鬼の推理
――以上が、死体発見までの経緯です」
その警官は緊張でたじたじだった。高校から警察学校を経て交番勤務を始めたのは一年ほど前の話だが、なにしろ殺人事件なぞに出くわしたのはこれが初めてのこと。おまけに自分が第一発見者。おまけにおまけに、それが二重の密室の中で首を斬られているという、日本犯罪史を紐解いても異常で異例な事件。さらにおまけに、目の前で相対しながら彼の報告を険しい表情で聞いているのは、凶悪犯のみならず、身内であるはずの強面刑事たちをもひれ伏させてしまうと噂で、”鬼の出水”との異名を持つ、出水裁司その人だったのだから。
オールバックで丸見えになっている広い額に皺を蓄え、勢いだけで人を殺してしまいそうな彼の鋭い視線は、今まさに報告していた彼を緊張のあまり昇天させてしまうところだった。
そんな出水が報告を終えた後も暫く押し黙ったままなので、いよいよ警官は胃袋ごと口から出そうになるのを抑えて確認する。
「こんなところで大丈夫でしょうか」
出水は何も言わず、ただより眉間の皺を深くさせただけだった。不快そうに片眉が上がったような気もして、警官はまさしく蛇ににらまれた蛙のように震える。
「いや、結構ですよ。すみませんね、こんな感じで。これでも色々と考えを巡らせているらしいんですよ」
部下と思しき隣の若い刑事が、代わりに愛想のよい笑みを浮かべた。死体は既に運び出されたとはいえ、血の飛び散っている現場には似つかわしくない類の爽やかな笑顔だ。
「まあ滅多なことをしなければ、この間の失礼な記者みたく鉄拳制裁食らうことはないから」
「うるせえぞ、余計なこと喋ってる場合か」
言ったそばから鬼の拳骨が刑事を襲う。上背がある分細く見えるが、コートの下には鍛え上げた肉体があるらしく、勢いはそれほどの拳骨でも刑事は相当痛そうに呻いていた。
「ところで今日芦菜の奴は来てねえのか?」
出水は刑事を全く気にかけることなく、近くで現場写真を撮影している鑑識に声をかけた。鑑識の芦菜と言うと、都内の警察官なら知らない者はいないであろう、勤続年数こそ短いが超が付く優秀な鑑識課員だ。臨場した現場の証拠はどんなに小さなものでも見逃さず、証拠だけから犯人を特定してしまったことも数え切れずで、都内の様々な現場からひっきりなしに名指しで応援を要請されるほどらしい。
その芦菜と比べるとまだまだ覚束ない様子の鑑識の彼は振り返って、やれやれとばかりに肩を竦めていた。
「ええ、朝から休みなく、今日時効を迎える事件の証拠を一から洗いなおさせられていますよ」
「今日時効……っつうと、十五年前の消費者金融の強殺事件か?」
「そんな感じの事件でしたね。正直なところ僕はまだ小学生くらいだったので、あまりよく知らないですが」
消費者金融強盗殺人事件は覆面を被った二人の男が、夜中金融会社に侵入して金庫から一億五千万円相当の金品を強奪した事件だ。逃走する途中で警備員に発見され、犯人の一人が発砲。それが警備員の心臓に命中して、ほどなく彼は死亡した。発砲音で注目を集めたことで、何人かの人間が逃走する犯人の姿を目撃していたが、車を何台も乗り継ぎされ逃走を許し、結局犯人の素性すら判明していなかった。
若い警官にとっては子どもの頃に起こった事件だが、当時センセーショナルに報道されたこともあって、彼の記憶にこびりついていた。
「自分は覚えています。酷い事件でしたね。確か、あの事件で殺された警備員には息子さんがいたんじゃなかったでしたっけ。テレビで取材されていた様子を見てました」
「ああ、折尾……練人とか言ったっけな。あの後奥さんが自殺して、結局あいつは孤児院行きだ。本当に許しがたいことだ」
出水は拳を固く握りしめていた。彼の年齢なら当時も警察に勤めていたと思われるが、この事件にもかかわっていたのだろうか。
若い刑事が未だに頭を擦りながら言う。
「そういえば、うちの署も手の空いている職員の何人かは聞き込みの応援に駆り出されていたようですね」
「ったく、上はいつもこうだ。年々捜査本部の人員削減してく癖に、体裁気にして直前になって急にやる気出すわけだからな。夏休みの宿題かっての」
「まあ芦菜先輩も一介の公務員なので、上には従うほかないですから。今日のところは僕らで勘弁してください」
