アディショナルタイム
「いかがでしょう。これで彼の容疑は晴れたでしょう。少なくともこの新しい証拠は、被害者が自殺であるという物的証拠に他ならず、決め手の欠けた君の稚拙な密室トリックなぞよりは、余程有力な証拠であることは間違いない。さあ、わかったら早く彼を解放したまえ!」
狭い取調室の中で両手を広げて高らかに謳う真明寺に、途中からだんまりだった出水が低声で呟いた。
「……いや、こっから出ていくのはお前一人だけだ」
「なに? 僕の言っていることが聞こえなかったのか?」
本気でそう思っているらしく、嘲るような薄ら笑いを浮かべているが、出水は先程とは打って変わって、静かに淡々と反論する。
「ああ、探偵なんていう得体のしれない人間の言うことをおいそれと聞いているほど、あいにく警察は暇じゃないもんでね。我々は変わらず、美田を容疑者として送検する方向で捜査を進めている」
「なんと――なんと莫迦げたことだ」
真明寺の薄笑いが固まった。出水には本気で彼の言葉を受け入れる気がないと察したらしい。
「僕の論理的な説明を理解する知性もないのか」
「お前にどう言われようが知ったことか」
見るに見かねたらしい若い刑事が、遂に部屋から飛び出して、隣の取調室のドアを叩く。急展開を迎えた所に居合わせた若い警官も、目撃者の女性を置いて部屋の扉をわずかに開けて、彼の様子を伺う。
丁度取調室の扉を開けた出水が、刑事に袖を引っ張られるようにして廊下へ連れ出されていた。
「ちょっと、出水先輩!」
「何だ?」
「彼の言い分には充分に説得力があるように――いえ、正直に申し上げれば、自殺説は美田犯人説よりも余程可能性が高いもののように思えます。それを今この場で切り捨ててしまう必要はないのではありませんか。可能性の一つとしてでも捜査を進めるべきなのでは……」
言いながらこんな生意気な発言をしたら殴られると予感したらしく、彼の声はどんどんと掠れて弱々しくなっていった。だが、出水は殴る素振りも見せず、真剣な表情で彼に訊き返した。
「それが何になる?
俺だってな、はなから奴が犯人だなんて思ってねえよ」
「は――?」
「たりめえだろ。あの探偵が言ってたこともそうだがな、奴が犯人だとしたら、ガイシャがタンクにつけた血の掌紋を拭った時に使った紙を流した音が聞こえたはずだ。その光景が見えてなかったとしても、ガイシャがわざわざ死ぬ間際にトイレで何かしたであろうことは誰にだってわかる。そんな状況で殺したんなら死体やトイレを調べないわけがない。ガイシャが手にしていた携帯電話やトイレに散った血痕がそのままなのを見ても、死体もトイレ自体も触られた形跡はなかった。どう考えても不自然じゃねえか」
その点から美田犯人説に疑いを持っていたということは、昨日現場を訪れた時点で――推理をして見せた時点で、そう思っていたということではないか。
「だがな、奴が現場から逃げる際にガイシャの作った密室をそのままにした上、硫化水素ガスまで焚いたのは、単に自殺に見せかけたかっただけじゃねえ。十五年前の事件の時効までの時間稼ぎだ」
あっと言って若い刑事は固まった。そこまで考えが回っていなかったらしい。
「昨日の火災の誤報も、奴が警察や消防の人手を、そっちに回させるためにやったことだろう。これがなけりゃ、鑑識や俺たちは二時間早くに現場に臨場して捜査を始めていた。タンクに隠された決定的証拠だって、もっと早くに見つけて、美田を手配にかけることができたんだ。ところがガスの処理のせいで、俺たちはまんまと奴の術中に嵌り、時効に五分間に合わなかったってわけだ。芦菜がいりゃあ間に合ってたかもしれねえが、時効直前で上が張り切ったせいで、肝心の犯人検挙に間に合わなくなるなんて全く皮肉な話だよな」
出水は微笑を浮かべた。それは現場に来られなかった芦菜の代わりに、自分がもっと早くに被害者のダイイングメッセージに気付けていればという自嘲から来ているのだろう。
「それにしたって五分、たったの五分だぞ」
徐々に彼の声はどすが効いていく。額には青筋が浮き始める。
