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4-03 不条理のレッセフェール

 世界は不条理で満ちている。

 令和4年12月。日本の鄙びた地方都市。

 ブラック企業に勤めていた男は、近年の社会不安や増税そういったものの煽りを受けて限界を迎えた。

 家族を養うためにヤミ金を頼り、風俗に堕とされた女はその家族を生贄にしろと迫られた。

 理不尽の底で出会った二人は、抗うように罪を重ね、終わりへ向けて走っていく。

 世界が平等だとは信じていないが、この世の理不尽は俺が思っているほど優しくはなかった。


 鉛色の冬空。気だるい空気が漂う金曜日の朝。

 師走に追われる人々が駅へと向かう中、俺はその流れに逆らうように歩いた。

 クソみたいな上司の指示にブチ切れて、デスクを蹴り上げて飛び出した。殴らなかっただけマシだろう。部下は奴隷じゃねぇんだぞ。


 スマホを見つめるサラリーマン。エコバッグをぶら下げた中年女性。マスク越しに下らない会話に興じる学生たち。それらの日常があまりにも遠くなったように思えた。

 昔、学校や塾、部活をサボった時もこんな気持ちだった。解放感よりも罪悪感と、自分自身がクズに成ったような後ろめたさが頭の中で蠢いている。


 当てもなく駅前から抜け出し、二つ三つと路地を越える。大通りから離れてしまえば、黒く斑に変色したコンクリートの雑居ビルが墓標のように立っている。

 この時間はポリバケツとカラスくらいしか見るものもない、閑散とした飲み屋街。居抜きを繰り返したであろうスナックだかキャバクラの跡地。放置されたネオン看板が年期を感じさせた。

 不景気、増税、感染症の流行。世の中の理不尽は誰にだって降りかかる。きっとこの繁華街もそうだろう。数年前はもう少しは栄えていた。

 俺だってそうだ。今も昔もブラックな会社ではあったが、逃げ出すほどじゃなかった。

 冷たい空気が頬を撫で、くたびれた革靴がペタリと音を鳴らす。


 どうしようもないのだ。


 廃ビルの閉じたシャッターに寄りかかり、背広の胸ポケットから煙草を取り出す。口に咥え、点火しようとして思いとどまる。


 『路上禁煙地区』


 剥がれかけた条例の張り紙。そしてその周辺には、嘲笑うかのように吸い殻が落ちている。だが、今の俺には踏み越えることが躊躇われた。


「ああ、クソ」


 思わず漏れた言葉は、怒りと罪悪感。そして、行き場のない焦燥感。

 これからどうすんだ、仕事のアテは、今月の支払いは。そういったものが綯交ぜになり吐きそうになった。

 もっと不幸な人間はいる、もっとうまく生きられないヤツはいる、そんなことは分かっていても、俺は今の置かれた状況に心と体に折り合いをつけられそうになかった。

 ぐるぐると思考と感情がアンバランスに傾いていく。

 泣くか、喚くか、何かに八つ当たりするか。相手がいるなら怒鳴り散らすか。酒に逃げるか。それとも――。


 バタン!


