冬の章・最終話 あたたかな手
初詣なんて何年ぶりであろう。
ひなたの希望で訪れた場所は、都心からそう離れていない、一応観光地と呼ばれる場所にある神社であった。
最初は実家の車を出そうかと提案したが、ひなたがいうには車で行くと道は混んでいるし、駐車場はいっぱいでなかなか見つからないしで大変らしい。どうやら以前、家族で初詣に出かけた際に体験したことであるという。電車で現地の駅で待ち合わせる、というのも彼女の提案だった。
いつになく行動的だと思ったが、彼女の趣味が「寺社仏閣巡り」なのを思い出す。この辺りは古い寺社仏閣が広範囲に点在しているから、もしかしたら行きなれているのだろう。
とはいえ、現地集合か……。
確かに地元から一緒に出掛けると、大学関係者の目に付いてしまう可能性が高い。だから現地集合で間違っていない。もしかして、彼女にとっては友人と出掛ける感覚なのだろうか。
もしや、付き合っていると思っているのは自分だけなのか……。
若干の不安を覚えつつ、待ち合わせ場所で彼女を待つ。駅前は同じように初詣に訪れる人たちで賑わっていた。待ち合わせ時間よりも十五分早く着いたから、まだ現れないだろうと思っていたが、気配を感じてふと顔を上げる。
「っ、先生」
ちょうど声を掛けようとしたところだったようだ。白いダウンジャケットに、赤いマフラーをしっかりと巻き付けたひなたが目の前にいた。驚いたように目を見開いたが、すぐにホッとした表情になる。
「お、お久しぶりです」
「ああ、お久しぶり」
久しぶりといってもほんの数日だ。まったく色気の欠片もないやり取りに、おかしくなって互いに笑ってしまう。
「じゃあ行こうか」
「はい」
手を繋いでいいものか迷うが、やはりそれはできそうにない。肩を並べて、人ごみの中を歩き始めた。
さすがに有名な神社だ。参道はラッシュ時の駅のような状態になっている。見渡す限り人、人、人。その列はなかなか前に進まず、一体いつ目的地にたどり着けるかわからない。
しかし、こうして彼女と肩を並べていられる。
「すみません。まさかこんなに混んでいるなんて」
以前訪れたのは三が日を過ぎた後で訪れたらしく、ここまで混んでいなかったらしい。
「まあ、ゆっくり行けばいいさ」
しんしんと冷え込んではいるが、寒さは人の壁でかなり軽減されていた。薄曇りではあるが、風もない。真冬にしては過ごしやすい天気ではなかろうか。
「そうですけれど……」
申し訳なさそうに、ひなたの声が沈み込む。
「いいじゃないか。こうして、君とゆっくり過ごせる」
「え……、そ、そうですか?」
この台詞は彼女にとっては意外だったようだ。目を丸くして驚いている。
いかん、完全に引いている。浮かれ過ぎだ。
「ああ……まあ…………そうだな」
柄でもない言葉を口にしてしまった。しかし、いった言葉は取り戻せない。もう失態するまいと、下がってもいない眼鏡を押し上げ、マフラーの中に鼻先まで埋める。もちろん赤らむ顔を少しでも隠すためだ。
三十路を過ぎたというのに、こういうことにはいつまで経っても馴れないものらしい。
その後は、ぽつぽつと他愛もない会話を交わす。何を話したのかは覚えていないが、あれほど長いと思っていた行列だったが、案外早く拝殿の近くへ辿り着けた。賽銭箱まであと少しだ。
「先生、あの……」
緊張気味な声だった。誉が目を合わせると、ひなたは怖じけづいたように目をふせてしまう。
「どうした?」
「いえ……」
何でもないようには見えない。訊ねようとするが、参拝の順番が来てしまう。
結局、参拝が終わっても、彼女は先ほど言い掛けた言葉を口にしようとしなかった。
「先生、甘酒飲みませんか?」
「あ、ああ」
「じゃあ、貰ってきますね」
途端、彼女は小走りで甘酒を配る行列へと向かってしまう。
さっき、彼女は何を言い掛けたのだろう?
