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最終話 そして、ふたたび春

前話の指に口付けは、ちょっと先生手が早すぎであろうということで撤回させてもらいました。

なので現時点では、勢いで抱き締める、手を繋ぐまでの進展です。


これで最終回です。


 本日、山田ひなたは二十歳を迎えた。

 春休み中は何かと忙しく、なかなか飛沢と会う時間が作れなかったが、新学期を迎えてようやく会う時間ができた。

 今日は朝から一緒に過ごせる。嬉しいのが半分、緊張しているのが半分。いや、八割以上が緊張で占めているかもしれない。

 交際を始めて四ヶ月目、初めて飛沢の自宅を訪問する。汚いから、狭いからと色々理由を付けて断られていたが、少々無理を言って聞き入れて貰った。

 もちろん飛沢の家に行ってみたいという好奇心もあるが、一番の理由は智美のひと言であった。


* * * *


「もしかして、他にいるんじゃないの?」

 飛沢と付き合い始めたことは、智美だけには話してある。そんな彼女に近況を根掘り葉掘り聞かれた後、真剣な面持ちで、ひなたに告げた言葉だった。

「他に、って?」

「女よ、おんな。決まってるじゃない」

 智美曰く、付き合ってそろそろ四カ月を迎えるというのに、手を繋ぐ程度の進展しかないなんておかしすぎるというのだ。実は抱き締められもしたが、恥ずかしいので伏せてある。しかし、飛沢に抱き締められたのは、あの一回きりだ。

 何より、自宅に招かないなんて一番怪しいと智美はいう。

「だからひなた。自宅に突撃しなさい。もし他に女がいるのなら、怪しいものが絶対に見つかるはずだから!」

 まず洗面所。歯ブラシ、化粧水や乳液、女性用シャンプーやコンディショナーがないかチェック。

 そしてキッチン。ペアの食器や箸。調理器具が揃っていたり、香辛料や調味料が色々揃っていたら怪しい。

 加えて化粧や香水の匂いがしないか。アクセサリーが落ちていないか。長い髪や染めた髪が落ちていないか。

「まだやってないなら、今がやめておくチャンスだから!」


* * * *


 と、散々なことを言われて腹が立ったものの、気になっていたのも事実。

 手を繋いだのも、初詣に行った時以来。たまに頭を撫でられるが、嬉しいもののなんだか子ども扱いされているみたいで複雑だ。メールや電話では毎日のようにやり取りはしているが、実際会うのは大学がほとんどだから、あんまり親し気にはできない。

 親し気にしていないせいもあるせいか、本当に親しいのか不安になってきた。

 やっぱり年下だから、子ども扱いなのだろうか。女として扱われているのか。


「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 智美に突撃しなさいと言われたが、さすがにそれはできなかった。だが、今はそれを後悔している。

 朝から訪問する予定だったが、急きょ昼過ぎから来て欲しいと連絡があって今に至る。この空白の時間に何が起こったのか……考えたくない。

 そもそも飛沢を疑うこと自体どうかしている。真面目な彼が二股なんてあるわけがない。

「山田さん?」

 玄関先でぼうっとしていたようだ。慌てて笑って誤魔化してみる。

「いえ、あの……お邪魔します」

 そうだ。まだ「山田さん」って呼び方も気になっていた。

 家族には「ひなた」や「ひな」、親しい友人には「ひなたちゃん」、「ひなちゃん」と呼ばれている。

 彼氏だと、普通はどう呼ばれるものなんだろうか。やはり「ひなた」と呼び捨てだろうか?

 飛沢に「山田さん」以外で呼ばれるなんて、ちょっと想像できない。でも、いつまでも苗字だとやっぱり親しさは感じにくい。

 名前で呼んで欲しいな。

 頼めば呼んでくれるかもしれないが、恥ずかしくで言える自信がない。

 飛沢の住まいは借家の平屋で一軒家。築年数は結構行っていると以前から聞いていたから、古さは予想していた。でも中に入ってみると、予想以上にきれいだった。

 玄関に入るとすぐに台所だった。ふと、智美の言葉が甦る。

 ざっと見るがあまり生活感がない。

「先生、今も自炊しているんですか?」

 すると飛沢は苦笑する。

「いや、最初の頃はやっていたんだが、だんだん面倒になってやっていない」

 なーんだ。

 智美の疑惑ポイントがひとつ消えて、ほっと安堵する。

 ここで「わたしが作りましょうか?」とアピールするといいのだろうが、いまだに自慢できる料理はカレーライスくらいだ。もっと女子力をアップしないといけないのかもしれない。

