3-05 脱獄
須藤 尚文は二十年もの間、引きこもり生活を続けている。そんな彼は深夜に出歩いた先で、偶然にも住宅火災の現場に出くわしてしまう。混乱の最中、炎に包まれ重症熱傷を負った女性を介抱していた彼は、彼女から不可思議な話を聞く。
「あの子はちゃんと死にましたか?」と。
消防車のけたまましいサイレンが深夜の静寂を裂く。眩い赤色灯と炎に照らされ、道路は夕焼け時のようにオレンジ色に染まる。
住宅地の一角、古い一軒家を襲った火は瞬く間に全体を包み込み、消防隊さえも立ち入れないほど勢いを増していた。
そんな中、騒然とする家の前で、みすぼらしい身なりの男が中年女性を抱きかかえていた。
女は炎に飲まれていたようで、焼け溶けた衣服の先から爛れた腕をだらりと力なく伸ばしている。その顔も火傷により、半分以上が黒く変色していた。
一方、彼女を抱きかかえる男の方はまったくの無傷だが、狼狽した様子で両手を震わせていた。乱れた髪と無精ひげの下に隠れた顔色は、女とは対照的に蒼白だった。
「う……」
「し、しっかりしてください! 救急車、すぐ来ますから!」
「あ、ああ……」
男の拙い声援を受け、女は僅かに目を開ける。そして自身を抱く者が誰か分からぬまま譫言のように、しかしはっきりと言葉を口にする。
「あの子、は……」
「あの子? えっと、大丈夫です。消防の人がきっと助けてくれます!」
「ああ……あの子、は……」
女の声は徐々に小さくなっていき、耳を澄まさなければ聞き取れないほどか細くなった。男は訳も分からぬまま、彼女の言葉を聞きとろうと必死に口元へ耳を近づける。
遠くなる意識の中、彼女は最後の力を振り絞り、男にこう告げた。
「あの子は……ちゃんと……」
「だ、大丈夫ですってば! だから……!」
「あの子は、ちゃんと、死にましたか……?」
「え、死に……?」
「……」
そう言い終え、彼女はゆっくりと目を閉じた。
何の反応も示さなくなった女を抱えたまま、男は呆然と、炎に照らされた彼女の顔を見つめるしかなかった。
二日後――――
「クソッ。殺す。殺してやる……」
火事の起きた民家からほど近い古びたアパートの一室で、小汚い男がラップトップパソコンの前で物騒な暴言を吐いていた。
彼は須藤 尚文、四十二歳。引きこもりである。
彼が引きこもりとなったのは、ちょうど二十年前。国立大学を卒業したが就職活動に失敗し、小さな食品メーカーへ就職してすぐのことだった。
残念なことに彼は不器用で、人付き合いが苦手なタイプだ。それでも国立大学卒という高いプライドがネックとなり、入職早々から上司や同期たちと頻繁に衝突していた。
そんな折、彼は仕事上でミスを犯した。ミス自体はごく小さなものだったが、嫌われていた彼は上司から必要以上の叱責を受けた。
一方の須藤も日ごろの不満と興奮で感情的となり、辞表を叩きつけて会社を去ってしまった。
それから二十年もの間、彼は仕送り金のみを得て、郊外の古いアパートで生活を続けている。
何をするでもなく、ただ無為な時間を過ごすのみ。インターネット上の動画やスレッドを閲覧し、ときに誹謗中傷めいた言葉を書き込んで匿名の相手と不毛な戦いを繰り広げる。
須藤 尚文の人生は、ただそれだけのものだった。
四十二歳となった一昨日、凄惨な火事の現場に遭遇するまでは。
「チクショウ。みんなオレをバカにしやがって。クソが」
いつものようにネット掲示板でのレスバトルに負けた須藤は机を強く叩き、興奮冷めやらぬまま独り言を呟く。
そして怒りを滾らせながら、乱暴にペットボトルを手に取った。だが、すぐに空だと気づき部屋の中へ放り投げる。
「なんだよ。もう無いのか」
未開封のペットボトルを探すものの、ゴミだらけの部屋にそれらしき物体は見当たらない。そもそも部屋はゴミに覆われ、床も見えない惨状だった。
唯一整頓されているのはラップトップパソコンの周辺だけで、普段寝ている布団さえもゴミ雪崩の襲撃に遭っている始末である。
「はあ、仕方ねぇ。買いに行くか」
大きく溜息をつき、須藤は重い腰を上げる。薄汚いコートを手に取り、ボサボサの髪や無精ひげを整えることなく、玄関のドアノブへと手を掛けた。
だが、そこで彼は動きをピタリと止め、不機嫌だった顔を曇らせて呟く。
「そういや、あのコンビニ……まだ開いてないかな」
須藤の行きつけのコンビニは一昨日、隣家の火事により一時休業を余儀なくされていた。延焼こそしていなかったものの、状況からしてすぐに営業再開できるものではなかったのだ。
彼の住む地域には数店ほどコンビニが存在する。しかし行きつけの店舗以外となると、徒歩ではなかなか通える範囲に無い。
それに近くにスーパーはあるが、午後十時には閉店してしまうため、夜型人間の須藤とは時間が合わない。
