名探偵は突然に
取調室の隣には、取り調べの様子をマジックミラー越しに見るための部屋がある。
その部屋のドアがノックされ、中にいた刑事が応答した。
開いた扉から顔を出したのは、第一発見者の警官だった。隣に女性を従えている。中にいた刑事は、事件現場で初動捜査に立ち会っていた、出水の後輩刑事だ。その刑事は警官の顔を認めると、手を軽く上げて反応した。
「ああ、君は現場にいた――」
「はい、先程夜勤明けで報告書を届けに署に戻ったところ、こちらの女性に声をかけられまして……」
「じゃあその人が例の?」
「はい、美田が現場付近から慌てて逃走する姿を目撃したという方です」
「そうでしたか、まあともかく入って」
刑事に促され、警官は女性を連れて部屋の中に入る。隣の取調室では既に出水が怒声を浴びせており、その度に女性が怯えたようにびくりと身を竦ませていた。それとは正反対に出水と相対している男は、落ち着き払っているどころかふんぞり返っているようにさえ見える。
「あれが美田ですか」
刑事がこくりと頷いた。
「今取り調べの真っ最中です。本当は俺が調書を取る係をやるはずだったんですけど、どうも事件が大きくなったせいで、先輩刑事に横取りされてしまいました」
隅のテーブルでペンを走らせている刑事を見る目は、口惜しそうな羨望しているような表情だ。
その時ドンとまた一際大きな轟音が聞こえた。発生源は出水の右手である。テーブルから離れた拳はそのまま向かいの美田に向かう。両手で彼の襟首を掴んだ。
「てめえがやったんだろうが、ああ? いい加減吐いちまえよ」
「人聞きが悪いなあ。私はなにもしてませんよ。証拠もないでしょう。それに強盗殺人はもう時効を迎えたわけですし。こっちは任意で来ているんだから、いつだって帰ってもいいんですよ」
鬼の出水に唾をかけられる距離で恫喝されても、まるで暖簾に腕押しという感じだ。美田は強引に出水の手を振り払い、どっかとパイプ椅子に腰かけた。
「他人をおちょくるとどうなるかわかってるか、そんなに痛い目に遭いたいか?
てめえを助けてくれる奴なんざいねえ。ここまで来たからには、タダで帰れると思うなよ」
「やあ! 待ったかな、ええっと……、美田君!」
その場の雰囲気をぶち壊しにする、嵐のように騒々しく取調室の扉を開けて入ってきたのは、ベージュのロングコートに身を包んで一丁前に髪を跳ねさせた、隣にいる刑事と同い年くらいの青年だった。
突然の闖入者に、調書を取っていた刑事は唖然として声も出ない。さしもの出水も一瞬面食らったようだが、平然と美田に歩み寄る彼の前にやにわに立ち塞がる。
「おいなんだてめえは」
「僕の名を知らないなんて驚きだ」
何と無知なんだとでも言わんばかりに傲岸不遜な口調である。
「これでも事件解決の協力を何度もしているもんで、かなり有名になってきたと思っていたのだが」
やれやれと首を振った彼は、懐から名刺を取り出すと、出水の胸元にそれを押し付けた。
「真明寺風靡、私立探偵だ。そこの美田某君には君たちに不当逮捕される前に事件解決を依頼されてね。こうして堂々馳せ参じたというわけだよ」
「何言ってやがる」
テーブルに片足を載せてポーズを取る探偵に、出水は一瞥もくれずに名刺を床に捨てた。
「確かに物的証拠はまだ出てねえが、状況証拠はこいつが殺ったってのを物語ってんだよ。探偵だか何だか知らねえが、現場も知らねえ馬の骨が出しゃばんじゃねえ」
「それはどうかな、これでも僕は彼の依頼に応えるため、ここに来る前に現場を見てきたんだよ。調査報告書も読ませてもらった。その上で、ぼくは宣言するよ。彼はこの事件の犯人ではない、とね!」
髪をかき上げびしりと指をさした彼の所作は、まるで舞台俳優のように大仰だ。
「いい加減に……」
「おっと、止めたまえよ」
真明寺は掴みかかろうとした出水を軽快なステップで躱し、逆に繰り出したカウンターを出水の顔の寸前で止めた。
