5.蒼の騎士の懊悩(1)
クロイツが逃げるように向かったのは、公爵家の素晴らしい庭園だった。
幼少の頃からアドラー公爵家を訪れていた彼の足は、自然と覚えている道筋を辿ってしまったようだ。庭園の中心に提灯を下げた東屋があり、そこまで辿り着いてようやく正気を取り戻した。
東屋の周りは自然の森を模した造りとなっており、背の高い木々の足元には、高山植物など山で見られる楚々とした花がさり気なく配置されていた。
庭師が丹精込めて造り上げた公爵家の庭園はテーマごとに演出されており、中でも人気なのは国内外のあらゆる品種の薔薇を集めた薔薇園だった。アドラー公爵家で催される夜会や茶会では、有名な薔薇園を一目見ようとそちらに人が集まる傾向がある。この為、心を落ち着かせる目的で深い森を模して造られた平凡な庭は、公爵家の栄華を堪能する目的で訪れた夜会の客人達の目をあまり引かなかった。『平凡』といっても、庭師が自然に見えるように精密に設計した結果そう見える演出を施したものなので、時間も手間も費用も実は薔薇園より多くを費やして造られているのだが。
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クロイツはカーと共に夜会で常に注目を集めていた。ご夫人や令嬢の目を盗んで、幼い頃かくれんぼに使ったこの庭に、よく逃げ込んだものだ。元来生真面目な性質の彼は、ここで溜まった疲労を解放する習慣があった。お蔭で今では一人でも迷わず目指せるほど、馴染みの庭になっている。
公爵家令息とは言え気楽な三男のカーと違い、クロイツはバルツァー侯爵家の嫡男だった。長子としての厳しい教育を受け、日々努力を重ねてきた。社交でも卒なく振舞う事ができるし、群がる女性をスマートに扱う事にも慣れた。バルツァー家次期当主はこういうモノだという『当主像』を演じている内に、いつの間にか自分の体は殆ど『当主像』そのものになってしまったと感じるぐらい、自然に振舞える。
しかしレオノーラの前に出ると、反射的に奥手で気後れしてしまう自分が、顔を出してしまう。必死に身に付け今ではそのものになっている筈の、堂々とした『侯爵家の嫡男クロイツ=バルツァー少尉』は何処かに雲隠れしてしまうのだ。
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自分でも『頭がやや固い』という自覚はあった。
あるべき『バルツァー侯爵家当主像』を厳格な祖父から叩き込まれ、理想を目指してきたからこそ自分に厳しく他人にも厳しかった。だから規定上入学を認められているからといって学院の高等部に進学してくる女子生徒を、生理的に快く思えずにいた。高等部は基本的に領地を治める領主、又はそれに準じる者や政治を担う文官を目指す者、騎士団に仕官する予定の貴族の子弟が実際の業務に携わる前に教育を受け、人脈を作る場として設立された機関だからだ。特例として裕福な商人の子弟が入学を許可される事もあるが、あくまでそれは男子に限っていた。
勿論、学院の教師や研究を続け学者や医者といった特殊な分野で活躍する者も一部存在するし、騎士団員や文官として女性の登用はある程度必要だ。女性であれば都合が良い場面や、女性でなければならない局面も確かに存在する事は、クロイツも認めている。
しかしそれはあくまでイレギュラーな事態だ。しぶしぶ容認されるべきもので、基本的に男は外で働き女は家を守るものだ。それが正しい姿だと、特に祖父であるバルツァー家の先代当主から直々に薫陶を受けてきたし、そう信じていた。
だから、彼はレオノーラに出会って衝撃を受けたのだ。
彼女は幼少の頃から優秀過ぎたため、初等部課程を経由せず十二歳で高等部に入学した。しかもレオノーラの容姿は、実際の年齢よりも彼女を幼く見せていた。
一方、その当時二年生で、自治会役員に名を連ねていた十五歳のクロイツの体格は、既に一般成人男性を上回るものとなっていた。だから学院で噂になっていた新入生を目にしたとき、唖然としたのを覚えている。それでいて彼女の試験の成績は、常に意地と努力でトップを堅持してきたクロイツの一年次の成績を遙かに上回るものだった。
二年後に仕官試験を控え侯爵家の嫡男としての重責に耐え、クロイツはあらゆる学問や武道、貴族としての振る舞いを修め、誰にも負けないという矜持を守って来た。彼が必死で保ってきた『余裕』は小柄な少女に脅かされつつあり、知らぬうちに彼の中に嫉妬心を芽生えさせたのだった。その嫉妬心を認めまいと、彼女を見下す事で青年に育ちつつある不安定な心は、バランスを保とうとしていた。