 案内されたのはテレビが置いてある八畳間だった。和室だと思っていたらフローリングだ。低い小さなソファと液晶テレビ。壁はすべて本棚になっている。窓がない壁は天井までの本棚で、地震が来たら少々危険な気もする。

「すごい本の量ですね……」

「ああ、これでもずいぶん減らしたんだ」

 減らしてこの量とは。確かに研究室も本棚に入りきらない本が机に平積みになっていることがあるな、と思い出す。

「そうだな……紅茶かコーヒーでも淹れようか」

「あ、わたしもお手伝いします」

「いや、君は座っていなさい。で、どっちがいい?」

「え、はい、ええと……紅茶がいいです」

「わかった」

 そう言い残すと、飛沢はさっさとリビングから消えてしまった。

 残されたひなたは、どうしたらいいものかと部屋をうろうろしてしまう。飛沢の言う通り、大人しく座っていた方がいいだろうとソファに腰を下ろそうとしたが、壁の空白が隣りの部屋へ続く襖だと気が付いた。

 多分、寝室だろう。智美が教えてくれたチェックポイントは、他になにがあったか必死に思い出す。

 ええと……そうだ。長い髪か染めた髪、香水の匂いとアクセサリーだっけ?

 お湯が沸くまでに時間が掛かるはず。確認をするなら今がチャンスだ。

 でも、人の家を勝手に捜索するなんて。しかも二股を疑っている自分に罪悪感もある。しかし、付き合ってから四カ月になろうとしているのに、恋人らしいことなどほとんどない。

 一緒にいられるならそれでいいなんて思っていたけれど、だんだん欲が出てきてしまうみたいだ。たまに後ろ姿を見て衝動的に抱き付きたくなる。

 わたしって……結構いやらしいのかな。

 手を繋いだ感触や、抱き締められた時の温かさ。絶対に忘れられないと思っていたのに、もうその感触は薄れてきてしまっている。

 今の状況だとキスなんてまだまだ遠そうだ。いや、それすら無い気がする。

 よし。やっぱり、見る!

 飛沢には申し訳ないという気持ちはある。でも、それを上回る不安が勝った。

 そろり、と四つん這いで床の上を移動する。二、三歩移動しただけで、あっという間に襖の前だ。そっと襖に指を掛け、スライドさせようとする。しかし何かが引っ掛かっているのか、指先が入るくらいしか隙間は開かなかった。

 早くしないと、飛沢が戻ってきてしまう。焦ったひなたは、指先に力を込めた。勢いよく襖が開いた途端、何かがひなたの頭上に崩れ落ちてきた。

「きゃああっ!」


* * * *


「すまない……」

「いえ…………わたしの方こそ、ごめんなさい」

 どうやらリビングとして使っている部屋は、普段は本で足の踏み場がないほどだという。ひなたが来るから寝室に押し込んで、どうにか小奇麗に仕立てたという。

 部屋が汚いからというのは、ある意味本当だったのだ。飛沢はトイレと間違えたと思ってくれたが、本当は彼を疑って部屋を探索しようとした自分が申し訳ないやら情けないやら。

 でも、二股を掛けていたわけじゃないとすると、やっぱり自分に女性としての魅力が足りないということであろう。

 散乱した本を片付けながら、つい涙ぐんでしまう。部屋を散らかしたことを気にしていると勘違いしている飛沢は、優しくひなたの髪を撫でる。

 子ども扱いされているみたいだけれど、大きな手の感触は温かくて気持ちがいい。貴重な飛沢との触れ合いのお蔭で、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。うっとりして目を閉じる。

 髪を撫でていた手が移動して、頬を包み込む。温かい骨張った指先が、顎に触れ、ひなたの顔を上向かせる。あれ、と思って目を開くと、飛沢の顔が目の前にある。目が合って、お互い固まってしまう。

