3-06 インプロバイザー=オーバーチュア
「僕はその呪いを、いつか彼女に祝福と呼ばせてやりたいんだ」
高校一年生の春休みも終盤を迎え、吾妻史乃は父の手伝いでとある小劇場へと足を運んでいた。そこで彼はかつて世に名を馳せた元天才子役・鳴澤湖巻と偶然の邂逅を果たす。
「ここに来たのはね、私の呪いを解いてくれる人が現れたらいいなって思ったから」
いつしかただの遠い憧れになってしまった演劇の世界。しかしそんな彼女の言葉をきっかけに、彼は一人の役者として初めてかつての憧憬と正面から向き合うことを選ぶ。
全ては一人の少女に、もう一度スポットライトの下で笑っていて欲しいから。
「ずっと怖かった。いつか私が消えてしまうんじゃないかって」
「誰かを演じることは、決して自分が居なくなってしまうわけじゃない」
これは二人の少年と少女が演じる、舞台と青春をお題にした観客のいない「即興劇」。
膝上に抱え込んだリュックを背負いなおすと、開いた車両のドアからは肌寒い外気が勢いよく流れ込んできた。
日曜日の昼過ぎ、元町・中華街駅を終点とする地下鉄の車両内には大勢の乗客の姿があった。終着駅は横浜市でも有数の観光地であり、近くにはプロ野球の本拠地や大きな公園もあることから、車両内は大変に混み合っている。
そんな空間から逃げ出すように早足で車両の外へ飛び出すと、すっかり耳に刻まれてしまったICカードの無機質な電子音を置き去りにして出口へと向かう。それからしばらくしてようやく太陽の下へとたどり着くと、地下道の寒さとは対照的な穏やかな春の風が僕の頬を浚っていった。
僕の降り立った馬車道駅周辺には、明治や大正を想起させるようなモダンな建物とそれとは真逆の近未来的な街並みが混じった不思議な風景が広がっている。
未だに物珍しさが勝る時もあるが、しかしこれもすっかり見慣れてしまった光景だ。別に僕のような男子高校生向けの店が多くあるわけでもないし、特段こういった街並みに心惹かれるような趣味があるわけでもない。
そんな僕がなぜこの街並みを当たり前のように見慣れてしまっているのか。それは僕の父の職業が理由だ。
僕の父はいわゆる舞台演出家というやつで、普段から劇団の公演やワークショップにと多忙な人だ。仕事熱心というと聞こえはいいが、あまり家庭を顧みるような人ではなく、そんな父に愛想を尽かして僕の母さんは5年ほど前に家からいなくなった。将来の目標なんて未だになに一つ在りはしない僕だけれど、愛した女性だけは絶対に大切にしようと誓った11歳の夜だった。
それはさておき、そんな出来事があったからと言って僕は父のことを嫌っているわけではない。あくまでどこにでもいる男子高校生である僕からしたら、なかなかに珍しい仕事をしている父はあこがれの的であり誇りでもあった。
それは今でも変わらないままで、僕はよく父の仕事を手伝っている。といっても一介の男子高校生に出来ることなんてたかが知れており、現場で足りなくなったものをよく買い出しに行くといった程度の手伝いだ。今日も父に頼まれて朝から横浜駅の近くの店へと今度の舞台で使用する小道具の調達に向かっていて、今はそれを届けに行く道中である。
話は戻るが、横浜市の南側にはなぜか劇場が多く固まっている。収容人数約17000人のアリーナをはじめとしてそれ以外にも大から小まで、多くの劇場が街の至る所に点在していた。小耳に挟んだ話だと芸術文化の支援は横浜市の行政方針の一環らしく、父の劇団にもどうやらいくらか補助金が市から支給されているらしい。
そんなこんなで父のよく利用する劇場も、この馬車道駅とそしてJR根岸線の桜木町駅の中間にあるのが僕がここに通い詰めている一番の理由だ。
まぁ、劇場といっても皆が想像するようなご立派なチケットカウンターがあるわけでなく、防音加工の施された扉を開けるとすぐに目の前にステージが広がっているような小劇場だ。
「親父、行ってきたよ」
先ほど店で包んでもらった紙袋を背中のリュックから取り出しながら建物の中に入ると、ステージの上で役者と言葉を交わしていた親父が僕の方へと視線を寄こした。
「おう、悪かったなフミ」
「別に、いつものことでしょ」
僕から受け取った紙袋を衣装担当のスタッフへと手渡す親父を見つめていると、ふといつもとは僅かに劇場内の空気が違うことを感じた。ゲネプロ直前の緊張感が原因かと思ったけれども、すぐにこの劇団は本読み前だろうが本番前だろうが大して緊張感がなかったことを思い出す。
じゃあこの妙な空気の原因は何だろうか。
そう思ったのも束の間、ブースの奥から聞こえてきた音響さんの一声で少しずつ劇場内の照明が落とされていく。どうやら僕が届けた安物のティーセットはさっそく出番を迎えてしまうらしい。
舞台用語でいうゲネプロとは、いわばリハーサルの集大成のようなものだ。演技や衣装をはじめ音響、照明、その他細やかな舞台装置まで、本番さながらに行われる厳密な通し稽古。当然途中でそれが止まることはなく、舞台の幕が降りるまで一切の中断も行われない、いわば舞台という芸術の最終確認作業だ。