「これでも僕は武術には長けているんだよ。犯罪捜査をする上では、頭だけでなく肉体も鍛える必要があることは、君ら警察の朴念仁にもわかるだろう。さて――」
彼は美田の十万倍はふてぶてしい態度でテーブルの上に座り込んだ。人差し指を立て、もっともらしく顎に手を当てると、空中に書いてある台詞を読み上げるかのようにすらすらと喋り始めた。
「君の推理には幾つか問題点がある。まず第一に、美田某君を犯人と指摘しているのは、被害者の告発文だということだったが、その文面にもある通り、被害者には美田某君に対する恨みがあった。裁判でもそうした不当に容疑者を陥れる可能性のある証人の証言は鵜呑みにされない。当然、今回のケースでもこれをそのまま鵜呑みにすることはできないね」
「だが奴の荷物にはガラスを切断するのに使う特殊な器具があったことは確認されている。付着していたガラス材は現場の窓ガラスとも一致してる」
「無論、僕もその点は心得ているさ。しかし、ガラスを切断する器具で首を斬ることはできないだろう? 結局それは彼が殺人現場から逃げたことを証明するだけで、殺人の証拠にはなり得ない。それとも君たち警察は、現場から逃げた人間は全員処罰するつもりなのかな? まあそれなら、留置場がいつも満員御礼でも不思議じゃないがね」
全国の警察を敵に回すかのような癪に障る物言いではあるが、実際今のところ決定的証拠はないらしい出水としては、ぐうの音も出ないようだ。
「第二に、外側の密室はいいとしても、内側の密室はどうだ。トイレの密室は何も判っていないじゃないか!」
「そんなものは何とでも説明が付く。鍵をある程度傾けたところで一気に扉を閉めたんだ。そうすれば閉まった時の勢いで鍵が完全に倒れて掛かる」
「はっ、どんな言い訳が出るかと思えば!」
唾棄するように一蹴した真明寺は、物理的な視点こそ出水の下方にあるが、まるで天上から見下ろすかのように蔑んだ眼をしてみせた。
「そんな不確かな方法をやっている時間が犯人にあったのかな。勢いでつまみが動くかどうかもわからないし、動いたところで施錠される方向に回るとも限らない。トイレの密室が彼の仕業なら、被害者が殺された後で作られたものだ。だが、被害者がそれより以前に通報している以上、彼に残された時間はわずかだ。長くて十分というところだろう。さらに指紋を拭ったり、硫化水素ガスを発生させたり、外側の密室を作る時間を考えたら、ここにかけられる時間は一分もあるかどうかというところだ。一発でうまくいくかどうかもわからない密室を何度も試して作っている時間なんてないし、何より外側の密室と違って、内側の密室は彼には作る理由もない。そんなことをするより、さっさと逃げたほうが得策だ。
第三に、被害者は犯人に刺された後に警察に通報し、トイレに逃げ込んで通報に使ったPHSを隠したことになる。トイレに逃げ込むことができたのなら、どうしてその時鍵をかけなかったのか? むざむざ犯人に扉を開けられ、首を斬られたと?」
言われてみれば確かに不自然だ。昨日は出水の推理に首肯してばかりだった若い警官も、怪しげな真明寺とかいう男の論説に釣られ、首を傾げざるを得ない。隣にいる刑事もミラー越しに反論したそうに前屈みになっているものの、返す言葉もないようでもどかしそうにしている。
「最後に――これが最も重要な問題だが、彼が犯人ならどうして被害者の頭部を切断する? 自殺に見せかけるために硫化水素を発生させ、密室にしているというのに?」
「それは――」
もういいとばかりに出水の言葉を掌で制すと、真明寺は立ち上がって美田の肩に手を載せた。
「事件の犯人が一人だと思うから、辻褄が合わなくなるんだ。この事件は、自殺に見せかけようとしたかった人間と、他殺に見せかけたかった人間の二人がいた。ただそれだけのこと。それですべての納得がいく。
