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夏休みの章・6 飛沢先生の結婚相手?

 さすがに自転車を二十分近く走らせると、全身汗だくだった。

 住宅街の中にある老人ホームは、一見どこにでもあるマンションのようだ。駐車場に建った看板がなければ、老人ホームだとは誰も思わないだろう。


 ひなたは駐輪場に自転車を止める。途端、汗がさらにどっと吹き出した。

 急いでいたものだから、汗を拭うハンカチの類いを持ってこなかった。ブラウスもハーフパンツも、汗でべったりと肌に貼り付いている。手で顔を仰ぎながら、足早に入口へ向かう。大きなガラスの扉の向こうを覗き込むが、入口付近に人の気配はなかった。

 壁に備え付けられたインターフォンのボタンを押した。


「夜分遅くすいません。山田と申します」

『はい、お待ちください』


 職員の女性の声が返答する。乱れた髪を直していると、奥から女性が小走りで現れた。


「こんばんは。長岡さん、お母様とお待ちですよ」


 ひなたを向かい入れてくれたのは、顔見知りの職員、廣瀬だった。ちなみに「長岡」とは祖父の苗字だ。


「こんばんは。ありがとうございます」


 気さくで別嬪だと、祖父が贔屓にしている職員さんだ。

 廣瀬は同性の目から見ても、文句なしの美人だと思う。祖父が気に入っているのも頷けるものの、自分の祖父が美人を前にニコニコしている状況は、孫の立場としては少々複雑でもある。


 ふと、廣瀬の胸元に付いたネームプレートを目にして――思わず息を飲んだ。


「あの、廣瀬さん。名前……」


 小さなプラスチックのネームプレートには「飛沢」と書かれていた。

 飛沢なんて、あまりない苗字だ。

 考えられる可能性が頭をかすめ、心臓の鼓動が早くなってくるのを自覚する。


「え、ああ」


 廣瀬は、少し照れくさそうに微笑んだ。


「実は結婚したんです」

「……」


 ――先生、ぼちぼち結婚が近い気がするんだよね。


 順也の言葉が甦る。


「式はこれからなんですけど、最近籍だけ先に入れてしまったんです」

「そうなんです、か」


 でも、もしかすると……別人という可能性もある。

 同じ苗字の人間が他にいたっておかしくはない。飛沢の兄弟とか、親戚とか。


「……おめでとうございます」


 そうだ。そうに違いない。

 まだ飛沢だと決まったわけじゃない。




「そうなんだよ、廣瀬さんお嫁に行ってしまうなんてなあ……」


 廣瀬の話題を出した途端、祖父はせっかく届けに来たブラウニーを喜ぶでもなく、落胆したように肩を落とした。


「お父さん、廣瀬さん贔屓だものね」


 と苦笑するの母の横顔を見る。

 お母さん、知ってるかな?


「廣瀬さんの相手って、どんな人なのかな?」


 恐る恐る、でもさり気ない様子で訊ねてみる。


「さあ……」


 母は首を捻る。するとすかさず祖父が口を挟んできた。


「どうやら先生らしいぞ」

「ああ、お相手のこと先生って呼んでるみたい」

「ずいぶん余所余所しいもんだ」

「あら、お父さんヤキモチ?」


 祖父と母の会話が、途中から耳に入らなくなっていた。


 やっぱり……飛沢先生のこと?


 先生といっても、大学の先生とは限らない。小学校の先生だって先生だ。


「大学の公開講座にたまに行くらしいから、大学の先生かもしれんな」


 祖父の言葉が、わずかな可能性をあっさりと打ち砕く。

 飛沢という苗字で、大学の先生。しかも廣瀬と年齢的にもちょうどいい。


 ……やっぱり、先生なんだ。


 どうしてこんなにショックなんだろう?

 飛沢に付き合っている相手がいないと思い込んでいたからだろうか?

 でも、どうして相手がいないと思っていたのだろう?


 背だって高い方だし、いつもスーツ姿で少々堅苦しい印象だが、世の中にはスーツ好きの人だって多い。

 表情は乏しいものの、それなりに整った顔立ちをしている。眼鏡を変えると若く見えるし、ごくたまに目にする笑顔は……なかなか悪くない。


「ひなた、元気が無いけど、どうしたの?」


 母の声に、はっと我に返る。


「ううん、別に。ただお腹が空いちゃって」


 笑って誤魔化してみる。

 しかし胸の奥にぽっかり穴が空いたような、重たい石が詰まったような息苦しさは、そう簡単に誤魔化せそうにはなかった。

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