嫌な予感が胸に広がる。様々な可能性が頭を掠めるが、考えれば考えるほど嫌な方向へ進んでしまう。
不安を押し込めたまま、眼下に伸びる参道を見下ろす。小高い場所に構えた境内から、長く伸びる参道は、まだまだ人波は絶える気配もない。
ふと、鼻先に白いものが掠める。空を仰ぐと、粒のような雪が宙を舞っていた。
「雪か」
これだけ寒いのだから、雪になってもおかしくはない。手のひらで受け止めた雪の粒は、肌を掠めただけで、あっという間に風にさらわれてしまう。
「お待たせしました……どうしました?」
両手に甘酒を携えて戻ってきたひなたが、誉が広げた手のひらを不思議そうに眺める。
「雪が降って来た」
「雪ですか?」
ひなたは嬉しそうに目を輝かせ、白い空を見上げる。
「子供の時と違って、今は雪が降ると困るなって思うことが多いですけど……やっぱり降るとワクワクしちゃいます」
「ああ、私も不思議と心がわき立つ」
「先生もですか?」
「今でも学内の雪かきを、進んで買って出るくらいだ」
「意外です」
小さく笑って、手にしていた甘酒を誉に手渡す。
「ありがとう」
「……いいえ」
にこりと笑うが、今度はこちらを見ようとしない。甘酒にふうふうを息を吹きかけているひなたに、誉は堪え切れず口を開いた。
「山田さん、何か言いたいことがあれば言って欲しい」
「え……」
ぽかん、とひなたは目を見開く。そして、徐々に頬を赤く染めていくと、困惑したように俯いてしまう。
「いえ、あの……」
戸惑うように視線を彷徨わせていたが、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「ええと、あの、ですね」
「うん」
「あの、ですね」
意を決したように、彼女は顔を上げた。
「…………しているってことで、いいのでしょうか?」
「うん?」
「わたし、先生とお付き合い、しているってことで、いいのでしょうか?」
咄嗟に言葉がでない。こちらはとっくに付き合っているものだと思っていたが、彼女は違っていたようだ。いや、付き合っているという確信がなかったということなのだろうか。
こちらが返事に窮していると、彼女の表情はみるみる沈んでいく。
「すみません、わたしの早とちりで」
「違う」
低く、きっぱりと告げると、彼女の肩がびくっと跳ねる。
しまった。怯えさせてしまったと、たちまち後悔の念に囚われる。落ち着けと自らを言い聞かせると、深呼吸をしてから彼女と向き合った。
「少なくとも、自分としては付き合っているつもりだったのだが」
「……本当、ですか?」
がっくりと項垂れる。あの日、彼女に伝えた言葉は、ちゃんと伝わっていなかったということなのか。自分でもあの日の言葉を反復してみると、あることに気が付いた。
おい……まてよ。
改めて自分の言葉を思い出し、愕然となる。
彼女が自分を好きだという言葉に対して、まず何と告げた?
「迷惑なんかじゃない。ありがとう」だ。
次に告げた言葉は?
「もうとっくに見てる」だ。これはどうやったら女性として見て貰えるかという問いに対して答えたものだ。
そうだ。自分は彼女にまだ「好きだ」と一言も伝えていない。抱き締めたりはしたが、ひなたは少々その方面は鈍そうだから、あれは引き留めるための手段だと思われている可能性も十分だ。
「…………山田さん」
「はい」
「すまない……」
「え、あの、じゃあやっぱり勘違い……」
「いや、そうじゃないんだ」
どうすればいい?
考えがまとまらないまま、彼女の空いた指先を掴む。
冷たい指だ。目を見開いたひなたを真っ直ぐに見下ろすと、そっと彼女だけに聞こえるように囁く。
「好きだ……とまだ伝えていなかった。すまない」
「本当に、ですか?」
大きく頷くと、ふ、と彼女が微笑んだ。その泣き笑いの笑顔が心底嬉しそうで、その笑顔を見た途端、体温が上昇する。
どちらからともなく、温もりを求めるように互いの手のひらを合わせる。お互いにそっと握り合うと、心が満たされるような気がした。
「温かいものでも飲みに行こうか」
「……はい」
あたたかなこの手を取って、どこまで歩いて行けるかわからない。
だが、願わくば、彼女と共に歩める未来を。
小雪が舞い始めた空の下で、彼女との未来がこの先も続いていくことを静かに願うのだった。
甘酒はすっかり冷えてしまいましたとさ……。
次回で最終話です。