だからこそ一昨日の深夜、須藤は例のコンビニへ買い出しに来ていた。だが火事のせいでパニックになってしまい、今になって飲料が足りないことに気付いたのだ。
彼は深い溜息を吐きつつコートを脇に抱えたまま、再びラップトップパソコンの前へと座り直す。行きつけの店舗が休業していれば、サイトに掲載されているはずだった。
「えーと、フェルマーマート、美口町店……あ、やっぱダメか」
閉じたばかりのブラウザを立ち上げ、慣れた手つきで情報収集を始める。彼の予想どおり、コンビニの公式サイトには『臨時休業』と記載されていた。
それも、営業再開についてはどこにも記載がない。再開の目途すら立っていないという証左である。
「再開時期は未定か。クソ、我慢するしかねぇか」
そう言って先ほどよりも深く大きい溜息をつき、怠そうに持っていたコートを畳んだ、その時だった。
「うわ、くっせぇ! なんだこれ、煙か? マジかよ……」
異常な臭気に眉を顰め、汚いものを触るようにコートを指で摘まむ。
このコートは一昨日の深夜、彼が火事に遭遇した際に羽織っていたものである。そのため、辺りに漂っていた煙も吸っていた。
色味は褪せ、ところどころ穴も開いているが、須藤にとってお気に入りの一着だった。それが偶然現場に出くわしたことにより、今や異臭を放つ存在へと成り果てている。
「ああ、ホント最悪だ。せっかく誕生日だったのにな……」
レスバトルには負け、飲料も購入できず、お気に入りのコートも失った。あの火事をきっかけに訪れた三つの不幸に、須藤は大きく落胆する。
腹いせとばかりにコートを放り投げようとした矢先、ふと彼の脳裏に一昨日の光景が浮かび上がった。
燃え盛る民家、死にかけた女、奇妙な言葉――――
「そういや、あの火事……」
投げようとしたコートをそっと置き、再びキーボードを叩く。現代ではどれほど小さな町の事件でも、ネット上で検索すれば詳細な情報が流れてくる。ましてや、火事のように大きな事件であれば猶更だ。
昨日は気が動転していた須藤だったが、今や事件に対する負の感情を忘れ、強い好奇心から検索を始めた。
「……お、あった」
検索結果が画面いっぱいに表示されていく。その中には彼の思った通り、一昨日の火事に関する記事もあった。
その中のひとつ、大手ウェブニュースサイトの記事を須藤はクリックした。そして重々しく、マウスカーソルを動かしていく。
「えーと? 『二十日未明、美口町の民家から火の手が上がった。全焼した民家から三人の遺体が見つかった』、か。身元は……」
込み上げてくる得体の知れない恐怖と不快感に耐えつつ、適当に読み飛ばしながら記事をスクロールしていく。
「『遺体は家主である桜井 文世さんと、妻の花さん。そして同居する息子の桜井 隆司さんと判明。また、救急搬送された隆司さんの妻、麗子さんは家の前で発見されたが、搬送先の病院で死亡が確認された』……ああ。結局全員、死んだのか」
そう言って、須藤はふと両手に視線を落とす。
搬送先の病院で死亡が確認された、桜井 隆司の妻、麗子。それは言うまでもなく、須藤が抱きかかえていた中年女性である。家の前で発見されたという時点で、彼女以外に考えられない。
一人の命が、自分の手の届く範囲で喪われた。その事実を突きつけられ、当時の鮮明な麗子の画像と共に、猛烈な吐き気が須藤を襲う。
「うっ……クソ、やっぱ見るんじゃなかった」
好奇心から記事を読んだが、今の彼には強い後悔しかなかった。事件の詳細を知り、改めて自身の見た光景が紛れも無い現実だったと認識したのだ。
深く息を吐き、ブラウザを閉じようとマウスカーソルを右上へと動かす。だがその時、奇妙な違和感を覚えた須藤は手を止めた。
「ん? なんか、おかしいような……」
少し前まで記事を遡り、今度は一文たりとも飛ばさずに読み直す。隈なく記事を読み終えた彼は小さく唸り声を上げ、ブツブツと呟く。
「……やっぱりおかしい。見つかった遺体は焼け跡から三人と、家の前で一人。ってことは、死体は四人だったはず。でも、あの人は……」
家の前で力尽きた桜井 麗子は須藤にはっきりと、こう伝えていた。
「あの人は『あの子はちゃんと死にましたか?』って言った。ってことは、あの人の言う『あの子』って、一体……」
コンコンッ
「っ!?」
不意に玄関ドアを叩かれ、須藤は座ったまま飛び上がった。
このアパートにはドアベルが無い。そのため、須藤に来訪を告げるにはドアをノックするしかない。
急な来訪者に驚きつつも、彼は息を整えて外に向けて声を掛ける。
「ど、どなたですか」
「警察です。須藤 尚文さん、開けていただけますか?」
「け、警察……?」





