3-04 グッバイ地面、蟻我、党。
それは静かに走り出した。
人類を襲った未曾有な蟻禍。
2京匹以上とも言われる世界中の蟻が、まるで自我を持ったように群れを捨て人を襲いだしたのだ。
ただ一度、その強い毒性をもった牙で噛まれるだけで人は命を失ってしまう。
それは蟻だけが感染する新型ウィルスにより毒蟻と化した蟻の異常行動が原因であった。
この事態に誰よりも早く気が付いた元厚労相事務官の草野は、昆虫学のホープである小笠原郁美とともに、生き残りを賭け海上への脱出を国民に訴えるべく新党を結成した。
主要閣僚のほとんどが辞表を提出し、衆議院が解散直後に毒蟻被害で現職総理が死亡するという政治空白の最中、次の衆議院選挙までの約5週間という期間で何の地盤も持たない草野は国民脱出という公約を掲げ、衆議院選挙に出馬するのであった。
――それは静かに走り出した。
「総理、お耳に入れたい事項が」
夜分にも関わらず首相官邸を訪れたのは桂木厚労省大臣と若い事務官。
すでに寝間着姿だった深谷総理は、それでも笑顔を浮かべ二人を私室となる応接間へ迎え入れた。
ソファに腰を下ろし、二人にも座るように促す。
「緊急となる事案でもありましたか?」
「まだ解らないのですが、詳しくは草野君から説明してもらいます」
「成田の検疫所で防疫を担当しております草野です。まだ確証は持てませんが、新たな感染症が始まった可能性があります」
「検疫所? 将来有望な方なのですね」
検疫所の職員が大臣を伴って官邸を訪れる。
通常では考えられないことである。
「いえ、全ての上司が立て続けに緊急かつ政治的な総合判断をした結果です」
「ほう」
ようは判断の丸投げが続いた結果、桂木に辿りついたということだ。
「それはそれで持っている運というものですよ。結構結構。しかし、新たな感染症ですか。ようやくあれが落ち着いてきたところなのですけどね」
2020年に日本にも上陸した新型感染症は、何度も変異を重ね、世界中で猛威を振るった。
国民の生活スタイルは一変し、ウィルスが弱毒化した現在でもマスクを手放せなくなった人も多い。
いまだ年に2、3回の流行はあるものの、ワクチン接種が浸透したことから重症者、死者ともに落ち着き、あとは特効薬を待つのみという状況である。
「新しい変異なのですか?」
「本日、成田近郊の病院で肝臓壊死を伴う肝炎で2人の方が亡くなりました」
深谷の問いに答えず草野は事実を報告した。
「成田? 空港関係者ですか?」
「いえ、農業を営む老夫婦です」
「予防接種は?」
「定期接種を受けている記録があります。検査では陰性だったため、医師によると感染を疑う明確な兆候はないとのことです」
「そうですか」
深谷は少し考え込むような仕草をしてから、もう一度、草野に訊ねる。
「新しい変異株という可能性はありませんか?」
十数回の変異後、より強毒化したウィルスは最終的に約402万人もの犠牲を出すことになった。
これにより当時の政権は崩壊し、与党は求心力を失い分裂。
最大でも衆参で70人程度の議員という近年では類を見ない中規模政党が乱立する異常事態となり、この結果、9つの政党および複数の会派による大連立が成立することになった。
あくまで政権運営のための連立であり、絶対多数を維持しながらも、現状維持以外に特段の方向性を持てない野合である。
マスコミや世論に批判されながらも、難しい舵取りの中、現状維持を続けていることが連立与党内で評価され2期目に突入していた。
「亡くなった老夫婦は、蟻に噛まれたと言っていたそうです」
「蟻? 蟻に噛まれて死んだと言うのですか?」
「まだわかりません。ただ診断した医師によると、なんらかの中毒症状に見えるとの見解を示しています」
「毒蟻ということですか」
「はい」
「以前、話題になりましたね」
「火蟻ですね。ですが火蟻のような痛みを伴う症状は出ておらず、肝臓のみが機能不全を起こしたようです」
「そうですか……それで、新たな感染症というのは? 毒蟻なら感染症では無いですよね?」
草野が深谷の言葉に少し頷く。
「蟻が何らかのウィルスに感染したのはではないかと疑いました」
「蟻ですか?」
深谷は訝しそうに草野を見た。
「はい、蟻の行動がおかしいという報告が千葉県警に入っていたようです」
「蟻の行動がおかしいだけで通報する人がいるのですね」
「いえ、通報が問題なのではありません。通報の内容が問題なのです」
「続けてください」
一瞬、呆れたような仕草をした深谷だったが、草野の言葉に続きを促す。
「蟻が巣から出てばらばらな方向に散っていったそうです」
「なるほど。それは何かを意味するのですか?」
「異常行動だとしか」
「桂木さん、千葉の老夫婦が毒蟻に噛まれて亡くなった。蟻が巣から出歩いている。たったこれだけで、私の少ない睡眠時間を削ったのですか?」
草野ではなく、深谷は桂木を笑顔のまま見つめる。
深谷と桂木は閣内であっても違う政党の人間だ。
連立を維持するためにも深谷は桂木に強くは言えない。
