夏休みの章・9 もしかして、わたし
「ありがとうございます」
さっきよりも熱々のコロッケを手渡され、ひなたは小さく頭を下げた。飛沢は無言で手にしたコロッケに齧り付いた。
「あち」
しかし、予想外に熱かったらしい。最初のひと口の熱さを堪えながら咀嚼し飲み込むと、今度は用心深く息を吹きかけ、少し冷ましてから緊張気味に齧り付いた。
「うん、美味い」
安堵するようにコロッケを噛み締める。
「熱いから山田さんも気をつけて………………山田さん?」
「は、はい! 気をつけます」
しまった。つい見入ってしまった。
恥ずかしさを紛らわすように、大袈裟なくらいふうふうと息を吹き掛けてから、ひなたもコロッケに齧り付く。
「美味しいですね」
目のやり場に困って空を仰ぐと、頭上にはうろこ雲が広がっていた。
沈み掛けている夕陽を受けて、薄紅に染まった白い波紋のような雲片が空一面を埋め尽くしている。西に近づくにつれ黄金色に染まっていく様に、思わず見蕩れてしまう。
「鰯雲……鯖雲かな?」
隣で飛沢が、ぼそりと呟く。ちらりと盗み見ると、飛沢も同じように空を見上げていた。
「いわし……さば、ですか?」
このような形状の雲は、うろこ雲と呼ぶのだと思っていた。
「鱗雲かと思いました」
「うん。鱗雲でも間違いではないと思う。どうやら雲の大きさで呼び方が違うらしいが……どっちだろうな」
食べかけのコロッケを手にしたまま、真剣な眼差しで、空に広がる雲の群れを追っている。
なんだか今日の先生、子供っぽい。
こみ上げそうになる笑いを堪えたものの、つい顔が綻んでしてしまうのを堪えるのは難しかった。
「ふふ」
あ、しまった。
うっかり漏らしてしまった声に気づいた飛沢は、何かあったのだろうかと辺りを見渡す。しかし、特に目新しいものは見つからなかったようで、戸惑うように首を傾げる。
「何か面白いことでも?」
どうやら、何故ひなたが笑ったのかまではわからなったようだ。よかったような、残念なような、ちょっとだけ複雑な気分だ。
「別になんでもありません」
飛沢先生が微笑ましくて、なんてとてもじゃないけれど言えない。
「思い出し笑いです」
「……思い出し笑いか」
納得したように飛沢は頷くと、ふっと笑みを零した。
うわ! 先生が笑った!
不意打ちを食らったような気分だ。急激に頬が熱くなるのを自覚し、ひなたは空を仰いだまま尋ねる。
「な、何か面白いことでもありましたか?」
「思い出し笑いだよ」
「……あの、何を思い出したんですか?」
答えてはくれないだろうと思いつつ、思い切って訊ねてみる。
「いや、山田さんは本当にコロッケが好きなんだなと思ってね」
「そ、そうですか?」
確かに好きは好きだが、改めて言われるほどではないと思う。
「初めて会った時も、コロッケを持っていたしね」
そうだった。そうでした。
持っていただけならまだしも、飛沢の顔にコロッケをぶつけた上、雨でずぶ濡れにした上、持っていた本までも駄目にしてしまった。
浮き立った心は一変、暑いのに冷や汗が流れてきた。
「その節は……大変失礼しました」
「いや、こちらこそ」
飛沢は一旦口をつぐんだものの、躊躇うように言葉を続けた。
「あの時は、怖がらせてしまってすまなかった」
「え? わたし、怖がっていましたっけ?」
「怖がっていたよ」
そっか。先生は怖がっているって思っていたんだ。
あの時は、申し訳ないことをしてしまった、早く謝らなくちゃいけないということばかり考えていて、飛沢がどういう風に自分を見ていたなんて考えていなかった。
「怖がっていませんでしたよ、わたし」
すると飛沢は疑わしそうな目を向ける。
「そうかな」
どこか拗ねたような響きを含んでいる。まさかと思いつつ、同時にそんな彼を可愛いと思ってしまった自分自身に驚いた。
わたしってば、なんて恐れ多いことを!
「いえ、あれは、その……」
一瞬呆然として立ち止まってしまったが、チビ太に催促されるようにリードを引っ張られて我に返る。
「ただ、ずっと後ろめたかっただけなんです。早く謝らなくちゃって、ずっと思っていたんです」
いつの間にか心臓の鼓動が早い。多分顔も赤くなっているだろうが、飛沢を真っ直ぐに見る。飛沢がこちらを向いてくれるのを待ってから、ひなたは言った。
「あの時は申し訳ありませんでした」
「ああ、いや……」
少し困った顔で、眼鏡のフレームを押し上げる。その横顔が照れ隠しをしているように見えるのは、気のせいだろうか。
弛む口元を悟られないように、口角を上げるよう努力する。
いつからだろう。飛沢といる時間は、ちょっとドキドキするけど、ホッとする。特にどういう話をするわけではないのに、飛沢と話しをするのは楽しい。
喜怒哀楽は多少汲み取りにくいものの、たまにの笑顔なんか目にしたりすると、くすぐったい気持ちになる。
いいなあ、先生と結婚する人は。
祖父が入所している老人ホームの職員である廣瀬友紀の顔が思い浮かぶ。
綺麗な人だよね……。
飛沢の隣りに並んだ姿を思い浮かべる。飛沢は背が高いから、女性にしては長身の彼女とは釣り合いが取れている。
もし、飛沢の隣りに自分が並んだら、高低差が大きすぎて親子連れみたいになってしまいそうだ。
いいな、廣瀬さん、これからずっと見れるんだ。
誰も見たことのない飛沢の色んな顔が見れるのだろうと思うと、たまらなく羨ましかった。
飛沢の隣りを、当たり前のように歩ける廣瀬が羨ましかった。
「…………」
あれ?
改めて自分が思ったことに驚く。
羨ましいって、どうして?
『一緒にいると楽しいとか、会えたら嬉しいとか、会えなかったら淋しいとか、安心するとか、胸がドキドキするとか! 理由はわからないけど、そういうのってあるでしょ?』
ふと、智美の言葉を思い出す。
まさか……。
無意識のうちに、足が止まる。
わたし、もしかして……。
「山田さん?」
突然立ち止まったひなたに気づいたのだろう。二、三歩先で飛沢がゆっくりと振り返る。
「いえ! チビ太が突然立ち止まってしまって。さ、チビ太行くよ」
リードを引っ張られ、不服そうにチビ太は歩き出す。チビ太には悪いことをしてしまったと思いつつ、ひなたの頭は他のことで占められていた。
ちょっと待って、わたし。
わたし、わたし、もしかして……。
夏休みの章、あと一話です。




