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夏休みの章・5 飛沢先生帰還

「飛沢先生?」


 一瞬、目を疑った。

 飛沢は今日まで出張のはずだ。なのに、どうしてここにいるのだろう?

 だがよく見てみれば、傍らには大きなキャリーバッグを携え、スーツ姿(さすがにジャケットは着ていないが)である。


「具合でも悪い?」


 呆然とするひなたを覗き込むように、腰を屈める。


「いえ大丈夫です。暑いから頭がぼんやりしてしまって……」


 慌てて頭を振った直後、ふと疑問が浮かんだ。


「あの、先生どうしてここに?」

「ああ、忘れないうちに書類だけ提出しておこうと思って」


 ニコリともせず淡々と飛沢は告げる。

 生真面目で淡々とした飛沢の限度には、安堵するような要素は見当たらない。なのに、妙にホッとしてしまうのは何故だろう?


「出張、お疲れさまでした」


 膝を揃え、ぺこりと頭を下げる。


「山田さんも、この三日間ありがとう。小原くんは手伝いに来てくれたかな?」

「はい。あ! お昼ご馳走様でした」

「どういたしまして」


 柔らかく飛沢が目を細める。

 わかりにくい飛沢の笑顔。にも関わらず、何故だか胸の鼓動が早くなるのを自覚した。急に視線を合わせているのが恥ずかしくなって俯いてしまう。


「顔が赤いが……熱があるんじゃないか?」


 低い声と共に、長い指が前髪に触れた。予期せぬ出来事に固まっていると、前髪をかき分けて、今度は飛沢の冷たい手のひらが額を覆う。

 わ、わわわ!

 思案顔の飛沢が目の前にある。手のひらの感触と、爆発的に顔が熱くなる。


「……やっぱり熱が」

「あの! 研究室の西日が当たってて……のぼせただけです」


 しどろもどろに答えると、飛沢は納得したように「ああ」と頷く。


「ちょっと待っていなさい」


 手にしていたバッグを、ひなたの隣りに置くと、自販機に向かう。ぼんやりとその姿を眺めていると、再びこちらにやって来る。


「ほら」


 目の前に差し出されたのは、スポーツドリンクのペットボトルだった。反射的に受け取ると、ひんやりと冷たくて心地よかった。


「あの……」

「熱中症になっては適わんだろう」

「あ、ありがとうございます……あの先生」

「ん?」


 ふと、昼間の順也との会話が甦る。

 ――篠原さんの話によると、すごい美人と痴話喧嘩っぽいのをしていたらしい。だから結婚の話を濁しているんじゃないかって思うんだ。

 でも、何をどう聞けばいいのだろう?


「……いえ、あの。これ、いただきます」 

「ああ、じゃあ気を付けて」


 キャリーバッグを手にすると、ガラガラと音を立てて飛沢は歩き出す……が、数歩進んだところで不意に立ち止まった。


「山田さん」

「は、はい」


 くるりと振り返った飛沢を見上げる。


「大丈夫か?」

「え?」


 どうやら飛沢は、自分の体調を気遣ってくれてるらしい。ただ赤面しただけで、本当に具合が悪いわけじゃない。


「いえっ、大丈夫です! ありがとうございます」


 その上、赤面していることを飛沢にも気づかれたのだと改めて思い知らされて、さらに顔が赤くなってしまいそうだ。


「そうか……」


 飛沢は何か言いたげに言葉を濁す。


「さようなら」

「はい、さようなら」


 眼鏡のフレームを人差し指で押し上げてから、くるりと背を向けて歩き出した。

 遠ざかる飛沢の後ろ姿を眺めながら、ふと思いつく。

 もしかして……送ってくれようと思っていた、とか?


「なんてね……」


 順也の話が本当なら、そんなことあるわけがない。 

 そんなことを少しでも考えてしまった自分が恥ずかしかった。

 



「ただいまー」


 自宅に帰ると、家中にカレーの匂いが立ち篭めていた。匂いに釣られてキッチンへ向かうと、そこにいるのは母親ではなく、弟の祥太郎だった。


「おう、おかえり」


 カレーが煮立った鍋をかき混ぜながら祥太郎が振り返る。


「お母さんは?」


 ダイニングテーブルの椅子に座りながら訊ねる。


「ジイちゃんのところ」

「そっか」

「そろそろ帰ってくると思うよ」


 ジイちゃんと祥太郎が呼ぶのは、母方の祖父のことだ。

 祖父孝太郎は近所の老人ホームに入所している。まだ身体もしっかりしているが、祖母が亡くなってから「家族に迷惑は掛けたくない」と言って、さっさと入所を決めてしまった。

 入所してから五年が経つが、時折旅行へ行ったり、囲碁や将棋やカラオケと結構充実した日々を送っているようだ。


 どうせなら一緒に行きたかったな。

 最近試験でバタバタしていて、祖父としばらく会っていない。

 お腹が空いたので、何か腹に収めるものはないものかと冷蔵庫の扉に手を掛けた時、リビングの電話が鳴り響いた。


「あ、ひな出て」

「うん」


 パタパタと慌てて受話器を取る。


「はい、山田です」

『あら、ひなた?』


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、母さと子の声だった。


「うん、どうしたの?」

『今おじいちゃんのところにいるんだけど、忘れ物をしちゃって……』


 母さと子は困り果てたように言葉を濁す。


「忘れ物?」

『おじいちゃんに作ったブラウニーを忘れちゃって』


 祖父は大の甘党だ。和菓子だけではなく洋菓子も好きだ。特に母が作ったブラウニーが大好きなのだ。


「そっか」


 今回のブラウニーは我が家でいただいて、祖父にはまた次回渡せばいいだろう。そう思っていた。しかし。


『悪いけど、今から持ってきてくれない? おじいちゃん、どうしても今持ってきて欲しいって言うの』

「ええっ、今から?」


 壁時計を見ると、そろそろ七時になろうとしていた。

 老人ホームまで、自転車で行けば片道二十分くらいで行ける。行けないことはないが、少々面倒だと思ってしまう。


『お願い。祥太郎に頼んでもいいから』

「うーん……わかった。わたし、持っていく」


 どうせ今は夏休みだ。特に明日は予定もないし、祖父の顔が見れると思えば少々の面倒も目を瞑ろう。


『ありがとう。ブラウニーは冷蔵庫に入ってるからお願いね。あと、帰りにアイスでも買って帰ろうね』

「ん、ありがと」


 もう子供じゃないのに。

 そうは思いつつ、アイスの魅力は捨てがたい。

 電話を終えると、すかさず祥太郎が訊ねてきた。


「今から出掛けるの?」

「うん、おじいちゃんにあげるブラウニー忘れたんだって」

「げ、今から?」

「おじいちゃんが、どうしてもって」


 冷蔵庫を開けると、アルミホイルに包まれた正方形のブラウニーを見つける。棚から適当な紙袋を見つけ、その中に入れた。


「俺が行こうか?」

「ううん、大丈夫」


 エコバッグにお財布と鍵と携帯電話、そしてブラウニーを入れる。


「あ、お父さん帰ってきたら、先に食べててって」

「りょうかーい」

「じゃあ、いってきます」


 慌ただしく玄関を出ると、自転車に飛び乗った。

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