これは他の閣僚たちに対しても同様なのである。このため深谷の表情には、どんな時でも貼り付けたような笑顔が染みついてしまっていた。だが、政権トップとして最低限の扱いは桂木に求めていいだろう。それは睡眠時間であり、蟻というくだらない問題に煩わされないといったささやかなものだ。
そう考えた深谷の声は、やや不機嫌なものだった。
「総理、違うのです。蟻が群れずに散っていったのです」
「草野君、ありがとう。厚労省には蟻の観察日記を提出するという崇高な業務があるのでしょう。私には理解できないことだが、君たちの仕事を卑下するつもりはない。だが、私も総理としての責務がある。明日の準備を早朝からしなければならないので、休ませてもらうよ」
そう言って立ち上がろうとした深谷を止めるように草野も立ち上がる。
「通報は1件ではありません。千葉県警に入った蟻の異常行動に関する通報は12件。それも全て違う地域からです。そして問題の老夫婦は、その通報があった場所の1つに近い場所に住んでいました!」
その言葉に深谷は目を閉じる。
「12件が違う地域?」
「ええ、そうです」
「蟻がばらばらな方向へ散った?」
「はい」
「そのうち1件の近くでは老夫婦が中毒症状で亡くなった……」
目を開けた深谷は、本心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「草野君、よくやりました」
「え?」
「桂木さん、明日記者を集め、官邸と厚労省合同で記者会見をやりましょう。政治不信を払拭するチャンスではありませんか。政治主導でこの毒蟻騒動をコントロールする。これが杞憂に終わろうとも、政治が国民のために積極的に動くアピールになります!」
そこで始めて草野は声を荒らげた。
「総理、蟻は世界中で2京匹以上と推定されています!」
「だから何ですか。毒蟻がそんなにいるとでも言うのですか」
「そうは言えませんが、一斉に蟻が異常な行動を起こしているのです。これが全国に拡がったら……」
「自衛隊を総動員して蟻を駆除しましょう! 先手ですよ、先手。これも草野君のおかげです。さぁ、千載一遇のチャンスですよ。あ、草野君は杞憂で終わったときのために、身辺は整理しておいてください」
さらりと残酷なことを言って、草野に興味を失った深谷は、すぐに秘書官を電話で叩き起こし、防衛大臣へ明日一番に官邸に来るように伝える。このとき、深谷の脳裏には、指導力を発揮することで3期目続投までの絵が浮かんでいた。そして草野が蟻の感染症だと懸念していることをすっかり意識の外に出してしまっていた。
「明日には自衛隊を動かします。官邸と厚労省がイニシアチブを取っていきましょう」
この言葉に桂木の目の色も変わる。
だがこの深谷の思惑は一夜の夢に終わってしまう。
関係各所に電話連絡をしてから眠った深谷は、翌朝までに成田市内でさらに4人が亡くなり、マスコミが騒ぎ出したことを秘書官に知らされた。
「成田に上陸したと思われる毒蟻が原因の死者が出ている」
正午の緊急会見は、深夜に情報を把握していたにも関わらず発表が遅れたことで犠牲者が増えたのではないかと糾弾される場となった。
共倒れを懸念した他の連立政党は、深谷と桂木に不信感を示し、その日のうちに連立からの離脱を表明し、翌日の混乱する議会で内閣不信任案を提出。
これに対し深谷は党内の反対を押し切り衆議院解散を選択。
改めて民意を問うこととなった。
老夫婦死亡から衆議院解散までのたった3日間に死者は219人に達し、被害は東京都と茨城県に拡がっていた。そして千葉県の観光施設で飼育されていた羊が一晩にして全滅したとの報も入る。
それでも深谷は諦めていなかった。
「桂木さん、自衛隊の駆除活動と国民への啓蒙により、死者の増加はある程度、抑制できるでしょう。もう少しです。このことを成果として選挙を勝ち抜きましょう!」
強引な解散で党内の求心力も失っており、深谷自身が現職総理の座にありながら、当選しない可能性まで噂されている。党総裁からの退陣要求すら無視を続ける深谷は、同様の立場にある桂木と、まるで同志のように密かに連絡を取り合っていたのだ。
「そうですね、捲土重来という言葉もあります。総理、巻き返せることを祈りましょう」
「何を弱気な。新政権では桂木さんの活躍、期待しているのですよ」
これが深谷の最期の言葉となった。
翌朝、官邸の寝室で冷たくなっている深谷が見つかる。
死因は壊死性の劇症肝炎。
なお、蟻の咬害があったかはこの時点では不明とされた。
後に蟻禍と呼ばれる毒蟻被害で、公職にある者に被害が出たのは、これが最初であった。
総理の亡くなった日。
記者発表が遅れた責により自宅謹慎を命じられていた草野は、提出していた辞表が、同日付で受理されたとの連絡を受ける。
政権交代後に懲戒処分がされる可能性があったため、厚労省内部の温情判断であった。
晴れて無職となったその足で草野は、学生時代に付き合いのあった埼玉農工大学で蟻や蜂の群体行動を研究している小笠原郁美研究員を訪れていた。
「蟻がまるで自我を得たように群れから離れ、突如毒を持つ身体になって動き出す。そんな蟻が感染するウィルスというものが果たして存在するものだろうか?」





