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4-05 夜を踏む輪郭が、私の影を追う

 『人生は地獄よりも地獄的である』。

 かつて、著名な文筆家が残した言葉だ。


 生には種々の苦しみが附帯する。

 かく云う私とて、それらからは逃れられていない。

 近頃は殊に、とある悩みが安楽椅子の裏で鎌首をもたげているのだ。


 ──妄想症者は夢を見る。

 ゴヤの『巨人』の輪郭に慄える。


 わが耗弱せり心身を追う、終わらない夜のことをここに記そう。

 崖から滑って、グルンと一転。腰を折った。

 昼下がりの峡谷はしぃんと張りつめて。近くに川の流れる、せせらぎと呼ぶにはほど遠い、轟音。

 落ち葉絨毯(じゅうたん)混凝土コンクリィトに打ちつけられた身体が、芋虫のようにのたくり回る。


 全身をぴりりと走る電撃の形をしたり、背から腰までを打擲ちょうちゃくする鞭の姿などをして、私を苛む痛みを受けて。

 我を忘れて狂し叫ぶも、誰に届くわけでもなし。

 されど。高い秋空のもと、姿の見えぬ拷問吏の手が緩まってゆく次第を悟り、自らが失敗したことを察する。


 死ねなかった。


 まばたきの度に、疑念が確信へと変わってゆく。

 それは、いまの私にとって最も残酷な告知。


「死ねなかった」


 二十と少しの人生を終わらせようと、臆病者の自分がなけなしの勇気を振り絞り。

 飛び降りたとしても、この有様。

 落差にして十メートル。

 呼吸できる。痛覚がある。身動ぎできる。

 ここまでしか壊せないのか! あな頑丈なりや人体。

 私は失望した。


 無性に叫びたい衝動にかられる。

 ただただ惨めであった。

 生きているつもりはなかったので、携帯は勿論もちろんなにも持っていない。

 崖の上まで戻れば、車や公衆電話だってありはするが。

 転げる程度がせいいっぱいの肉体で、どうして斜面を登れよう。

 誰にも妨げられぬように、と選んだ山中だ。人が通ることだって見込めない。


 完全な袋小路!