現場の撮影に戻った彼に続いて、若い刑事は手帳を広げた。
「その鑑識の皆さんと機動捜査隊からなんですが――」
ページを繰って舌を舐めると報告を始めた。
「被害者は目賀来介、五十二歳。都内の食品メーカーに勤めているサラリーマンです。免許証と聞き込みの情報から、これは間違いありません。被害者は床に正座をした状態で、蓋の開いたトイレの便座にもたれかかるようにして倒れており、右手で腹部を押さえ、左手に携帯電話が握られていました。財布の名刺に〇九〇から始まる携帯番号が記されていて、手にしていた携帯電話の番号と一致しています。飛び散った血液が付着していることから見ても、この携帯を使って通報したものと思われます。検視官の話では、腹部の刺し傷と首の切断面の両方から生活反応が出ているとのことで、腹部を刺された後に、介錯よろしく首を斬り落とした可能性が高いそうです」
トイレにあった死体は既に運び出された後で、これから司法解剖に回される予定になっている。血の海と化したトイレの中には、死体を模ったロープがあるのみで、鑑識がその写真を取ったり指紋の採取をしていた。
「凶器は部屋に落ちていた日本刀ですが、指紋等犯人の痕跡は残されていません。こちらについては入手ルートから犯人を絞り込めないか、目下調査中です。玄関と窓には鍵がかけられている上に、目張りがされています。また、先程鑑識が発見したのですが、押し入れの天井に天井裏に通じる出入口がありました。ただこちらも目張りされている上に、こちら側から掛け金が掛かっていました。人の出入りはおろか空気の出入りも完全に不可能ですね。硫化水素は入浴剤と洗剤を混ぜて発生したもので、浴室から道具が見つかっています。死体には目立った症状が見られないので、被害者の死後に発生したものと思われます」
警官が最初に予想した通り、部屋に充満していたのはまさしく硫化水素ガスだったわけだが、それを除去するのに二時間以上かかってからようやく鑑識が中に入って詳細な捜査を行えるようになった。彼らの一通りの調査が終わって、所轄である新宿署の刑事課も現場に入れるようになったのは午後十一時を回った頃だった。
「死亡推定時刻は二十時前後で、これは通報の時間とも一致します。隣に住んでいる風邪っぴきで気怠そうな若い男は勅使保と言って、彼の話では夕方頃に誰かが目賀さんの部屋を訪れ、少し騒がしくしていたそうですが、それが誰かまではわからないと。大家の戸女という老人も同じようなことを言っていました。このおばあさんの話では、被害者には妻子があったそうですが、二人とも病気で亡くしてしまってから家を売ってこちらに住み始めたんだそうで。それが四年ほど前のことですが、目賀さんはいつも暗い感じで、来客もほとんどないとのことでした」
いかにも自分語りなどしたくもなさそうな人種だが、それでもどこからか俗っぽい噂は流れるらしい。そうでなければ大家がよほど執念深く聞き出したのだろう。
「噂好きのばあさんという感じですが、若干ボケが来ているらしく、聞き込みに行ったキソウの捜査員を清掃員と間違えたそうで、やれ汚くなった窓ガラスを綺麗にしてくれ、届かないから換気扇の掃除をしてくれ、流れが悪いから排水溝を見てくれと、聞く耳も持たれなかったと愚痴られましたよ。おまけに逆に色々最近の食生活やら色恋沙汰を根掘り葉掘り訊かれたとかで、なかなかの癖者ですね。ただまあこのばあさんの話は一応裏が取れています。免許証が入っていた財布の中に家族写真が挟んであって、そこに奥さんと娘さんの名前が書かれてありました。財布にはかかりつけ医と思しき医者の名刺もあったので連絡したところ、死亡診断書もあるから病死で間違いないとのことです。ただ奥さんが亡くなったのは娘さんが生まれたすぐ後で、高齢出産のために負担が大きかったことが原因です。ところが娘さんの方も先天性の重い疾患があったらしく、手術しないと長くは生きられない身体だったそうです。結局費用が集まらず、手術はできずじまいで。なんともやるせない話ですね」
「――で?」
「へ?」
謎の訊き返しをされてきょとんとした若い刑事が、気の抜ける声を出す。
