4-14 夏汽車
時を超えた不思議な汽車の旅。少女と過ごす何気ない一夏の物語。
末期色の単行気動車が悲鳴のように古いディーゼルエンジンを鳴らしてゆっくりと山道を登っていく。天井ではこれまた古い扇風機が効きの悪い冷房の風をかき回す。
ぐねぐねとうねった川に合わせて曲がりくねった鉄路はあまり手入れが行き届いていないようで、レールの継ぎ目を通る度に車体が大きく揺れて乗り心地はあまり良くない。さらには線路そのものが草に半ば埋もれていて、自然に返るのも時間の問題だと思わせる有様だ。
俺はボックスシートを独り占めしてぼんやりと車窓を眺めていた。映るのはつい先日の大雨の影響か茶色く濁りごうごうと流れる川、向こうにそびえる山脈。時折トンネルの切れ間から最近引かれた国道が顔をのぞかせる。山々を貫いて一直線に引かれた国道を往く車は、汽車をあっという間に追い抜かしてまた次のトンネルに消えていく。これでは車に敵うはずもない。
ここは廃線の第一候補ともされる廃れたローカル線だ。単行の古い気動車が数時間に1本走るだけでも過剰なほどで。現に今は青春18切符の時期だというのに乗客は俺一人だった。アクセスも接続も悪く乗り鉄にも半ば見放された路線。乗って残そうの標語さえ日に焼けて、今にも消えかかっている。
時折駅に停車するけれど、駅から見渡してもあたりに民家はなく、乗ってくる人もいない。どの駅も広い構内を有するが、かつて鉱山で栄えた路線の賑わいを想像させるばかり。今は汽車がすれ違うことすら無くその大部分は使用されていない。さび付いた線路の大半は草木に埋もれ目にすることも叶わない。
ガタンゴトンとレールの音が響き渡る。代わり映えのしない景色を眺めながらその音を聞いていると朝が早かったからだろうか、だんだんと眠くなってくる。どうせ何かあるわけでもない。ゆりかごのように揺れる汽車の中、俺は硬い座席の上でゆっくりと眠りに落ちた。
ふと、車内の温度が上がったような気がした。駅についてドアが開け放たれたにしても暑すぎる。これでは気持ちよく眠ることもできずにゆっくりと目を開く。
「あ、起きた。大丈夫?」
一人だけだったはずの車内で俺をのぞき込む顔があった。少し痩せ気味ではあるものの整った顔立ちに日本人らしい艶やかな黒髪、どこか懐かしさを感じさせるような古くさいデザインの服。彼女を見れば大勢が美しいというような、そんな少女の顔が俺をのぞき込んでいた。どうやら俺はボックスシートに寝かされているらしい。
「そのまま寝てなさい」
起き上がろうとすれば男の声。
「熱中症で倒れていたみたいだからね。そのまま横になってなさい」
上下ともカーキの服を着て、同色の帽子を被った若い男が優しい顔で俺を見下ろしていた。
「はい……」
寝起きだからなのか、あるいは本当に熱中症だったのか。ぼうとしてあまり働かない頭のまま目を閉じる。視界からの情報がシャットアウトされて、車内の喧噪が耳に入ってきた。つい先ほどまで俺一人だったというのに、いつの間に乗ってきたのだろうか。そもそも人家のあるような駅があっただろうか。
そんな喧噪に耳を傾けながら、しかし起き上がって確認するほどの元気もなく、人肌ほどに柔らかく心地よい枕に身を委ねる。
あつい。
体調が悪いからなのか、先ほどから汗が止まらない。全身がべったりと汗で濡れ、気持ちよく眠ることなど出来そうに無かった。生暖かい風がそよそよと吹いてはいるけれど、それだけだ。冷房が効いているとは思えない。
眠ることもできず目を開けると先ほどと同様に、のぞき込む少女と視線が重なる。それが恥ずかしくてふいと視線を逸らす。その先に見えた木製のボックスシートにもカーキの服を着た男性がタバコを手に談笑している。
訳が分からなかった。何もかもが理解できない。車両が木製なことも、車内に大勢の人の声がすることも、タバコを吸っていることも。見たことも無い憧れの昔に思いを馳せて夢を見ているのだろうか。こうした夢も悪くない。ならばもう少し、この夢に浸っていようか
ボォーッ!