 衣服に土やら木の葉やらをまみれさせながら、断続的にやってくる痛みに身をよじらせることしかできない。

 これを惨めと云わずして、なんと呼べるだろうか。

 渇いた笑いばかりが浮かんでくる。


 睡眠薬やらで死のうとしている人間は、確実性のない手法に頼る馬鹿だ、怠惰だと内心で蔑んでいたものだったが。

 こうして失敗した以上、私は彼らを笑えやしないだろう。


 ペールブルーの空を眺めてみても、心は晴れず。

 そっとまぶたを閉じた。


◇ ◆ ◇


 見開いた眼が映すは、墨をぶちまけたような星空。

 何度眠ったって、黒一色の景色は変わらない。

 この夜は終わらないのではないか? 妄想が脳を占める。


 びゅうびゅうと風が吹き、ぼろの衣服を揺らしていった。

 秋の夜気は、骨と皮ばかりの身体には少し堪える。

 川の音に紛れて、ホゥホゥと鳥の声が耳に届いた。

 命の灯火が消え、私が屍肉をさらすことを待つ梟の群れ。

 輪郭をもった闇が、ずっしりとした質量で私にのしかかる。


 もう、なんでもよかった。この状況から逃れられるのであれば。

 どうせ失敗したのだ。惨めなことに変わりないのだから、誰かに救い出されたとて良かった。

 あるいは、凍えに任せて眠りから覚めなくたって。

 もっとも。それらの結末はそうそう訪れないのだろうけれども。


 深更のいつとも知れぬ、山の真っ暗のなかだ。

 起きていても仕方がない。寒い寒いと独りごち、横たわったまま胎児のように丸くなって目を閉じる。

 しかし。着地の際に痛めたのだろうか、びりびりと左脚が叫ぶのに耐えかね、たちまちのうちに覚めてしまった。

 仕方なく、身体の向きを反転して姿勢を変える。

 と。川下のほうで、ぼんやりとした灯りの揺れるのが目に入った。


「……こんな夜中に、なんだ?」


 腕だけで起きて見るからに、蛍などのか細い自然光には思えない。

 わが眼を信じるのなら、あれは人工の光だ。

 しかも、だんだんとこちらに近付いてきているようである。

 はて。このような寂しい崖の底を、更には夜闇のなかを歩く人間などいるのだろうか。

 いたとして、まともな理由である保証はない。

 なにか後暗い事情を抱えている可能性だって、大いにありうるだろう。

 だとしても、刻一刻と大きくなっているオレンジの燈火ともしびから逃れる術など持ち合わせていない。

 それに、その必要だってない。こちらは死をも受け入れる身の上だ。

 だからこそ、好奇心がすっと顔を出す。

 目を凝らして、つぶさに観察してみることにした。


 かの人物の持つランタンがゆらゆらと揺れ、輪郭が映し出される。

 深夜の徘徊者はぼろの外套をまとって、亡霊のような歩みでのっそりと混凝土を踏みしめ。

 フードに隠された顔がちらりと覗く。

 深くしわの刻まれた、老爺だ。腰だってすっかり曲がっているようである。

 そこまで高齢の人間だとは思っていなかったため、すこし面食らってしまった。


 ランタンの灯りは、私の横をすり抜けて去りゆこうとしている。

 こちらに気付いていないのか。


「もし」


 呼び止めてどうするでもないが、思わず声が出てしまう。

 しかし、なおも老人は倒れ伏す私を顧みることなく、川の上流のほうへと歩みを止めない。

 さては痴呆だろうか。だとしても、なぜこのような場所に。


「おい、どこへ行くつもりだ」


 声を発し、反射的に起き上がってはたと気付く。

 神経を鼠にかじられている様な、脚のつけ根の疼きも。腰椎の圧し砕けて、体内のぼろぼろに傷ついていることすらも気にならない。

 ねむっているうちに、癒えたのだろうか。

 あるいは、痛覚が麻痺したのかもしれない。とにもかくにも、そのお陰で黒いぼろ布に追いつくことができた。


「待てって」


 背後から肩を掴んで、ようやっと立ち止まらせることに成功する。

 ゆっくりと振り向いた老爺の瞳には、しかと意志の光が点っており、わずかにひるんでしまった。

 ひと呼吸、冴えた空気を吸いこんでから次の句を継ぐ。


「こんな時間に、どこへ向かおうというんだ」

「山の頂上へ」


 しわがれた声を聞き、返答に窮した。

 どうも爺さんは、明確な意識をもって夜を徘徊しているらしい。

 痴呆よりも、なお性質が悪いと言えるだろう。この暗闇のなかを、軽装で歩き続けるつもりだと云ったのだ。あまりにも奇妙で、気味が悪い。


「なんのために」

「忌々しきケヒャ・ハケからの罰じゃ」


 そう告げるやいなや、老人は歩みを再開してしまう。

 あわててランタンの灯りを追うも、彼は私のことなど忘れたかのように、独りごとをつぶやきながら進むばかり。

 あまり関わるべきでない相手ではあるが、興味をひかれたのも事実。徘徊者の左隣につけ、並び歩む。


「詳しく聞かせろ。罰とは?」

「…………」

「ケヒャやらハケというのは、なんだ」


 彼は頭を揺らし、咳ばらいなどしてみせてから。


「そやつらは山の主じゃ。わしは、やつらからの怒りを買った」


 ああ忌々しきケヒャ・ハケ! 老人は吐き捨てるように云い放つ。

 てんで意味がわからない。妄想症者のざれごとだ。

 ざくり。混凝土の舗装が途切れ、河原の石を踏む。


「そりゃあまた難儀なことで」


 少し悩んだのち、会話を続けることにした。

 退屈していたのである。終わる気配のない夜のなかだ、支離滅裂な話につき合うのもまた一興。


 ふと、おもむろに。ゆるりと足を止めた老爺が、こちらの目を覗きこんでくる。


「お前は、なぜこんなところにいるんだ」


 現実など見えていないような彼が、こちらのことを気にして話しかけてきた! 私の心に、驚きが刻まれる。


「見てなかったのか? 飛び降りの死に損ないだよ」

「どうして死のうと思った」

「苦しみの世界で、生きていく理由もないからな」


 この世というやつは、苦しみばかりに満ちている。

 精神的な苦しみ。肉体的な苦しみ。細分化して語っていけばキリがない。

 生きていたって、幸せになどなれやしないのだ。


「悶えながら苛まれながら日々を過ごしたって、割に合わない。報われない」


 こんなことを云って聞かせたって、少しも伝わらないだろう。

 人間の相互不理解については、うんざりするほど実感してきた。


「私の頭が良かったなら、きっと、もっと早く死ねていただろうさ」

「そうか」


 対面から発せられたのは、先程までのかすれた声でなく、若い男の声。

 ぎょっとして老人の顔を眺めたところで、驚きのあまり重心を失って後ろに倒れてしまった。

 ローブのなかにあったのは、紛れもなく私の顔。


 ズシン。遠くで、山が震える。

 それはまるで、初めてフランシスコ・デ・ゴヤの『巨人』を鑑賞したときに頭蓋の内で鳴った足音のような!


 いまや、疑わしきは自らの脳であった。

 本当の妄想症者は、歩み遠ざかっていく老爺でなく、私なのではかろうか。

 頭蓋が割れそうに軋む。


 輪郭と質量をもった闇のなかで。すべては、耗弱した心身が見せたゆめまぼろしなのではないか。


 ズシン。

 わが妄想が大地を踏みしめる。


「待って、くれ。頼む」


 手を伸ばしても、遠くなったシルエットには届かない。

 そして、足首を、夜につかまれて。


◇ ◆ ◇


 ──妄想症者の見た夢の一つ目が、幕を閉じる。

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