「俺たち警察が十五年かけて追い続けた犯人が、たった五分の差で罪を逃れやがったんだぞ。それどころか、今回の事件も十中八九奴の犯行でないときた。となれば奴にかけることができるのは精々が偽計業務妨害か器物損壊だ。長くても懲役三年。だが、被害者が悪意を持って美田を陥れようとしていたのは明らかだからな。優秀な弁護士がつけば刑期はもっと短くなるか、執行猶予がつく可能性すらある。お前はそれで許せるのか?」
「それは……」
若い刑事は言い淀んだ。刑事という職を選んでいる以上、多かれ少なかれ犯罪者を憎む気持ちはどんな警察官も持ち合わせている。だが、個人的な感情で規則を超えてまで犯罪者を罰するとなれば、ただの私刑に他ならない。それでも、まだ新米の域を出ないであろう彼に、どうすればよいのかここで答えを出せるほど簡単な問いでもなかったようだ。
「俺はよ、どんな罪でも罰せられるべきだと思ってる。あいつには大勢の人間が人生を狂わされてんだぞ。十五年前に殺された警備員、その遺族、責任を取るために辞めさせられた警備会社の支社長やその家族。被害に遭った金融会社の社長は首を括り、会社は潰れて路頭に迷った社員が数十人はくだらない。なのに、あいつをこのままおめおめと逃がすのか?」
「ですが決定的な証拠がない以上はどうしようも――」
「時効なんてもんがなけりゃな……つってもしょうがねえことだが……、証拠がないなら、俺に出来るのは一つだけだ」
出水はそれだけ言って、若い刑事に背を向けた。刑事が呼び止める間もなく、扉は閉められる。
中で壁にもたれかかって待ち構えていた真明寺は、ようやくかと身体を起こした。
「お仲間の刑事さんに頭を冷やしてもらえたかな? 意固地になってないで、そろそろ認めたらどうです」
「それはどうかな?」
不敵な笑みを浮かべる出水に、真明寺は怪訝そうに片眉を上げる。
「俺にはそろそろ決定的証拠が出てくるように思うがね」
予言者めいた彼の言葉の直後、どこからともなく廊下を走る足音が聞こえてきた。それはどんどんと大きく迫り、ついには彼らのいる取調室の前で止まる。少しの間があった後、形式だけのノックが聞こえ、すぐさまスーツを来た別の刑事が息せき切って告げた。
「出水警部、出ました! 警部の仰られた通り、凶器の日本刀を詳しく調べなおしたところ、柄から被疑者の指紋が!」
莫迦な、と真明寺と美田が叫んだのはほぼ同時だった。
「そ、そんなはずあるか、俺はあの時確かに指紋を拭いたはず……」
さて――と、陰のある笑みを口の端に浮かべて、出水はパイプ椅子に腰を据えた。
「そこのところ、もう少し詳しく聞かせてもらおうか。凶器から指紋が出るんだ。詳しく調べれば他にも色々出てくるだろうなあ」
どうなっているんだとおどおどし始めた美田は真明寺に助けを求めた。だが彼はここにきて初めて茫然とした表情を浮かべて、報告に来た刑事と出水とを見比べているばかりだ。
「さあ、それでは、お邪魔な迷探偵にはお引き取り願おう」
出水の言葉に真明寺は拳を固めて怒りを露わにしている。
「こんな……こんな横暴、僕は認めない。覚えておきたまえ、近い将来、僕はもっと警察内部で信用を得て、必ずあんたに目にもの見せてやる」
探偵は荒々しい動作で取調室を後にした。彼の捨て台詞が冷たくなった取調室の中に、そして警官たちの耳にこだましていた。
*
それから一年後、東京地裁は美田末吉に殺人罪で実刑判決を下した。懲役十五年。決定的証拠があることを理由に、控訴は棄却された。結局彼は再度、十五年の月日を待たなければならなくなったのだ。
そしてその年の四月、新宿署刑事課の扉をノックする若い警官――否、もはや彼は制服警官ではなかった――の姿があった。
開いた扉の先に待っていたのは、出水とその部下の若い刑事だ。その刑事は彼の顔を認めると、手を軽く上げて反応した。
「ああ、君はあの時の――」
「はい、本日付で刑事課強行犯捜査係に配属されました、荒木透也です。出水先輩、定家先輩、宜しくお願いします」




