4-15 パーフェクト・ワールド
失業中の『藤代正輝』(ふじしろ・まさき)は、高校時代の友人である『後藤千恵美』(ごとう・ちえみ)にとある治験を紹介される。
『パーフェクト・ワールド』と名付けられたそれは、傷ついた人間の心を『直す』ための医療行為だというが――。
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株式会社パーフェクト・ワールドカンパニーでは、心に様々な傷を負った方のケアを目的に、ナノマシンを用いた臨床実験を行っています。
心に負った傷は目に見えず、今までは薬物療法が主な治療法となっていました。しかし、今回ご提供しますナノマシン療法は、画期的かつ副作用の少ない治療法となります。
『あなたの欠けた心、直します』――文字通り、『心を直す』治療法として、実用化を目指しています。
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喪われたものは、二度と戻らない。
そんな当然のことさえ、僕はわかりたくなかったんだ。
『パーフェクト・ワールドにようこそ!』
視界いっぱいに文字が表示され、僕はゆっくりと目を開く。
目の前に広がっているのは、果てしない青の景色だ。視界を閉ざしていたはずの無機質なポッドは消え去り、足を踏み出せばどこまでも駆けていけそうだった。
「パーフェクト・ワールドにようこそ。藤代正輝様」
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。いつかと同じ白いワンピースをまとった――二度と目にすることは叶わぬ姿に、僕は静かに慄いた。
「蒼良?」
「いいえ。ですが、あなたが望むのなら、私は蒼良になれます」
電子音が響き、少女は優しく笑う。こんなことあり得ない。蒼良はもういないのに。
「おかえりなさい、正輝。今度こそずっとそばにいるから」
『蒼良』の手が頬に触れる。これが虚構だとしても、脈打つ心臓に嘘はつけなかった。
僕らはみんな欠けている。
空っぽな人生を否定したくて、今日もまた、朝を迎える。
※
最近の目覚めは最悪だ。何かをつかみ損ねた手のひらは宙をさまよっている。ぼやけた視界の中で指先と天井を眺め、僕はゆっくりと腕を落とす。
今は何時ごろだろう。締め切ったままのカーテンは何日も開かれていない。万年床と化した布団から身を起こそうとした瞬間、酒臭いにおいが鼻先をかすめていった。
顔をしかめて枕元を見れば、ビールの缶の中身がこぼれだしている。もったいない。ため息交じりに顎をさすると無精ひげがちくりと刺さった。
いい加減、ひげくらいそらねば。そう思ったところで、目下失業中の身としては日常の細々としたことが億劫でならない。やめてから気付いたが、職に就いているだけでも人間として最低限の生活ラインを守る役には立っていたのだろう。
失職し、はや半月。しばらくは失業保険を当てにするにしても、そろそろ行動に移さねばならない。財布の中の残金を考えるとさらに憂鬱で、職を軽率に手放したことを若干後悔したりもした。
しかし人生、何でもタイミングがすべてだ。惰性で生きている人生を変えたいと思ったから、仕事を辞めた。新しい何かを始めるためには今からだって遅すぎるくらいだ。
そんなことを考えながらあくびをしていると、携帯が久方ぶりに着信音を響かせる。画面に映し出された番号に見覚えはなかったが、首をかしげながら通話ボタンを押す。
「はい、藤代です」
『もしもし? 正輝! 久しぶり、あたしよあたし!』
だれだこの女、新手のオレオレ詐欺か? 反射的に通話を切ろうとするが、察したように相手が名前を口にする。
『あたしよ、後藤千恵美! 一緒のクラスだった――』
後半は耳に入ってこなかった。
千恵美――どうやら人生のタイミングというやつは、無駄に嫌がらせが大好きらしい。
※
『あなたの欠けた心、直します。――パーフェクト・ワールドより愛を込めて』
変なチラシを眼前に突きつけられて、僕は手にしたカップを落としそうになった。
「なんだよこれ。新手の宗教か?」
「宗教じゃないってば。治験の案内! 正輝ったら、話聞いてた?」
千恵美はチラシを手元に引き戻すと、むっとした顔でこちらを睨む。
カフェテラスに差し込む光が、千恵美の整った横顔をきれいに浮かび上がらせる。険を含んでいようと、学生時代と変わらず非の打ちどころのない美貌だった。
マスカラがなくても十分に長い睫毛。切れ長の目は艶やかにうるみ、丁寧にひかれたアイシャドウが彩りを添えている。パステルグリーンのカーディガンをまとった姿は、春の光景と相まってとても麗しかった。
自分の美しさを理解した上での所作と、余すことなく磨き上げられた外見。そんな彼女と落ちぶれた失業者の僕が並ぶと、完全に月とスッポン、いや豚に真珠だろうか?
