33 傷ついた少女
僕らを乗せた馬車は、出立したその日の内にフィネスト王国を出た。王都から随分長い道のりだったが、この国に留まる危険を冒すくらいなら無理を通した方がいいと判断し、道を急いだ。
揺れる馬車の中で、僕は目の前の座席に横たわるデイジーを見つめていた。フラネルの屋敷から連れ出したデイジーは、出立した後もずっと眠ったままだった。
随分と痛めつけられたのか、時折酷く苦しそうにうなされていて、僕は彼女も儚くなってしまうのではないかと恐怖に慄いていた。
意識の無い彼女の頭を撫でては、誰に聞かせるでもない己の不安な心の内を呟く。
「デイジー……君は僕のことを父として認めてくれるだろうか……」
まだちゃんとデイジーと言葉を交わしてはいない。いきなり商人に売られるような形で連れ去られて、彼女はどう思うだろうか?嫌だと泣き叫ぶだろうか?僕の話を信じてくれるだろうか?そんな不安が頭をよぎる。
けれどデイジーは、ディアナが遺してくれた大切な宝物だ。もし彼女に拒絶されたとしても、僕が彼女をこれからも助けていくことに変わりはない。
「早く君と話がしたいな……ディー」
眠り続ける娘と愛する妻の名を呼びながら、僕はその時が来るのをひたすら待った。
「エルロンド様、あと一刻程で宿場へ着きます。先触れを出しますか?」
「あぁ、一番いい宿を取るように伝えてくれ」
「畏まりました」
宿場町に近づいたので、僕は部下の一人を先触れに出して宿泊の準備を整えさせた。隣国の宿だから、ようやく安堵できる。
「……後はデイジーが目覚めてくれれば……」
そう呟いた時だ。
「っぅ……」
微かな呻き声に視線を戻すと、亜麻色のまつ毛が細かく震えているのが目に入った。
「っ──」
ハッとして息を飲むと、待ち望んでいたその目がゆっくりと開いていくのが見えた。
虚ろに揺らぐ翠玉色の瞳。それは僕の愛した人と同じ澄んだ色。
思わず座席から立ち上がって床に跪き、間近で彼女の顔を覗き込んだ。
「ようやく……君に会えた……」
感動のあまり喉の奥がきゅっと締まり、うまく声が出せない。掠れて震えるその言葉に、目を開けたばかりのデイジーは、不思議そうな顔をしていた。
「デイジー……君はデイジーという名前なんだろう?……ディーが……ディアナがそう名付けたと……」
もう何度も呼び掛けたその名を、目覚めている本人に向けて問いかける。
例え血が繋がっていたとしても、僕らの間には──いや特にデイジーにとっては、その身に流れる血以外に何の繋がりも無い相手だ。だから僕は必死に彼女の名を呼び、僕らの間にある絆を確かなものにしたかった。
ディアナが名付けた“デイジー”という名前。それは僕らの思い出の地に咲いていた可愛らしい花の名だ。そしてディアナが何も知らない僕の為に、娘の愛称を呼べるようにと考えた末につけてくれた名だ。
(デイジー……なんて愛しい……なんて愛しいんだ……)
ようやくちゃんとこの目に映すことのできた娘の姿に、そして彼女の名を呼べる喜びに、溢れ出す感情を抑えることが出来ない。
涙がとめどなく頬を伝っては零れ落ち、掛けるべき言葉は嗚咽の奥に消えていった。何度も繰り返し練習していたはずの再会の台詞など、とうにどこかへ飛んでいってしまったから。
そんな風にみっともなく泣きはらす僕を、デイジーはただ不思議そうに見つめていた。彼女の瞳は、本当に綺麗な翠玉色をしている。
デイジーは僕たちの娘だ。愛しい人が遺してくれた大切な宝物。その瞳に愛しい人の面影を宿し、二人の思い出の名を付けられた尊い命。
「あぁ……神様……本当に感謝します。私の命よりも大切な宝物を、こうして取り戻させてくれたことを……心から……」
泣きながらようやく僕が絞り出せたのは、娘と出会わせてくれた神への感謝の言葉だった。
暫く泣きはらした後、僕はデイジーに事情を説明することにした。
「……みっともない所を見せてしまってすまない……」
床から立ち上がり再び座席へと戻ると、居住まいを正してデイジーへと向き直る。
「私はエルロンド・フリークス。フリークス商会の商会長をしている。デイジー、君のことをずっと探していたんだ。君は私にとって大切な人だ。だからこれからは私が君を守るつもりだ。安心して、そして怖がらないでいてほしい」
「……」
彼女を安心させようと自己紹介を兼ねて声を掛けるも、デイジーからの返答は一切ない。
「デイジー?」
「……」
あまりに反応が無いので、最初は僕のことを警戒しているのかと思った。だが彼女の様子を見ていると、どうやらそうでもないようだ。
手をデイジーの顔の前にかざして横に振る。けれど翠玉色の瞳は僕の手を追うこと無く、ぼうっとただ前をみているだけだった。
「デイジー……」
ようやく果たした再会の喜びに浮かれていて、僕はデイジーの状態に何も気が付いていなかった。彼女は体と共に心を酷く傷つけられて、言葉を失ってしまっていた。
やがて宿場町へとたどり着いた僕らは、すぐにデイジーを休ませる為、宿に入る。馬車を宿の店先に止め、扉を開けてデイジーを先導しようとするも、彼女はただ茫然と座っているだけで反応がない。
「デイジー、宿に着いたよ」
声を掛けてその手を取ると、言葉は理解しているのか僅かに腰を浮かせた。しかし──
「っ──!」
体重がその足に掛かった瞬間に、デイジーはよろけてしまった。慌ててその体を支えるが、彼女の足は自身の体を支えることが出来てはいない。デイジーは、心身の衰弱が酷くて自分の力では歩けないようだった。
僕は彼女の体を抱き上げると、馬車から降りて宿の部屋まで運んだ。
抱き上げた身体は酷く痩せていた。少しでも力を入れたら折れてしまいそうなほどに細い。
僕は慎重にデイジーを抱きながら、同時に彼女が怖がらないようにと声をかける。
「……大丈夫、何もしないから安心して」
相変わらず僕の言葉に何も反応を返しはしなかったが、彼女の身体からは特に緊張は感じられなかった。
(拒絶はされていない……けれど心が反応していないみたいだ……)
あの卑劣なセフィーロ・フラネルから酷い暴力を受けていたのだ。デイジーがそれに傷付き、心を閉ざしてしまっていてもおかしくはない。
視線を落とすと、彼女の目は虚ろに宙を見つめている。先ほど目覚めた時は、微かに表情のようなものが見えたが、今はまるで人形のようにされるがままだ。けれど──
(温かい……)
手からデイジーの温もりを感じる。その命が、確かに自分の腕の中に存在していると思うだけで、魂が震えるほどの歓喜を覚える。
(生きていてくれてありがとう……)
愛する人が遺してくれた娘が生きている──ただそれだけで嬉しかった。