やがて全てを貫くように汽笛が鳴り響く。閉じ込められていた蒸気が通り抜けて鳴るような、今となっては滅多に聞くことのできない汽笛。力強い蒸気の息づかい。流れ込んでくる石炭の匂い。
驚いて俺は反射的に体を起こす。頭に強い衝撃。そのまま頭は元の位置に戻った。けれど今の衝撃で目は覚めた。改めて目を開けば先ほどの少女が頭を押さえている。何が起こったかなど一目瞭然だった。
向かいの座席では俺に向けてうちわを扇ぐ女性が笑顔を浮かべている。
「ごめん。それと……ありがと」
見ず知らずの少女に膝枕をされていたと言うことくらいすぐに分かる。分かってしまう。そうなると恥ずかしくて彼女の顔を見ることすらできない。急いで起き上がると木枠の窓の外に目を向ける。車窓には先ほどとは打って変わって穏やかな水面と機関車の吐き出す黒煙が漂っていた。
少し気持ちが落ち着いて、同時に謎が深まる。先ほどまで乗っていたのはいくら旧式とは言っても現代を走る気動車だ。間違っても蒸気機関車の牽引する客車列車ではない。
「今ってどの辺を走ってるの?」
分からないものは分からない。ただ普通ではないことが起こっていることだけは分かる。少しでも不審がられないように、違和感をもたれないような質問をする。
「今は――」
その地名を、あるいは駅名を俺は聞いたことがあった。その駅はこの路線の終着駅だったから。その先へ向かう鉄路はもう何十年も前、鉱山の閉山と共に廃線になっている。本来ならば今ここは草むしていて汽車が走ることはない。つまり俺は今過去にいると言う事なのだろう。
不思議なことに、それを受け入れるのにあまり抵抗はなかった。あまりにも突拍子もないことだから脳が考えることを放棄しているのかもしれない。それよりも、ならばこの貴重な経験を楽しもうと言う気持ちになっていた。
「どこから来たの? 見慣れない格好してるけど」
「えっと……東京から。この服装は……舶来の服だから……」
少女の問い。確かに今の俺の格好はこの車内で浮いている。現代だったらごく当たり前の服装。しかし歴史の教科書の中で見るような服装ばかりの中ではそうも行かない。どうにか舶来という言葉にたどり着く。彼女は「そうなんだ」とあまり疑問にしたようではないのでなんとかなっただろうか。
しかしそれっきり会話が続かない。彼女の両親と思われる二人は、先ほどから向かいの席で二人話し込んでいるから援軍は期待できそうにない。けれど俺には女の子と会話を続けられるほどの会話力は無い。名前を聞くなんてもってのほかだった。少し気まずくて再び窓の外に目をやった。
「ねえ、どこまで行くの?」
「終着駅まで行こうかなって……」
沈黙を破る彼女の問いに答えてそれから気がつく。俺はここまで青春18切符を使って乗ってきた。けれ今ここが過去なのだとしたらその切符は使えない。財布の中のお金も使えるはずがない。ICカードはもってのほか。この旅を楽しもうなんて言っている場合ではなかった。
「あー……いや、途中の無人駅とかで降りる……かも」
「もしかして切符無くしちゃったの?」
「あーうん……。お金も……」
俺の言葉の真意に彼女は気づいたようだった。先ほどまでとは違う意味で気まずい。無賃乗車をほのめかして、それに気づかれる。もはやどうしようもなかった。
「それなら荷物を運ぶのを手伝ってくれるかい? 切符代は払ってあげるからさ」
助け船を出してくれたのは彼女の父。俺に選択肢はない。できることは頭を下げるだけだ。
彼は笑って気にしなくて良いと言う。それよりも旅を楽しむべきだ。と。
空気を会えるかのように汽車が大きな汽笛を鳴らした。こうして不義な夏が始まった。夢のような夏が。