(女の癖に出しゃばって頭の良さを見せつけて一体、何になる)
と内心、唾棄した。『貴族の女性が学業や仕事で一時活躍したとしても、所詮家庭に入る迄の仮初めの遊びに過ぎない』そう繰り返し述べたのは誰だったか……?クロイツにはそれが常識であり、節理であった。
また、彼女が学院長のノエル=マルグレーブ卿から特に目を掛けられ、院長室に頻繁に出入りしていると伝え聞いたときは、無意識の嫉妬心から湧き上がる眩暈と怒りを抑えられずカッとなった。
しかし他人を傷つけたり貶めたりする行為は自らを破滅に導く愚かな振る舞いだと認識しているクロイツは、自分のドロドロとした感情に意思の力で蓋をした。自分の本心から目を逸らしながら、彼女を揶揄する発言をする者がいれば、諌めさえした。
かといって彼は、自分から不用意に彼女に近づくような真似はしなかった。うっかり自分が同じような愚行を行ってしまう事を、本能的に畏れたからだ
けれども、その自制心を揺るがす事態が起こった。
彼女は更に飛び級を認定され、翌年、最終学年であるクロイツと同級生になってしまったのだ。しかも二、三年次の成績優秀者は学院の自治会役員となる義務がある。年齢は新入生より一つ幼く、見た目も子供そのものの少女に、一癖も二癖もある貴族の子弟を取り纏める自治会役員が務まる筈がないと、クロイツはマルグレーブ学院長に彼女の自治会役員就任を撤回するよう、直訴した。
「彼女は見た目通りの人物ではありませんよ。」
黒髪に金茶のメッシュが入った長い髪を持つノエル=マルグレーブ学院長は、ひょろりと細長い印象を受ける男だ。五十代前後に見える彼の実際の年齢が、もっとずっと上だという事は知られているが、具体的な数字を知る者は学園に居なかった。
(しかし彼女はまだ、たったの十三歳なのだ)
クロイツは、学院長が彼女を買い被り過ぎていると決め付けた。
「ですが、若いというか……幼過ぎませんか?業務量が多く体に負担が多いと思います。それに女性の身では、学院の子弟を纏めるというストレスの多い仕事は荷が重いのでは無いでしょうか」
クロイツは自分の本心を、自らに対しても上手に隠していた。彼女を思いやるような台詞がすんなりと出て来たのはこの為だ。
「私からすれば、十歳も二十歳も大して違わないと感じますがね」
マルグレーブは眉だけ僅かに上げて、感情の現れない顔でクロイツを見た。
「それより、役割を与える為に重視するのは、その人物が持つ資質―――適正だと考えます。彼女には十分、それがある。もし適正が無く未熟だったとしても、役員同士で補っていく事を先ず、模索するべきでしょう?」
「しかし……」
「君はつまり、自治会役員を精鋭で構成しなければならないと主張しているのかね?学院を出て騎士団に仕官するなり、文官として王宮で執政に携わるつもりならば、覚えておきなさい。仕事を一緒に行う同僚の大部分は、それを行うには未熟で、体力も足りず、ストレスに弱い、その仕事を担うには荷が重い人間ばかりだ」
マルグレーブはふっと口だけを歪めて笑った。クロイツは初めて彼の笑顔らしきものを目にしたが、その瞳の奥に何か凄味のあるものが揺らめいている気がして、つい目を逸らした。
「……たかだか未成年の子供を纏める自治会役員の構成メンバーの一人が、小柄な少女になったくらいで、上手く立ち回れない技量しか持たないようであれば、今年の学院生に国の執政を任せるに足る人材がいるのかと、陛下もご不安に思われるでしょうね」
ハッと息を呑み、クロイツはマルグレーブの顔を見た。
マルグレーブ学院長の金茶色の瞳が一瞬冷たく光り、猫目石のように虹彩が細長くなった錯覚を覚えた。爬虫類の目に捕らわれた様に、背筋が冷たくなる。
しかしそれはほんの一瞬の事で、次の瞬間その目は柔和に細められた。
「ハハハ……驚かせてしまったかね。年寄りはつい説教じみてしまうからいけませんね。―――今この学院で、君以上に有能な生徒はいない。優秀な人材に対して、年長者は過分な期待を、其の者に抱いてしまうものなのですよ」
マルグレーブは、滅多に無い事だが、柔らかい微笑みを浮かべていた。
「そこで提案なのですが、とりあえずこのメンバーでやってみて、不具合があるようなら申し出により人材の入れ替えや補填を検討する、という方向では不足ですか?」
