秋の章・最終話 父と息子
眞子と別れてから、すぐに友紀からの連絡が来た。
父圭介が搬送されたのは、実家から車で十五分程度の位置にある救急病院だった。タクシーを捕まえ、病院の名を告げると、どっと疲れが押し寄せてきた。
父さん……。
父が意識不明になったなんて、まだ現実味を感じない。
父さんが、本当に?
いや、まだ生き死にに関わると限ったわけではない。ちょっと気を失った程度で、もしかすると友紀が少々大げさに慌ててしまい、救急車を呼んだ可能性だってある。
そうだ……大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返す。ふと目を上げると、窓ガラスに映った自分と視線が合う。まるで迷子のような目をした男がそこにいた。
ふと、母が亡くなった時を思い出す。急な病院の呼び出しに、父と車に飛び乗った時のことを。その時の窓ガラスに映った父の顔と、今の自分は同じ表情をしている。
これはいかん。完全に不安に囚われている。こんな弱気でどうすると己を叱咤するものの、どうも気持ちは悪い方へ悪い方へと動いてしまう。
駄目だ。しっかりしろ。
きっと友紀も不安を抱えて、父に同行しているに違いない。自分がこんなに弱気でどうする。
そうこうしているうちに、タクシーはいつの間にか病院の敷地内に入り込んでいた。
父さん、俺が行くまでもってくれよ。
無事を目にするまでは、良からぬ不安は拭えそうにない。タクシーから飛び出すように降りると、脇目も振らず駆け出した。
駆け出したまではよかったものの、夜間は正面入口が開いていないことを失念していた。冷静に考えればすぐにわかりそうなものだが、今の自分は明らかに冷静さを失っているのだと自覚する。
最初に案内された救急対応の病室には、すでに父の姿はなかった。看護師をようやくつかまないると、すでに病棟に移ったというではないか。
今度こそと、ようやくたどり着いた病室は個室のようだ。ネームプレートに父の名前を見つけると、弾んだ息のまま、白いドアを押し開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、ベッドの傍らで疲れた顔で座っている友紀の姿だった。
「誉さん」
「遅くなって申し訳ない。父の様子は?」
立ち上がった彼女は、安堵したように相互を崩す。
「ついさっき、意識が戻ったところなんです」
「本当ですか」
慌ててベッドに詰め寄る。ベッドに横たわった圭介が申し訳なさそうに眉を下げた。
「こんな時間に……悪かったね」
「いや……もう大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。気づいたら、病院でびっくりしたくらいだよ」
おどけたように小さく笑う。顔色も普段より白いが、表情や受け答えはしっかりしている。
「さっきまで先生もいらっしゃって、軽い脳震盪だそうです。念のため今晩、ここに一泊して、問題がなければ退院できるっておっしゃってました」
「そうですか」
拍子抜けしたというか、安心したというか。友紀に勧められた椅子に座ると、一気に脱力した。
「取り敢えず……よかった」
「心配掛けてすまなかったね」
今自分はどんな顔をしているのだろう。想像もしたくないが。
気恥ずかしさを誤魔化すように、頭をばりばりと掻き毟る。友紀は「飲み物でも買ってきますね」と言い残して退室していった。恐らく気を遣ってくれたのだろう。
「……階段から落ちたんだって?」
「ああ、気を付けてはいたんだけどね」
滑り止めを付けたんだけどなあ、と圭介は言い訳めいた呟きを洩らす。
実家は古いせいもあり、階段が急で段の幅も狭い。誉も幼い頃、何度落ちたことかわからない。
「父さん、あの家リフォームしたほうがいいと思う」
「ありがとう、でも大丈夫だよ」
「しかし」
「実は私もリフォームを考えていたんだ。あの家も古いからね。誉にも話してからと思っていたところなんだ」
「なんで俺に」
もう二人の家なのだから、勝手にやればいいものを。しかし圭介はゆるく首を振った。
「みんなの家なんだから、誉にもちゃんと聞かないとって思ってね」
「……俺はもう家を出たんだからいいよ。父さんたちの好きにしてくれれば」
「そうか? お前の部屋もまだそのままにしてあるんだ。一人暮らしが大変なら、戻ってきてもいいんだぞ」
「いや……もう子供じゃないんだからさ」
いい加減子ども扱いも困るものだが、まあ親なんてそんなものかもしれない。
家に戻ってきてもいい、か。
新たな家庭を築こうとしているあの家に戻れるわけがないだろうと思いつつ、心のどこかでは帰る家はあそこなのだと考えていたのかもしれない。
今の住まいだって仮住まいのような賃貸物件だ。結婚でもしたら、いずれ持ち家をと思ってはいるが、今の状況では当分さきであろう。
遠慮がちにドアをノックする音が響く。入ってきたのは両腕に缶ジュースやペットボトルを抱えた友紀だった。手が塞がっているにも関わらず、ドアの開け閉めを器用にこなす。
「どれがいいかわからなくて……誉さん、どれがいいですか?」
「ありがとうございます」
では、と緑茶のペットボトルを選ぶ。今更気付いたが、ひどく喉が渇いていたようだ。考えてみれば、つい数時間前まで飲んでいたうえ、病室を探して駆けずり回っていたわけだから無理もない。病室で飲食は問題ないのだろうかと思ったが、あまりに喉が渇いていたので早速失敬する。
良く冷えた緑茶は、渇いた喉に染み込んでいくようだった。一息ついたところで、ふと、ペットボトルの口がほんのりと赤く色付いている。乾いて割れたかと唇を舐めるが血の味はしない。
おかしいな、と思った瞬間気付いてしまった。
「どうかしましたか? もしかしてお茶、へんな味しました?」
口元を押さえる誉に、友紀は訊ねる。
「……いえ、大丈夫です」
なんてことだ。眞子の口紅だ。
頭の片隅に追いやられていた、柔らかな感触が一気に蘇る。頬に触れた髪が冷たかったこと、微かに鼻を掠めた甘い匂いまでも。それから……。
頼む! 今は勘弁してくれ!
蘇った記憶を無理やり封じ込めるように、残った緑茶を一気に飲み干した。
ずいぶんかかってしまいましたが、これにて秋の章は完結です。
次回は冬の章スタートです。
ご拝読ありがとうございましたm(__)m




