あいつが彼女を……ディアナを攫ったんだ」
愛しい日々は、あの日──唐突に終わりを告げた。二人で夢見た永遠は、卑劣な男の手によって引き裂かれたのだ──
「……ディアナはとても美しかった……それは彼女が平民になったとしても変わらない……だがそのせいであの男に目をつけられてしまった……」
天から舞い降りた女神のように、美しかったディアナ。時に奔放な妖精のように可愛らしく、お茶目でお転婆で。彼女はあんなにも生き生きと僕の隣で輝いていたのに──
「……気が付いた時には、ディアナはいなくなっていた。私は最初彼女の家の者達が連れ戻したのではないかと思ったんだ……けれど真実は全く違っていた。既に彼女はあの男によって国外に連れ去られた後だった……!」
過去に戻りたいと何度願っただろう?あの日に戻れたなら、絶対に彼女の側を離れないのに……もし彼女を見失っても必ず見つけて、この手に取り戻すのに……!
「あの男は人を使ってディアナを無理やり連れ去った。私が彼女を平民にしてしまったから、彼女は無防備な状態で誰にも助けを求めることもできなくて……っ」
犯した罪の重さに心が悲鳴を上げる。
ディアナを守ると誓ったのに、ずっとそばにいると言ったのに……僕はその約束を守れなかった。愛する人を守れなかった……。
「そんな事が……とても信じられない…………」
デイジーは僕の話を聞いて、言葉を失っていた。父親と信じていた男が、母親を攫って無理やり妻にしたのだと言われたのだから当然だろう。
僕は今更ながらに自分の不甲斐なさを思い知らされた。僕はディアナだけでなくデイジーまでも不幸にしてしまったのだから。
「ディアナが連れ去られてからのことは……この日誌の内容で初めて知った。私は自分の力の無さを大層悔やんだよ。もし私が彼女を守るだけの強さを持っていたら──彼女を見つけて助け出せるだけの力があったら……そうしたら君にもこんな苦労をさせなくて良かったのに……」
まるで掛け違えたボタンのように、僕らの運命はすれ違ってしまった。何か一つでも違っていたなら、僕らの望む未来があったかもしれないのに……けれど過去は変えることは出来ない。僕らは今歩んでいる道を進むしかないのだから。
僕の話を聞いて、デイジーは再び黙って俯いてしまった。そして何かを考えこむようにした後、再び口を開いた。
「……母と貴方のことはわかりました……けれど本当に私は貴方の娘なのですか?母は私があのフラネル子爵の娘だと……子爵も私を長子として扱っていました……」
デイジーは不安げにそう聞いてきた。まだ僕が彼女の実の父親であるという確信がもてないのだろう。だがあの卑劣な男は、決してデイジーの父親などではない。それはデイジーを見ればわかる。僕は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「……それは彼女が……ディアナが、君を守る為に嘘を吐き続けることを選んだからだ」
「え──?」
「君の美しい翠玉の瞳は、本当にディアナにそっくりだ……そしてこの柔らかな亜麻色の髪は──」
僕は自分の髪をつまんで見せた。僕の亜麻色の髪は、デイジーと同じ色だ。それを見たデイジーの目が大きく見開かれる。
愛しい妻の瞳と、僕と同じ髪色のデイジー──彼女は確かに僕とディアナの娘だ。
「本当にディアナが日記に書いていた通り、君は私に似ている所がたくさんある。君は確かに私の娘だよ……ディアナが私の下から連れ去られた時、既に君は彼女のお腹の中にいたんだ」
「っ──」
僕らが望んだ未来を手に入れていたのなら、次第に大きくなるディアナのお腹をさすって、名前をどうしようか、男の子だろうか女の子だろうかと、生まれるまでの日々を楽しみに語り合っただろう。
だが彼女は連れ去られてしまった。僕らは家族でありながら共に過ごすことが叶わなかった。
それでもディアナは、いつか再会すると信じていた僕の為に様々なことを書き遺してくれていた。まるで僕が、彼女たちのすぐそばにいるかのように語り掛けながら。
「……ディアナの想いは、残された手紙と日誌に綴られていた…………彼女が、君をあの男の娘だと偽った理由は君の為だ、デイジー」
自分を攫った憎い相手の子供だと偽らなければならなかったディアナは、どれだけ血の涙を流したことだろう。けれどそうしなければ、僕らの娘は今ここにいなかったかもしれない。
「──君がフラネルの子供ではないと知られれば、殺されるかもしれない……ディアナはそう思ったんだろう。そして事実、あの男はそういう人間だ……彼女は君の命を守る為に、あの男の妻になることを選んだ……」
「そんな……そんな……あまりにも酷い……酷すぎる……」
今度こそデイジーは、顔を酷く青ざめさせて黙り込んでしまった。その様子を見て僕は、フラネルについてありのままに話したことを後悔した。いくらそれが真実だとしても、デイジーにとっては残酷すぎる過去だ。
未だ心身ともに傷ついている状態で真実を知ることが、本当にデイジーの為になるのか――それを真剣に考えなければいけなかった。
己の愚かさに唇を噛んでいると、やがてデイジーがぽつりと呟いた。それは想像もしない言葉だった。
「……母があの男から逃げ出せなかったのは……私のせい……だったので……す……ね……」
「っ──!!それは違うっ!!君のせいじゃないっ!君は何も悪くないんだ──っ!」
僕は慌てて否定し、デイジーの小さな体を抱きしめた。何ということだろう。彼女は自分を責めていた。母親の苦しみが、自分のせいなのではないのかと。
抱きしめた腕の中で、小さな肩が微かに震えている。布越しに温かいものが染み込んできて、それが涙だと分かった時、心が千切れてしまうかと思った。
「ごめん……僕がもっと早く君を見つけられたら……そうしたら……」
絞り出した謝罪は、小さく掠れて嗚咽の中に消えていく。溢れ出す感情の渦に翻弄され、気が付けば僕は、子供のように声を上げて泣いていた。
(情けない……僕はなんて罪深くて愚かなんだ……結局僕は彼女を傷つけることしかできなかった)
父親として認めて欲しいばかりに、僕はデイジーを傷つけてしまった。もっと彼女の気持ちを考えて言葉を選ばなくてはならなかったのに。
己の犯した愚かな罪への後悔と怒りとで、とめどなく流れてくる涙を止めることが出来ない。そんな時──
「お……とうさん……」
「──!!」
(今……なんて……)
腕の中から聞こえた小さな呟き。驚いて僅かに体をデイジーから離すと、翠玉色の眼差しが、涙を湛えながらこちらを見つめている。
その言葉が信じられなくて、けれどそれを求める心はとても正直で。高鳴る鼓動が全身を駆け巡る。
縋るように見つめ返すと、くしゃりと泣き崩れるような笑みを浮かべてデイジーが言った。
「貴方が私の本当の……」
「あぁ……っ」
ようやく出会えた、愛しい人が遺してくれた大切な命。もう二度と傷つかないように、誰にも奪われないように、震える腕で抱きしめる。
あの人と夢見た未来。愛する家族に囲まれて、幸せな家庭を築くというどこにでもあるようなそんな未来を、僕はもう一度手にしたんだ。
ディアナ──愛するディアナ──
僕は君の分も必ず娘を幸せにすると誓うよ。
だから天国で見守っていてくれ。
僕達が夢見た未来を作る様を。