自虐的なネタが浮かんでしまい、必死に眉間の皺をゆっくりとほぐす。とはいえ、厳しい顔をしていた理由は、美貌の旧友が妬ましかったからだけではない。
「治験って。金に困っているのは事実だが。だからって、こんな怪しいうたい文句を突き付けられても対応に困る」
「まあまあ、そう焦らないでよ。あたしはこれ、正輝にうってつけだと思ったけどなぁ。そんなあっさり拒否らないでよー」
「いきなり訳わからんチラシを持ってきてよく言う」
当然の抗議にも、千恵美は微笑みを崩さない。すっかり記憶の彼方と化していたが、そうそう、千恵美という女はこういうやつだった。
僕はきっと、恐ろしく不機嫌な顔をしているに違いない。そんな風情もへったくれもない頭上から、無数の花びらが降り注ぐ。ふわりと舞った桜が、僕たちのカップに落ちてコーヒーへ波紋を生んだ。
「あら、きれい。おすすめブレンド、桜添えなんて素敵」
千恵美は頓着もせずに、コーヒーを飲み干した。思わずあっと声を上げから、自分の貧乏性に嫌気がさした。もったいない。もっと味わうべきではないか。桜が添えられて美しいなどと考えるより先に値段が思い浮かんだ。
このカフェ、コーヒーが一杯千五百円もするのだ。おかしくないか、千五百円だぞ?
こんなたかがコーヒーが千五百円なんて、ぼったくりか冗談としか思えない。コンビニなら一杯百円程度の時代だというのに。
「どうしたの? 難しい顔して」
「いや。このコーヒーの会計をどうするべきか悩んでいた」
「そんなの気にしなくていいってば! というかお金に困ってるなら、なおさらこの治験、受けるべきだと思うわよ?」
千恵美はにっこりと笑うと、もう一度チラシを差し出してきた。
『あなたの欠けた心、直します。――パーフェクト・ワールドより愛を込めて』
苦い思いを押し殺し、チラシを受け取る。再び眺めてみたところで、変わらぬ怪しいうたい文句だ。興味などないに等しかったが、ひとまず視線を手元に落としてみる。
A4サイズの光沢紙には、温かみのあるタッチで大樹が描かれていた。その周囲には、様々な人々の笑顔が掲載されている。説明文は少なく、レイアウトとしてはシンプルで見やすい。
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株式会社パーフェクト・ワールドカンパニーでは、心に様々な傷を負った方のケアを目的に、ナノマシンを用いた臨床実験を行っています。
心に負った傷は目に見えず、今までは薬物療法が主な治療法となっていました。しかし、今回ご提供しますナノマシン療法は、画期的かつ副作用の少ない治療法となります。
『あなたの欠けた心、直します』――文字通り、『心を直す』治療法として、実用化を目指しています。
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「へえ。心を『直す』か。『治す』じゃないんだな」
チラシから顔を上げても、僕の感想は一ミリたりとも変わりはしなかった。
とりあえず胡散臭くてどうにも反応に困ってしまう。治療というのなら、『治す』が適当だろうが。まさか誤植だったりしないだろうな。
「ね、気になるでしょ? 気になるって言って?」
「押し売りみたいな言い方するなよ……騙されたくなくなってしまうだろ」
「詐欺師か何かだと思ってるの! 良いバイトを紹介してあげようっていう、あたしの友情を理解してくれないかな!」
友情ね。あからさますぎて笑いが込み上げてくる。どうせ、そのバイトとやらのマージンは何割か持っていかれるんだろう。千恵美は綺麗な女だが、頭からっぽというわけではない。無償で他人に、特に色々因縁のある僕に対して、ボランティア精神を働かせるほど博愛主義でもない。
「どうなの? 笑ってないで答えて。やるの? それとも、どうすればやりたくなる?」
千恵美は神経質にテーブルを叩く。長い爪に飾られたラインストーンが、指の動きに合わせて輝いた。こんなお高いカフェじゃなければ、それもきれいきれいと笑えただろうが。
「受けるかどうかの前に、一つ教えて欲しいんだが」
「なあに? あ、受けないなら、ここの会計は割り勘ね」
ちゃっかりしているというか、金に汚いというべきか。だが、どちらにせよ――怪しげな治験に参加する前提で話を進めるなら、これだけは聞いておかなければならない。
「このパーフェクト・ワールド? 報酬はいくらなんだ」
「それね。ちょっと待って。資料の中に金額一覧表があったはず」
千恵美はトートバックに手を伸ばす。某有名ブランドのロゴが煌めくそれの値段は、ひとつで僕の一か月の生活費を軽く超える。
同じ学校を卒業したというのに、この差はどこから来るのか。わずかばかりのひがみが首をもたげる。人生の充実度は金銭ばかりではないとは言いつつも、さすがに不公平だと思う。
「あ、あった。いい? 一回しか言わないわよ」
「いいから早く教えてくれ。勿体ぶるようなことじゃないだろ」
無駄に引き延ばそうとする千恵美の態度に、席を立つ頃合いかもしれないと思い始めていた。しかし、そうなるとコーヒー代は誰が払うのか。
財布の残金を思い描く。消費税が加算されたらぎりぎりアウトかもしれない。安いチェーン店ならともかく、こんなお高い店に来てしまったのが運の月だった。
もっとも、この場所を待ち合わせ場所に指定された時点で考えるべきことだった。もしや久しぶりの連絡で舞い上がっていたのだろうか。だとしたら僕もこの期に及んで相当いかれている。
諸悪の根源である千恵美は、表面上は無邪気さを装っている。それがさらに憎らしい。僕の内心などお見通しであろう美貌の友人は、にっこり笑うと資料を差し出して見せた。
「前金で五十万。治験すべてのメニューをこなしてくれたら、終了時に百万円。諸経費込々もプラスアルファされて――さあ、正輝? この金額でまずは一か月」
どうかしら? 微笑みを向けられたところで、コーヒー代すら払えない僕に選択肢などありはしなかった。





