冬の章・2 彼女への感情は
大原に指摘された翌日、早速やってしまった。
執筆中の論文に取り掛かると、途中で手を止められなくなる。授業や来客は仕方がないが、多少の空腹くらいならついやり過ごしてしまいがちだ。そんなわけで、早速大原が提供してくれたココアに手を付けることにする。
大ぶりのマグカップにココアのスティックを二本入れる。熱いお湯をたっぷりと注げば、本日の昼食が完成だ。湯気と共にカカオの甘くもほろ苦い香りが疲労した心を和ませる。
空っぽの胃に熱いココアが染み渡るようだ。五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことであろう。身体が冷えきっているせいもある。あっという間に飲み終えたマグカップは心地好く熱く、握り込むとかじかんだ指先をじんわりと温めてくれた。
それにしても、この寒さはどうにかならないものか。室内にいるにも関わらず、今日もダウンコートを着たままで過ごしている。寒がりな彼女にも申し訳なく思う。
コンコン、と軽いノック。誉が「どうぞ」と答えると、ドアがそろりと開いた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。山田さん」
コート着用のままパソコンに向かう誉を目にして、ひなたは困ったように眉を下げる。彼女は相当な寒がりらしく、研究室での仕事がある日はファッションよりも防寒に比重を置いているようだ。膝丈のフレアスカートから覗く足は肌色も透けない厚手の黒タイツと踝を被うブーツ。黒いダッフルコートと、首にはみっちりと赤を基調としたチェックのマフラーが巻かれている。
「今日も寒いですね」
「ああ、今日も寒いようだ」
「お天気は良いんですけどね……」
大学では18℃を推奨している。勝手に25℃にしようものなら、施設部が容赦なく18℃に戻してしまう。館内のエアコンは施設部の管理下にある。少しくらい融通を利かせてくれてもよさそうなものだが、今の部長が相当厳しい人物らしい。
堪り兼ねた学部長の大武教授が掛け合ったものの、けんもほろろ。以来、文学部教員と施設部は硬直状態である。
「昨日、大原さんが色々持ってきてくれたから君も飲みなさい」
「え、あ、はい!」
ポットの周囲に置かれたココアや紅茶を目にして、小さく歓声を上げる。
コートを脱いで、バッグから取り出した厚手のストールを肩に掛け……と仕事を始める支度をする最中、誉はおもむろに立ち上がった。
「これから事務室に行ってくるので、もし電話があったら相手の連絡先を聞いておいてくれるかな。こちらから折り返しにするから」
「はい、わかりました」
視線が合うと、少しはにかみながら「いってらっしゃい」と軽く手を振る。
以前ならば目が合おうものなら、メデューサの首を目にしたかのように石の如く固まったりしたものだ。思えば出会ってから約八ヶ月という時間が流れたのだ、良好な関係を築けたと言ってもいいだろう。
研究室を出ると廊下は無人で、誉の足音だけがやけに響く。ほとんど待たずにエレベーターに乗り込むと、隔離された空間に身を置いた安心感からか、溜め込んでいた息が思わず漏れた。
つい最近まで、彼女が同じ空間を共有しているだけで、胸が高鳴り心地好い緊張を覚えたものだが、今はその感覚は消え失せ、残ったのは穏やかな師弟関係に等しいものだった。
彼女も以前はことあるごとに顔色を赤や青に変えていたものたまが、この空間は彼女にとって慣れた環境に変わりつつあるようだ。仕事や研究室に出入りする院生や大原との関係も良好で、この研究室でのアルバイトだけではなく、この大学自体にも馴染んできたように思える。
あの胸を燻るような感情や熱は、どこへ置いてきてしまったのだろう?
今となっては、あの時の感覚をもう思い出せない。