「は……そうして戴けると……助かります」
クロイツはその時、自分の本心に気が付いた。そしてマルグレーブもクロイツの本心と奢りを見抜き、遠回しに自分を窘めてくれたのだと悟った。
羞恥心で顔を真っ赤にして、クロイツはその場を辞した。
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東屋の足元には、白い花が小さな群れを作っていた。並んでリングベルを握る、小さな楽器隊のようなスズランの白い花は、控えめながら可憐な姿を見せている。
クロイツはスズランを見ると、いつもレオノーラを思い出す。
可憐で愛らしい、小柄で控えめなその姿。
東屋の屋根の四つ角には提灯が暖かな光を湛えて、うっすらとスズランを闇夜に浮かび上がらせている。造り付けられたベンチに腰かけてぼんやりとスズランを見つめるクロイツの背に、毎朝挨拶を交わした柔らかな声が響いた。
「クロイツ様」
「……レオノーラ」
彼女はエスコート役の従兄を伴わずに、現れた。萌黄色の柔らかな衣装が提灯に照らされて、柔らかくけぶる緑の中に溶けてしまいそうだった。侯爵令嬢に相応しい美しい化粧と華麗な衣装は、彼女の透明感を損なわない品の良い仕立てで、その愛らしさを際立たせていた。クロイツは眩しそうに目を細めた。
「お顔の色が優れないようなので、気になって。どちらかお加減が悪いのでしょうか?」
クロイツを気遣って、レオノーラは追って来てくれたのだという。彼の胸に歓喜が湧きあがった。しかしその次の瞬間、気分は再びどん底に落とされる。現実を思い出したからだ。
そうだ、彼女は他の男のものになるのだ―――あの毎朝毎夕薬草園に足を踏み入れる……気安い従兄のものに。
フラッシュバックのように、先ほどの場面が蘇る。
『幼少の頃から契りを交わした婚約者です』というマクシミリアンの台詞。
『真実でございます』というレオノーラの言葉。
そして、自分が庇護していた筈の対象をあっさり奪われ、寄り添うようにしていた二人の様子。それらが、目の前にちかちかと瞬いた。
立ち上がろうとして、眩暈を覚えた。クラッと目の前の景色が回転する。レオノーラが息を呑んでクロイツの元に駆け寄り、その大きな体を支えた。
「大丈夫ですか?……ゆっくり座ってください、無理しないで。今、お水をお持ちしますね、お薬も色々持参しているのでご用意します。―――眩暈以外にどんな症状がありますか?」
レオノーラの小柄な体に似合わない柔らかな音階のアルトが、クロイツの心臓に染み渡り、思わず閉じた瞼の奥底に、じぃんと痺れが拡がった。そうして何かがじわりと睫毛を濡らす感触があって、クロイツは違和感を覚えた。目を開くと熱い物がつうっと頬を伝わった。
レオノーラはクロイツの頬を滑り落ちる涙を見て、息を呑んだ。
クロイツという人物に出会って、初めて彼の涙を目の当たりにしたのだ。彼は屈強な鋼で出来た剣のような人で、人前で涙を見せるような男では無かった筈だ。
「相当痛いのですね……どちらが痛むのですか?」
気の毒そうにクロイツに寄り添う声音の、なんと心地好い事か。
今のクロイツにはレオノーラを遠ざける力は無かった。縋るように彼女の腕を掴み、擦れた声でクロイツは答えた。
「胸が……引き絞られるように痛い」
レオノーラはこくんと頷き、素早くクロイツをベンチに横になるように促した。そして自分の腕を掴む彼の手を引き剥がして、手首を返して脈を取った。
比較的皮膚の薄い手首の内側に感じる小さな指の感触に、クロイツの心臓がドキリと跳ね上がる
「少し早いですね……ちょっと失礼」
と断わって胸を高鳴らせて挙動不審になるクロイツの前で、彼女は頼もしく腕まくりをし始めた。かと思うと彼に覆いかぶさり、クロイツの騎士服の合わせを開いて中のシャツのボタンを外しだした。
「な……っ!」
彼女の突然の行動に驚き、彼は顔を真っ赤にして抵抗しようとした。そんなクロイツを、レオノーラは困った患者を窘めるように一睨みする。眉根を寄せて精一杯険しい表情を作って見せる彼女の上目使いが可愛すぎて、クロイツは固まってしまう。すると、レオノーラは彼のズボンのボタンにも手を掛け始めた。
これにはさすがに我に返ったクロイツが、反射的に彼女の手首を掴んでその先を防いだ。
「ちょっ、わー!」
「落ち着いて下さい。服を緩めなきゃ」
慌てて体を離そうとするクロイツの肩を押し「動くのじゃありません!」と強い口調で制すると、レオノーラは庭園に控えている使用人を鋭い声で呼び寄せた
