冬の章・3 色恋沙汰は柄ではないのだ
なんて、な。
苦笑まじりに嘆息する。
まったく本当に、この気持ちを忘れてしまえたなら、どんなによかっだろう。
エレベーターが一階に到着する前に、もう一度胸に溜まった息を吐き出した。
なんだ、さっきの「いってらっしゃい」は。
順也を始めとする院生や大原にも同じことをしているは知っている。さらに、誰にもされているとわかっているのに、鼻の下を伸ばしている輩共がいることも。
そして、こともあろうにその輩共と、自分も同じ穴のムジナであることも。
駄目だ。少し落ち着こう。
下階に着いたものの、今の状態では事務室には顔を出せない。事務室の手前にラウンジがある。自販機とちょっとしたテーブルと椅子があり、学生らの休憩スペースとなっている。ポケットをまさぐる。かろうじて缶コーヒーが買える。自販機に小銭を放り込むと、まだぬるい缶コーヒーが出てきた。
少々の不満を残しつつ、缶コーヒーに口を付ける。
父圭介の怪我の一件以、初めて結婚というものを意識し始めた。自分に何かあった時、サポートしてくれる相手がいると助かるな、という利己的な発想もあるのは事実だ。だが、圭介と有紀を見ていて「いいな」と単純に思う気持ちもあった。その「いいな」が、若い嫁が貰えてなのか、二人の仲睦まじさがなのか、自分自身でもよくわからない。
ただわかっているのは、山田ひなたに想いを寄せたところでどうにもならないということだった。
歳の差はひと周り以上。
これだけも充分にハードルは高い。極めつけは、こちらは教員で、あちらは学生で、しかも未成年だ。
お互いに社会人ならまだしも、この関係は社会的に問題が大ありだ。
しかし、その前に何よりも肝心なのは彼女の気持ちだ。高いハードルがあったとしても、お互いの気持ちがあればどうにでもしようがあるだろう。
だか、恋に夢見る彼女が、歳の離れた教員をそのような対象として見る可能性は限りなく低い。せいぜい二つ三つ歳上くらいが彼女の対象範囲であろう。
そう、自分ではまず有り得ない。
ふと砕ける覚悟で彼女に告白とも考えたが、玉砕するのはほぼ確定だ。間違いなくぎくしゃくとした関係になるだろうし、研究室でのアルバイトを継続するのも難しいだろう。もう、会話すら交わせなくなるかもしれない。自分の想いを告げるなど、リスクしか存在しない。
果たして、そんなリスクを覚悟で告げるほどの想いであるのだろうか。確かに彼女に抱く気持ちは確かに恋と名の付くものだと思う。だか、その想いがそれほど深いものなのか、正直なところ自信がない。我ながら情けない話である。
ここ最近、加藤眞子という存在が気になりつつも、恋愛対象としては考えられない。
以前から彼女がどうも苦手であった。
会う回数も年に一度や二度程度。彼女の言うことは大抵的を得ていて、笑顔で痛いところを突いてくる。裏表はないのだろう。陰口や悪口は言わない代りに、当人に直接叩きつけてくる。誉の場合は親との同居や消極的な生活態度にファッションセンスについてよく突っ込まれたものだ。
これまでの態度を思い返してみても、恋愛感情を抱かれているとはとてもじゃないが思えない。
あれから毎週のように篠原も交えてではあるが、彼女と会ってはいるものの、これまでとほとんど態度は変わらない。からかうような言動は減ったが、毒舌は相変わらずだ。現在のところ、長年の恋が実った篠原が彼女のからかいの対象となっている。
自分が対象ではないと冷静になれるようで、眞子への苦手意識を取り払って見ていて、わかったこともある
口が悪いが、意地が悪いわけではない。どうやら親しみや好意を持つ相手に対してからかうのだ。
「…………ああ」
そうか。
たった今。今更になって理解してしまった。
ずいぶんとからかわれたり、手痛い突っ込みの洗礼に辟易していたが、あれらは彼女なりの愛情表現だったのかもしれない。小学生男子の「好きな子をつい苛めちゃう」というあれだろう。
しかし、通常それでは相手には伝わらないどころか、かえって嫌厭されてしまうのがおちである。彼女の子供みたいなとこれを可愛いと感じる者もいるだろうが、残念ながら自分はそれにはあてはまらなかった。
たから、例え篠原を交えた会合であるとしても、彼女と会うのはもう終わりにするべきだろう。直接的な言葉では言われていないものの、明らかに彼女は好意を示しているのだから、その気持ちがないなら、受け入れる訳にはいかない。
まだ缶に残るコーヒーは、ぬるいを通り越してすっかり冷たくなっていた。仕方なく飲み干すと、微かな苦味だけが舌に残った。
もし、好きになったのが眞子だったら。年齢や立場など考えなくて済んだだろう。だか好きになったのは年齢も立場も難しい彼女であり、眞子ではない。
ああ参った。色恋沙汰で袋小路になるとは我ながら柄ではないというのに。考えなければならないことはたくさんある。色恋にうつつを抜かす時間があったら、研究者としてやるべきことがいくらでもあるというのに。
幸い年末までは学会のことで掛かりきりだ。発表者として参加するから今は準備で忙しい。場所も海外だから、移動の前後を合わせると、ちょうどクリスマスが終わった後。国内のクリスマスイベントにそそのかされることもない。「先生、クリスマスはどうするんですか?」という無粋な問いにも「出張です」の一言で済む。
一緒に参加する教員の中には、何もこの時期に開催しなくても……という声もあるか知ることか。本来クリスマスは宗教的行事であり、恋人たちの恋愛イベントではないのだ。
そうだ。こんなとことで黄昏ている場合ではない。
誉は空缶を握り潰す……が、スチール缶は簡単には潰れなかった……ゴミ箱に威勢よく放り込むと、すっくと立ち上がった。救いとなった出張申請書を作成すべく、文学部事務室へと向かうのだった。
ぐるぐる悩む回でした。