つまり被害者は自殺したというわけだ。そうだとすれば、トイレの密室は簡単に説明できる。ただ単に、被害者が自らの手で鍵を掛けただけなのだから」
調書を取っていた刑事もいよいよ我慢ならなくなったようだ。ペンを放り出して立ち上がる。
「馬鹿な! それじゃ自分で自分の首を斬ったというのか」
「ええ、そうなるでしょう。とはいえ、日本刀がトイレの密室の外にある以上、首を切断するのに使った凶器は別にあるとみて間違いない。しかしトイレの中からそのようなものは見つからなかった。皆さんの捜査を信用していないわけではないが、一応それはこちらでも確認済みだ」
それは信用していないということだ。
「とすると、ここで気になってくるのが、大家のおばあさんの証言――排水溝の流れが悪いと言っていたはずだ。あのアパートは古い建物だから、当然下水は合流式。部屋のトイレから異物が流され、それが下水管に引っかかっているとしたら、その影響が他の部屋に出ても不思議じゃない。それで下水管をひっかきまわして、やっとの思いでこれを見つけた。こういう泥臭い仕事はそれこそ警察の皆さんの仕事のはずですがね」
真明寺はコートのポケットから無造作に透明な袋を取り出した。その中には数か所にテープが貼りついたピアノ線と、それに結び付いた分銅のような錘がある。ところどころに黒茶けた汚物のようなものがこびりついていた。
「これでもうお判りでしょう」
あろうことか、彼は袋からそれを取り出してその場の全員に見せつけた。手袋は付けているから指紋のことはいいとしても、臭いは相当酷いようで、美田も出水も調書を取っていた刑事も顔を顰めている。
「被害者はテープでピアノ線を天井に固定し、その輪の中に首を通し、錘をトイレの中に落とします」
言いながらピアノ線を伸ばすと、それは巨大な輪っかになっていた。その輪を美田の首に通したものだから、依頼した彼も流石に何するんだと憤慨する。しかし推理に夢中になっている探偵の耳には届いていないようだ。
「あとはトイレを大で流すだけ。錘は水に流され一階に落ちていく。その勢いでピアノ線の輪が引っ張られ、テープが剥がれると、ギロチン宜しく被害者の首を切り落とし、そのまま全ての証拠は水に流されて消えてしまう、とこんな具合です」
ようやく彼は美田から輪っかを外し、それを袋の中にしまった。安堵している美田とは対照的に、ミラー越しに一部始終を眺めているばかりの若い刑事は青褪めた顔で愕然としている。
「被害者がトイレに鍵をかけたのは、自分が死の間際に隠した決定的証拠を美田君に発見させないようにするためだ。被害者がわざわざ通報したのも、当然現場にいる彼をすぐにでも犯人として逮捕してもらうため。それから外側の密室のほとんども、ぼくは被害者が自分で拵えたものと見てる。あれだけ念の入った目張りをするとなると、警察が来るまでの十分やそこらじゃ到底間に合わないし、何より被害者が外側の密室を作ったのは、美田君をそこに閉じ込め、警察が来るまでの足止めをするためだったと考えれば納得がいく。あれだけの目張りとなると、剥がすのに相当時間がかかるはずだが、そうかといって窓を割って逃げるなんてことをすれば音で周囲に気付かれ、目撃される可能性が高まる。
彼は時効の打ち上げの最中に、寝入ってしまっていたらしい。彼の所持品に酒瓶やらつまみやらがあっただろう。あれは被害者から振舞われたものだ。他の人間が現場にいたことを隠すために持ち去ったということだが、恐らくその中に睡眠薬でも仕込まれているはずだ。調べれば被害者の指紋も睡眠薬も検出されるだろう。被害者としては、当然美田君が眠っている間に逮捕されると思っていたわけだが、彼が睡眠薬を常用しているせいで効きが悪く、途中で目が覚めてしまった上に、ガラスを切断する特殊な器具を持っていたのは、完全に想定外だったんだろう。それでこのようなちぐはぐな事件になってしまったというわけだ」