「病人です!そちらの提灯を取ってください。それからアンガーマン侯爵所有の馬車に待機している侍女に、薬箱を持ってこちらへ至急向かうよう伝えてください。あ、あとお水もお願い!」
レオノーラは若い使用人から受け取った提灯をベンチの横に据え置き、クロイツの舌の色を確認し、瞼を指で抉じ開けて瞳孔を確認した。
「あら、瞳孔が開いているわ……!」
人の瞳孔は好きな相手を見る時、自然と開くと言う。
「クロイツ様、しっかりして下さいましね、すぐ胸の薬をお持ちしますので。大丈夫ですよ~」
それは奇妙な光景だった。
少女のような風貌の小柄な女性が、大柄な騎士を、子供をあやす様に宥めている。
鼻の頭にソバカスを浮かべた若い使用人は、緊張した面持ちで令嬢の指示に従い、踵を返し走り出そうとした。
その時。
「ま……待ってくれ!君!……な、治ったっ、治ったから……っ!薬は必要ないのだ!」
その必死な声に、使用人はぴたっと脚を止め振り向いた。制止の声を上げた大柄な美しい騎士は、制服を乱暴に剥かれながらもなんとか体を起こしつつ荒い息をしていた。使用人は最初に指示を出した萌黄色の衣装を纏う小柄な貴族の令嬢に、問いかけるような視線を向けた。
レオノーラはクロイツの顔を、検分するようにジッと見つめる。
「治ったのですか?……そういえばお顔の色も随分良くなりましたね」
蒼白だったクロイツの頬には、いつの間にか火照ったように朱が差していた。
「……ああ、ショック療法が効いたのかもしれない……」
「ショック療法?……薬は不要ですか?ではお水だけいただきましょうか」
「頼む……」
レオノーラは使用人を再び見やり、頷いた。使用人も『心得ました』というように頷き、改めて一礼し足早にその場を去った。
クロイツはベンチに座り直し、そそくさとズボンとシャツのボタンを留めると、騎士服の合わせを整えた。
レオノーラはクロイツの横に腰を下ろして、真剣な表情で尋ねた。
「クロイツ様、さっきのような症状はよく起こるのですか?もしそうであれば、お医者様に掛かられた方が良いと思います」
クロイツはすぐさま反論しようとした。何故なら先ほどの具合の悪さは、心因性のものであると判り切っていたから。
「私は病気では……」
しかしはっきり否定できなかった。
(これも一種の病気かもしれない)
クロイツは、沈痛な面持ちで黙り込んだ。
レオノーラはそんなクロイツを心配そうに見つめて、考えを巡らせた。彼女にはクロイツが上手く自分の事を説明出来ないほど、疲弊しているように見えた。
「薬草園の世話で朝早く起きる事が、負担になっているのではありませんか?胸の病はご無理しないのが一番だと言われております。部員も一人ですが増えた事ですし、こちらは大丈夫ですので、しばらくお休みされてはどうでしょう。クロイツ様はこの国に必要な方です。お体をもっと大切になさってください」
レオノーラとしては真剣に心配して言っているのだが、『マクシミリアンがいるからもうクロイツは必要ない』―――そう言われているように聞こえ、クロイツの胸は、更に痛んだ。
サイラス王子におもちゃにされるレオノーラを取り返し、庇うのが自分の役割だった。薬草園の手伝いも。そのどちらもあの従兄に奪われ―――いや、元々彼女は彼のものだったのだ。幼い頃に契りを交わした婚約者だった。懊悩するまでも無く、自分が割り込む隙など一分も無かったのだ。
思わず瞼を閉じたクロイツを、気遣わし気にレオノーラが覗き込む。
「ここは少し冷えます。水をいただいたらお屋敷にお戻りになるか、アドラー家に室を設けていただいて、お休みしてはどうですか?」
瞼を開けると、愛しい女性が自分を見上げている。
(今日の彼女は、なんて残酷なほど綺麗なのだ)
咬みつけば柔らかく齧り取れそうなマシュマロの頬、大きな目にけぶるような眉、容易くぽきりと折れそうな四肢、そしてこれまで作業着や学院のかっちりした制服に隠されていた、予想以上に魅惑的な二つの膨らみとまろやかな腰の曲線が、彼の視線を強い引力で惹きつけた。これ以上誰の視線も無い静かな東屋で、すぐに手が届くこの場所で、二人きりで居れば自分を抑えられる自信が無い。
(彼女はもうすぐ、他の男のものになるのだ)
身を引き千切るように、自分に引導を渡すために、クロイツは問い掛けの言葉を発した。
「……コリントとはいつ頃、婚姻式を行う予定なんだ?」