「へ、じゃねえよ。お前はそれだけの情報を持ってて、何も気づかないのか?」
出水の凄みに気圧された彼は、二の句を継ごうと必死で頭を回そうと手帳の文字を目で追っている。が、結局気の利いた言葉は何も思いつかないようで、代わりに薄ら笑いを浮かべるだけ。当然教育の鉄拳をお見舞いされる羽目になった。
「ったく、警察学校で何を学んできたんだ? さっきの警官の話を聞いて、不自然に思う箇所があっただろう」
「――と言いますと」
三回目を警戒して怯えている刑事に、出水は呆れたように溜息を吐いた。
「目張りのことだ。窓だけ外からもガムテープで目張りがされていたってことだが、室内を密閉させるためにしろ、それ以外の理由にしろ、内側からあれだけがっちり固めていたら、外からやる必要性はない。おまけに、無駄に格子状にテープを貼っている。玄関横の台所の窓にはそんな風にされてねえのに、居間の窓だけそうしているのは何故だ。こんな時期に台風が来るわけでもあるまいし」
出水は割れた窓ガラスの方に歩を進め、破片の付着したガムテープを眺めた。警官が窓から中に入ろうとした際、ガムテープの一部は剥がれて床に落ちていた。
「答えは簡単だ。見られたくねえもんを隠すため――つまりあの窓はお前らが窓を割る前に、既に割られていたってことだ」
第一発見者である若い警官と、その横で眼を瞬かせている若い刑事が出水の指さした先を見た。
床に落ちたガムテープには、不自然にその中心の線に沿って割れているガラスの破片がいくつか付着している。が、注意して見てもそれほどの違和感はない。殆どの破片はガラスが割れたときに自重でガムテープから剥がれ落ちてしまったためだ。
「窓を四角く切って室外に出た後、切り取ったガラスを嵌めこみ直し、切れ目を隠すように格子状の目張りを施したって寸法だ。だからそんな不自然な割れ方をしてる」
「切り破りの手口の応用ですね」
警官が答えた。切り破りは空き巣の手口の一種で、ガラスカッター等の専用の工具でガラスを切り、そこから手を回し鍵を開けて侵入するものだ。ドラマや映画ではよく見られるが、実際にはドライバーをガラスとサッシの間に差し込んでガラスを割るこじ破りや、バーナーを使って温度差で割る焼き破りといった手法が用いられるのが一般的だ。
「しかしそんな細工、窓が割られなければ、捜査で簡単に見つかったでしょうに」
刑事の言葉に警官は臍を嚙む。知らなかったとはいえ、自分がやってしまったことだ。それで捜査を余計に手間取らせてしまった。
「だがあの状況じゃ、俺でもそうしただろうな。急げば助かるかもしれねえって事態だ。警察官としちゃ間違っちゃいねえさ」
鬼の出水には珍しく優しいフォローだが、警官の顔色は優れなかった。
「しかし、よりにもよって犯人が切った場所を割ってしまうとは運が悪かったですね」
「いや、犯人は駆け付けた警官に割られるであろう場所を予測して、そこを切ったんだ」
「そんなことが可能なんですか、犯人は超能力者か何かですか?」
「馬鹿野郎、んなわけあるか」
いよいよ三発目の拳骨が刑事を襲った。
「通報を受けて来た警官はまず玄関を開けようとする。だが鍵を使っても開かない。台所の窓は格子が嵌っていて擦りガラス。仕方がないから裏手に回って部屋の窓から入ろうとする。そこで室内の異常に気付けば、一刻を争う事態にガラスを割って入ろうとする。現場を出来るだけ荒らさないように、錠の付いている側の窓を割るのが普通だ。だが鍵も固定されて開かないとなれば、もう割ってしまった窓の穴を広げるはずだ。当然侵入しやすいように、窓の下側に向かって広げる。犯人はそれを逆算して、出入口を作ったってわけだ」
「しかしそうなると犯人は専門の道具を持っている空き巣の常習犯ということなりませんか。空き巣がどうしてまた密室の中で首を斬るだなんて、時代遅れな推理小説めいた真似をするんです? 密室に硫化水素まで焚いて自殺に見せかける努力をしてると思ったら、被害者に通報されるわ首は斬るわで、てんでちぐはぐですよ」
「さあな、そこまではわからねえ」
出水が首を竦めたので、若い刑事はがくりとした。
早くも暗礁に乗り上げたか、と若い警官もへまをした分、正直気が気ではなかった。