「いや、その……ごめん」

 最初に動いたのは飛沢だった。顔を背け、口元を手で覆う。ほんのり目元が赤いのは、多分気のせいじゃない。

 あれ、もしかして……今。

 気づいた瞬間、立ち上がろうとする飛沢のシャツを掴んだ。

「あの、先生」

 今のは、と訊ねようとするが飛沢がそれを遮る。

「すまない、うっかり気が緩んでしまったようだ」

 ひなたと目を合わせようとせず、そっぽを向く飛沢の頬はますます赤くなる。

「いえ、あの! 気、緩めて欲しいです」

 ひなたの必死の訴えに、飛沢は一気に脱力する。項垂れる飛沢のつむじを見つめていると、飛沢は大きな溜息を吐いてから、ぼそりと呟いた。

「君が卒業するまでは、もう何もするまいと心に決めているんだ」

 まさか、そんなことを考えていたとは。

「わたしが子供っぽいからですか?」

 ずっと考えていたことが、ぽろりと口から零れ落ちた。

「そうじゃなくて……君はまだ学生で、未成年だから」

「もう二十歳になりました」

「ああ……そうだったな。そうだ、ケーキを買ってあるんだ。紅茶が冷めないうちに食べようか」

 話をはぐらかそうとする飛沢のシャツを、ぎゅっと握り締める。

 先生、と言おうとして、ふと気づく。

 飛沢にもっと恋人らしく接して欲しいと思っているくせに、自分だって付き合う前と接し方を変えていない。大学にいるときは仕方がないにしても、こうして二人でいる時でも、相変わらず飛沢を「先生」として接している。

 自分だって「山田さん」じゃなくて、二人の時くらいもっと親し気に呼んで欲しいと願っている。飛沢も同じように願っているかわからないが、少しは思っていると信じたい。

「ほまれ、さん」

 は、恥ずかしい……。

 名前を呼んだだけなのに、顔から火を噴きそうだ。

「わたしは、もっと先生に近づきたいんです。だから、二人の時だけ、そう呼んでもいいですか?」

 ずっと項垂れたままだった飛沢が、ようやく顔を上げた。少し困ったような顔をしていたが、嫌がっている様子ではなさそうだ。辛抱強く返事を待っていると、根負けしたかのように、ふ、と飛沢は破顔した。

「じゃあ俺も、二人の時だけ、呼び方を変えてもいいだろうか?」

 もちろん大歓迎だ。大きく何度も頷くと、途端に飛沢は硬い表情になる。彼も緊張しているのだと気付いて、ひなたもつられて緊張してしまう。飛沢は小さく深呼吸をすると、覚悟を決めたように口を開いた。

「ひなたさん」

「は、はい」

 予想外だ。年上の飛沢から、まさか「さん」付けで呼ばれるとは思っていなかった。でも、飛沢に呼ばれると、聞き慣れた自分の名前が、なんだか特別なものになったような気さえする。

「あの、もう一度、呼んでください」

 もう一度聞きたくて、ついリクエストをしてしまう。飛沢は柔らかく笑うと、快く応じてくれる。

「ひなたさん」

「はい」

 嬉しい。嬉しさのあまり、飛沢の胸に飛び込んでしまう。ぎゅっと抱き付いてから、自分がとんでもなく大胆な行動を取ったことに気づいてしまった。でもすぐに飛沢が抱き締め返してくれたので、安心して胸にすり寄る。

 温かい。寒空の下で感じた温もりをようやく思い出す。人の身体がこんなにも温かいなんて、あの日初めて知ったのだ。心臓の鼓動が早い。自分のとどちらが早いだろうかと、そっと耳を澄ましてみる。

「一年とは、早いものだな」

 頭の上で、飛沢が低く呟く。

「そうですね。先生……誉さんとこうしているなんて、一年前は想像もしていませんでした」

「お互い様だな」

「はい」

 腕の中で顔を見合わせ、くすりと笑う。

 飛沢の手が頬を触れる。どうやら卒業するまで何もしないは撤回してくれたようだ。

 再び訪れた機会を逃すまいと、指が促すのに任せてそっと瞼を閉じた。



これにて完結です。

驚くほど長くかかってしまいましたが、読んでくださる方々がいるということを励みにして、最後まで書き終えることができました。

最後までご拝読ありがとうございました。


勇魚

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