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4-25 奇蟲ガール

無名のピアノ奏者・鮎川詠一と百井ジュエルが出逢った秋の日。物言わぬ新種の植物は既に人の生活圏に根を伸ばしていた。

人間が知らぬ間に進化を遂げていたのは、美しいむし、或いは菌類、或いは植物。彼女は紛れもなく人に擬態した蟲だった。

命を紡ぎ、種の保存のために進化を繰り返す者たち。

彼らは生態系の頂点を奪い合うように人の街を飲み込み、世界の景色を変えてゆく。植物はビルを壊し、枝を伸ばして花を咲かせた。冬虫夏草は人を宿主にして、子実体を生やす。その光景は美しく、静かに熾烈であり、妥協なく残酷だった。

人が生き残る術はない。

そんな文明の終わりに、それでも人間の鮎川は、最も人間らしく、最初で最後の恋をした。

「あなたって、変わった生き物なんだね」

 名前も知らないその人は、まるで平凡な日々に迷い込んだ奇抜な蝶だった。頑なに笑みを見せない、雪のように白い顔も。女性らしいくびれを隠すほど長い、青灰色の髪も。彼女は都会の人々に紛れ、昆虫のように警戒色を放ち、ひとりぽつんと人間離れした美しさを誇り、街にいた。

「わたしが知らない生き物だ」

 オーバーサイズの黒いパーカーのフードを深くかぶり、スキニーパンツはダメージ入りで洒落ている。ビジネススーツの冴えない男が連れて歩くには若い。不釣り合いだ。そうは思ったが、二十八の鮎川から見て、おそらく歳の差は五、六歳ほどだった。

 彼の仕事はピアノの指導であり、担当する生徒は幼児から高校生までだ。子供は見慣れており、比べて彼女は大人びていた。少なくとも、話が通じるくらいには。

 そう確信して、彼は言った。

「抱けません」

 ホテルのドアを閉めてまもなく、鮎川詠一(えいいち)は深々と頭を下げた。

「すみませんでした」

 男としての矜持を捨て去り、穏便に事を済ますため、律儀に謝罪した。

 考えてもみれば、大人しく生きてきた割に無謀な行動だった。音大に在学していた数年前を振り返っても、女性を連れて夜の街を歩いたためしはない。華やかなネオン街は、光が差す人生を捨てた鮎川にとって無縁の場所だった。

 彼女は、大きな目を瞬いて言った。「本当に抱かないの? どうして」

「女性が苦手なんだ」鮎川はため息混じりに吐露するしかなかった。

「帰ろう。せめて、送るから」

 これが映画やドラマなら、男が女を組み敷く場面になった。嘘でもいいからその場限りの儚い愛を囁き、終わりありきの寂しい一夜の恋をする。そのつもりだった。

 しかし、鮎川はやはり手が震えた。引き攣った顔を見せまいと、せめて頭を抱えることくらいしかできない。幼い頃に宿った傷心が、今もしがみついている。彼は幼少期から女性を避けて生きてきた。目を合わせるのもやっとなほど。

 あわよくばそれを克服しようと企んだ、自身の浅はかな思考は恥じた。しかし誘ったのは彼女の方だ。その割に、笑みを見せず、使命のように懇願する。

 このような男女の関係に、行動原理の追求は無意味だった。しかし鮎川は、真面目ゆえに想像する。どんな意図があり、僕に抱いてくれと懇願するのか。

「じゃあ、あなたはどうやって繁殖するの」

 思考を凝らすさなか、彼女の口から溢れる言葉の意味を拾うのは困難だった。

「……繁殖、って。なんだろうか」

 時間をかけようとも、すぐに答えは出てこない。

「メスはオスを求めるの。オスだってメスを求めてる。メスはオスの精包を体内で受け取り、卵を抱きたいの」

 それは本当に、人の口からこぼれ落ちた言葉なのか。疑いたくもなった。

「わたしだって、卵を抱く」

 彼女はひとつ、鮎川に問うた。

「あなたはどうやって子孫を残す? この世に生を受けて、なんのために生きているの」

 自分とは、違う生き物だ――鮎川詠一がそれを感じたのは、百井(ももい)ジュエルと出逢った十月。あの頃はまだ、札幌の街をビルが埋め尽くしていた。

 例年よりもやけに紅葉が美しい、秋だった。



 その朝、鮎川はマンションを出ると、行き先の変更を決めた。すれ違う人の波は、どこか疲れ切っている。彼は警戒した。そして、いつものディスカウントショップに逃げ込んだのだった。

「線路の整備が追いつかない」ディスプレイされたテレビで、鉄道会社が見解を述べる場面を観た。

「復旧の目処は経っておりません」担当社員は疲労困憊の表情で人々に告げた。

 逃げて正解だった、と鮎川は安堵した。通勤ラッシュのこの時間帯、電車が止まると駅前通りは人でごった返すだろう。大衆が苦手な彼にとって、その中を突き進むのは苦痛でしかなかった。事態の予見ができたのは、ここ最近、電車のダイヤグラムが無意味になったからだ。対応に慣れているのは鮎川だけではない。人々はそれぞれに逃げ場がある。カフェやコンビニにも、人が吸い込まれるように集まっていた。