僕はそんなゲネプロが子どものころから大好きだった。関係者しかいない客席で親父が作り上げた舞台を見つめるのは、この世のどんなものよりも僕にとっての贅沢だからだ。
客席の中段ど真ん中。半ば身勝手に決めた特等席へと腰を下ろすと、その舞台の幕開けを今か今かと待ちわびる。
先ほど感じた違和感の正体が判明したのは、それからすぐのことだった。
清潔感のある淡いシャンプーの香りを伴って、違和感の正体は僕の隣へと静かに腰を下ろした。衣服越しに触れ合う肩は、劇場内の熱気以上にその温もりを伝えてくる。それぐらいの距離感。
かろうじて女性だということが分かったのは、視界の端で絹のように滑らかな髪が小さく揺れていたからだ。
肩越しに触れた柔らかさに驚いて、思わず隣に座る誰かを確認しようとした瞬間、激しいオープニング楽曲と共に緞帳がせりあがっていく。
「すいませ……っ」
綺麗だった。薄暗がりの中、煌びやかなステージから差し込む照明だけがその整った横顔を美しく照らし上げている。
咄嗟に口をついた謝罪なんかこの世界に最初からなかったみたいに、彼女はただステージの上を見つめていた。いや違う、この瞬間に限ってだけはきっとあの舞台の上だけが彼女の世界だったのだろう。
そんな彼女につられるように、気づけばいつの間にか僕の世界も舞台の上に侵略されていく。コミカルな場面もシリアスなシーンも、見るものを飽きさせない工夫が至る所に散りばめられていた。
やっぱり親父の創る舞台は、相も変わらず面白い。
いつの間にか夢中になっていた僕を再び現実に引き戻したのは、緞帳が下がりきった直後に隣から聞こえてきた小さな拍手の音だった。
「……面白かったなぁ」
鈴を転がすような綺麗な声で、彼女は噛み締めるように小さくそうつぶやいた。
「えっと、ごめんね、何回か腕が当たっちゃったみたいで」
母親譲りの亜麻色の髪の隙間からこちらを覗く顔は、先ほどよりは幾分か幼く見えた。
「い、いや、別に」
「そう? なら良いんだけど……」
僕の言葉に安心したかのようにそっと胸を撫で下ろす彼女のことを僕は良く知っていた。むしろ僕を含め日本中の大勢が知っていた、と言ったほうが正しいだろうか。
鳴澤湖巻。元天才子役。ドラマや映画を始め多くの映像作品に出演し、ハリウッドのエンドクレジットにもその名前を連ねたことがある文字通りの神童。だけどその姿は2年前を最後に突如として銀幕の世界から消え去った。数々の憶測が飛び交いながらも、しかしその理由は今日まで彼女本人しか知る由もない。
「えっと……」
そんな彼女がなぜ今更、しかもこんな場末の小劇場なんかに姿を現したのだろうか。
「何か言いたげだね、吾妻史乃君」
「な、なんで……」
僕の名前を知っていることとか、急に隣に座ってきたこととか、尋ねたいことはいっぱいあった。でもどれを取っても彼女がここにいる理由にはたどり着けそうにない。
「あなた、思った以上に顔に出やすいタイプらしいよ」
僕の心を見透かすかように、青みがかった綺麗な瞳が僕を射抜く。
そんな視線から逃れるように咄嗟に周囲を見渡すと、いつの間にかステージの上では親父があれこれと演者に細やかなフィードバックを行っていた。幾つもの雑音が周囲を満たし、再び現実へと戻ってきたこの空間を、しかし先ほどと変わらない確かな熱が満たしている。
だけど直後に冷たく放たれたその声は、その願いは、そんな熱とは遥か遠い場所で、まるで深海に投げ込まれたサファイアのように孤独と一人闘っていた。
「ここに来たのはね、私の呪いを解いてくれる人が現れたらいいなって思ったから」
「呪い」。安直な比喩表現かもしれない。だけどいつの日か酒に酔った親父がポツリとこぼしたその言葉は、今日まで僕の心の隅にささくれのように突き刺さり続けている。
煌びやかなステージの上は、演者を惹きつけて離さない魔法で満たされている。
そんな魔法に魅せられて、役者が心血を注ぎ身を削りゆく様を親父はかつて「呪い」と呼んだのだ。
「なーんてね。ごめんね、急に変なこと言って。今のは忘れて」
何も言えない僕に呆れたのか、彼女はそれだけを言い残すと静かに劇場から姿を消した。咄嗟に彼女の後を追いかけてみるものの、劇場の出入り口ですっかりその姿を見失ってしまう。
「呪いを解いてくれる人……って」
屋内との気温差ゆえか、上着も着ずに出てきた体に春風がよく冷えた。しかしそんな冷たさとは裏腹に、今僕の胸の中を確かな衝動が熱を持って駆け巡っている。
それはかつてしまい込んだ夢へのあこがれか、それともただ純粋な表現への渇望か。その熱が妙に心地よいのは、きっと外が肌寒いだけが理由じゃないのだろう。
だけどそんなものただありふれた青春の一幕に過ぎない。夢見がちな思春期男子はいつの時代だってそんな一時の衝動に振り回され、そしてすぐに身の丈に合った現実と向き合うことになるのだ。
そう思っていた。いや、正確にはそう思っていたはずだった。僕がそんな考えを改めることになったのは、高校生活も二年目を迎えてすぐに再び鳴澤湖巻と再会したことが原因だった。