 そんな思考は、乱暴に開け放たれた金属扉の音にかき消された。

 驚きで体が反応するよりも早く、大声が続く。


「何やってんだ、てめぇ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい」


 ビル同士の狭間にある細い裏路地。そこから怒り狂った胴間声と、謝り続ける女のか細い声。


 ――ああ、普段の俺ならきっと無視しただろう。俺には俺の日常がある。あったんだよ、ちくしょう。

 だけど、今の俺は日常を失った理不尽に、沸々と湧き上がる感情を抑えきれなかった。もしかしたら女が本当に悪いかもしれない。男はひどい痛手を被ったのかもしれない。

 それらは俺には一切関係のない話だ。人はいつだって理不尽を受ける。それがいつで、誰かは決まっちゃいない。


 気が付けば路上に落ちている吸い殻を踏み越えて、俺は覗き込んでいた。


 腫れあがった顔。髪を掴まれて鼻血を出している薄着の女。

 黒服の男はまた何かを喚き散らしている。ノルマ、借金、家族。そういった単語が所々聞こえた。脅迫めいた言い回しはそういったことに手慣れているように見える。

 女は男の暴力に耐えながら、ただただ謝り続けている。

 ラチが明かないと思ったのか、男は女を路上に打ち捨てて背中から踏みつける。ぐぇ、と呻いた声は死にかけの蛙のようだった。


「なぁ、簡単な話だろ。お前の妹を入れりゃ、売り上げが落ちたお前はラクになる。美人でもない、若くもない、お前より価値があるんだしよ」

「――できません」


 地面に顔をつけたまま女は首を振った。おそらく彼女の越えられない一線なのだろう。細くしゃがれた声の中に意志が感じられた。


「だったら金持って来いや!」


 男は女の腹を蹴り上げた。女は咽るようにして血が混じった液体が口から毀れる。


 理不尽。


 強者と弱者の縮図だ。


 男がさらに女に暴力を振るい、口汚く罵っている。


「……」


 ざり。

 砂利混じりのアスファルトに転がる吸い殻を踏みしめた。

 俺はゆっくりと近づく。男はちょうど背を向けていて気付かない。女は仰向けに転がっているが苦痛に喘いでいる。

 放置されたままのコンクリートブロックが視界に入った。

 重く、硬く、持ちづらいソレを俺は王者の冠のように頭上に掲げる。


 理不尽を与えるヤツが理不尽を受けても仕方がないだろう?


 振り下ろした。何かが砕け、窪む音。赤色が弾ける。

 ぐらりと倒れる男にもう一度。

 二回、三回、四回、ご――。


 背広の端を引かれた。止まる。

 ブロックを下ろし、振り返ると女が見つめていた。

 無事であれば、たれ目がちの愛嬌のある顔だったろうに無残な姿だ。鼻血、頬の腫れ。右目も内出血しているのか閉じている。薄着から覗く手足や首、肩なども擦り傷やら打ち身やらが伺えた。

 ちらりとその原因になった男を見れば、噴水のように溢れていた赤がゆっくりと地面に広がり、もう動くようには思えなかった。


 赤黒く染まった俺と、ぼろ雑巾のようになった女はしばらく口を開かなかった。

 踏切がカンカンと鳴る音が遠くから聞こえる。


「……ありがとう」


 女が小さな声で言った。痛むのか、息苦しそうに胸の下あたりを抑えている。肋骨が折れているのかもしれない。


「いいや」


 俺は首を振った。不思議そうな顔をする女に向けて言葉を続ける。


「あんたのためじゃない」


「じゃあ、なんで?」


 体中痛いだろうに、俺のことが気になるのか食い下がる女。


「あんたのことも知らなければ、こいつのことも知らない。ただ、俺はクソみたいな場所から逃げ出したときに、あんたがクソみたいな目にあってた。それだけだ」


「でも、このままじゃあなたも私も」


 そう言って女は視線を落とす。その先には動かない死体が一つ。

 死んでるこいつは少なくとも後ろ暗いヤツだとは思うが、殺人には変わりない。

 加害者である俺も、関係者である彼女も行く末は――ない。


「そうだなぁ」


 俺はしゃがみ込んで、冷たく硬くなりつつある男の懐を漁る。躊躇いはなかった。見えないナニかに突き動かされるように俺は半分自動的な感覚で動いた。


 財布。違う。スマホ。違う。匕首。……要る。

 腰回りを漁る。冷たい硬い感触。あった。これだ。

 回転式拳銃(リボルバー)


 人を殺すためだけの武器の重みが今は気にならなかった。

 血塗れで武装する俺を見て、女が震えた。


「何をする気?」


「あんたは病院とかいけないだろ」


 質問に答えず、俺は女に向き合った。彼女は小さく頷いたが、それだけでも痛みで顔をゆがめている。重傷だな。


「不条理には不条理を。理不尽には理不尽を。laissez(レッセ)-faire(フェール)。あんたは為すに任せればいい」


 俺の言葉に女は怪訝そうな顔をする。彼女の返事を待たないまま言葉を続ける。


「このビルの何階だ?」


「……三階」


 銃の弾倉を確かめ、腰のベルトに匕首を引っ掛ける。血がしみ込んだ上着を彼女に被せる。着心地は最悪だろうが、薄着よりはマシだろう。今日は寒い。


「入口は?」


「一か所」


 死んだ男の財布と俺の財布を女に渡す。ああ、アパートの鍵も渡しておくか。


「あんたの敵は?」


「男は全部。女は……」


 女の話を聞きながら、手帳に俺の住所を書き殴って押し付ける。


「無茶苦茶よ」


「理不尽だろう?」


 女は呆れたように小さく笑みを浮かべた。痛いだろうに。それでも、苦しそうな表情で見送られるよりは幾分かマシだった。


「あんたは生きろ」


「あなたは?」


「――」


 その問いには答えず、開け放たれままの金属扉をくぐった。

 誰かの吸い殻を踏みしめた感触とともに。




「名前、聞きそびれたな」


 扉を閉じて独りごちる。そもそも俺も名乗っちゃいなかったなと今更気づく。

 俺は一階に止まったままのエレベーターに乗り込む。



 そして、煙草に火を点けた。



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