 もうかれこれ、一ヶ月ほどになる。

「これって、誰のせいなんですかねえ」女性タレントが他人事のように言った。鮎川の隣に立つスーツの男が、画面を睨んでいた。

「バカでねえのかこの女。誰のせいでもねえから困ってんだべや」

 人の鬱憤は溜まりつつあった。気持ちは大いにわかる。鮎川は無言無表情で賛同した。しかし厄介なのは、怒りの矛先の向けどころだった。

 原因は、新種の植物だ。多種に寄生し、蔓を伸ばし、美しい白い花を咲かせる。人家の壁や電柱、フェンスにも蔓延る洒落た植物だった。物言わぬ新種の植物は、知らぬ間に人の生活圏に入り込み、気がついたときには線路の下まで根を伸ばしていたらしい。種は鳥が運び、花粉は昆虫や風に運ばれる。

 人は駆除に追われ、電車はストップせざるを得なくなった。多くの人々が影響を受けたが、鮎川はいつも通りの通勤経路を歩けさえすればよかった。彼は異常なほどデリケートな性格の持ち主だ。もともと電車やバスは避けている。不便はあったが、その性格を改善するのはもう諦めた。

「ご覧の画像は、最近SNSで話題になったものですが」テレビの話題が切り替わり、ひとつ前のニュースは既に過去のものになった。「専門家はデマ画像について注意喚起をしています」

「騙される人がいるんですか? これに」コメンテーターの男は、面白そうに言い足した。

 鮎川の目に映ったものは、青々とした新緑が芽吹いて間もない広大な森だった。日本の森林とは言い難く、シダ植物が生い茂る海外の熱帯雨林を思わせた。苔が蔓延る大木の根元に焦点を当て、傍で横たわる『何か』を撮影したものらしかった。一部モザイクがかかり、全貌は見えない。

 鮎川は目を細めた。

「デマだと思いますか。あの画像」

 声をかけられたのは、その時だった。とんだ不意打ちだった。「……はい?」

「あの画像、知らないんですか?」

 つい、目を合わせてしまった。

 相手はおそらく同年代で、自分とは逆のタイプのように思えた。体躯は細く、ミルク紅茶のような色の髪を一本に束ねた美人だった。中性的な顔立ちは印象的だが、苦手なタイプの人間だ。

 すぐに目を逸らした。

「これ、さっきの画像と同じものなんです」

 声を聴かなければ、男だと気が付かなかったかも知れない。

「……そうですか」

 面倒ごとは避けたかった。しかし彼には、知的なものも感じる。おそらく、望んでもいないのに怪しいファイルを見せられたからだった。

「犠牲になったのは新生児です。ヒトの」

 論文のように英文と走り書きが詰まっていた。全く読めそうにはない。文字の海に埋もれるように、先ほどの画像が添えられていた。

「美しい画像だと、思いませんか」

 モザイク加工はなく、おかげでテレビでは観られなかったものがはっきりと見えた。しかし間違っても、芸術性を感じられる画像ではない。

 鮎川は仕方なく言葉を返した。「何か、生えているように見えますが」

 デマではないのなら、衝撃的な画像だった。加工したのなら、単に悪趣味だった。それでも目を背けずにいられたのは、おそらく生死がわからないほどそれが綺麗な状態だったからだ。肌は浅黒く、おそらくは息絶えていた。蹲るような姿は、胎児を思わせる姿勢だった。不可解なのは、その赤ん坊から細長い何かが生えていたことに他ならない。

「キノコです」彼は平然と言い足した。「冬虫夏草といいます。菌です」

 素直に怪訝な顔を向け、返す言葉は見当たらなかった。

「昆虫やクモに寄生して殺し、宿主を養分にして成長する菌類の総称が冬虫夏草です。子実体、つまりキノコを生やし、胞子を撒くのです」

「……何のために」

「増やすためです」彼はファイルを閉じ、鮎川に笑った。「種の保存のために」

 鮎川に興味はなかった。だからあえて、痛いところを突いた。「画像は人の子のようですが」

 彼に動じる様子はなかった。「人に寄生したんです」

 どうして、と訊けば長くなる。そうですか、と吐き捨て、鮎川は彼に背中を向けた。

 これで終わるはずだった。

「歴史に残すべき画像です。菌は素晴らしい進化を遂げました。しかし本当は、恐ろしいメッセージが込められた画像です」

 教祖の言葉は、鮎川の足を止めさせた。

「明日は我が身、ってことですよ。先生」

「……先生?」思わず振り向いた。

「私の店は先生のピアノ教室の四軒先です。知りませんでしたか?」

 言われて思い出せるほど、人付き合いは濃くなかった。勤務先の楽器店の四軒先に、何があるのかは気にしたことがなかった。

「知りませんか。蟲ばかり売っている店です」

 ああ、と鮎川は納得した。確かに、その店はディスカウントショップのガラス窓から見えた。黒いドアに『蟲』の字を掲げる奇妙な店が、同じ商店街の一角に軒を連ねていた。

 鮎川は窓の外に指をさして言った。

「早く行ったほうがいいのでは。スタッフの方が待っていますよ」

 黒い店の前には、女性が立っていた。パーカーのフードをかぶり、そこから下がった青灰色の長い髪が風に揺れていた。この距離でも見てわかるほど、人混みの中でその色はよく目立った。

 彼の目は、鮎川の指先を追った。そして行き着いた先のものを見て、ひとつ教えた。

「娘です」

「……娘さん、ですか?」

 聞き返すほどの、違和感があった。彼は、鮎川とそう変わらない年代だった。娘がいるのなら子供だろうと思った。

「娘ですが、なにか」

 しかし、見て確かめることはできる。

 鮎川が彼女に抱いた最初の興味は、それだった。

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