夏休みの章・1 夏休みもバイトです
夏休みの章スタートです。
この章は基本的に、ひなたの視点からとなります。
試験も無事終わり、明日から夏休み。
とはいえ、特に計画があるわけでもない。サークルなどには特に所属していない。親しくなった友人や高校時代の友人と遊びに行く予定はあるものの、せいぜい一、二回。長すぎる夏休み期間を費やすほどではない。
学生が夏休みといえども、両親には夏休みはない。ひなたが大学に入学してから、母さと子はパートで働き始めた。一般企業の事務職だから、夏休みといったらお盆くらいらしい。
お盆休みは祖父母の家に遊びに行くことになっているが、電車で一時間以内で着いてしまうような距離だ。弟の祥太郎も受験生だから、夏休みも毎日予備校通い。
一番親しい友人である智美は、いくつかサークルを掛け持ちしているらしく、その活動や飲み会、バイトなどで忙しいらしい。旅行でも行こうかと誘われたものの、最近貯めていたバイト代でミュールを買ってしまったから難しい。さと子に相談したものの「遊んでないで勉強しなさい」と、けんもほろろな返事が返ってきた。
母の言うことは最もだが、さすがにこの長い夏休みを勉強だけで過ごすのは正直なところ辛い。せっかくだから楽しみたい気持ちもあったが、先立つものがまずは必要だ。
夏休みって、バイトあるのかな?
大学は夏休みだが、教職員には関係のない話だと篠原がボヤいていたのを思い出す。
もしかしたら、飛沢の仕事があるかもしれないと思っていたところで、タイミングよく声が掛かった。
期末試験が終わり、その開放感でスキップしてしまいそうなほど浮かれながら家路につこうとしていた時だった。ちょうどすれ違った飛沢と挨拶を交わし、数歩進んだところで呼び止められた。
「山田さん」
「は、はい?」
慌てて足を止める。一瞬、飛沢は迷うような戸惑いの顔を見せる。しかしそれを振り切るように、足早にひなたの元へと近づいてきた。
「夏休み中、仕事を頼めないだろうか?」
「え、はい。わかりました」
反射的に答えると、飛沢は安堵するように目を細めた。
表情に乏しく、少々近寄りがたい印象の飛沢だが、この四ヶ月間でずいぶんと慣れてきた。最初は顔を合わせるのも恐ろしかったものだが、怖いもの見たさ……ついホラー映画やテレビの心霊特集を見たくなる……に似ているかもしれない。
そうしているうちに、表情は乏しいものの、よく見れば表情の変化がわかるようになった気がする。
「早速明日から三日間お願いしたいのだが」
「はい、大丈夫です」
「明日から私は三日間出張なんだ。その間に研究室の書庫の整理をお願いしたい」
「……はい」
なんだ先生いないんだ。ちょっとがっかり……って、何で?
一瞬でも、自分の心を掠めた感情に首を捻る。
「山田さん、どうした?」
はっと気がつくと、気遣うように飛沢が少し腰を折ってひなたの顔を覗き込んでいた。
「ひゃあ!」
近い!
反射的に飛び退いてしまう。ひなたの過剰な反応に、飛沢は驚いたように固まっていた。
「すみません……」
驚いたとはいえ、この反応は失礼だろう。慌てて謝ると「いや、こちらこそ申し訳ない」と、逆に飛沢からも謝られてしまった。
ああもう、わたしのバカ。
自意識過剰な反応を取ってしまった自分が恥ずかしくてたまらない。軽い自己嫌悪に陥っていると。
「都合がつかないようなら、他を当たってみるから――」
思い悩むひなたの様子を目にして、飛沢は都合が悪いのだと勘違いしたらしい。ひなたは慌てて否定する。
「いいえ、都合大丈夫です!」
「いやしかし」
「やります! 今おこづかいピンチなんです!」
思わず両手を握り締めて力説すると、勢いに押されたように飛沢は押し黙る。
大学生にもなって「おこづかいピンチ」なんて……。
咄嗟に口にしてしまったものの、後から恥ずかしさが込み上げてくる。しかし、飛沢は納得してくれたらしい。
「じゃあ……明日から大丈夫かな?」
飛沢の静かな声が、ゆっくりと語り掛ける。
「はい」
恥ずかしさを振り払うように大きく頷く。
「研究室の鍵は、事務室で――篠原にでも頼んで開けてもらって欲しい」
「はい」
何となくだが、大学生の頃の飛沢なら、間違っても「おこづかいがピンチ」なんて言ったりしないだろう。
もう少し大人っぽくならなくちゃ。
「冷蔵庫にお茶とジュースが入っているから、遠慮なく飲んで欲しい。あとかき氷も入っているから」
「え。かき氷ですか?」
つい「かき氷」という単語に反応してしまった。
わたしのバカ!
大人っぽくなろうと決意したそばから、かき氷に反応してしまうとは。子供の反応もいいところだ。
今のは無かったことにして欲しいが、もちろんそんなことはできやしない。
「いちご味とミルク味でよかったかな?」
いちごとミルクなんて、いかにも子供が好むような味だ。飛沢が自分をどう見ているか思い知ったような気がして、ちょっとだけ気分が落ち込む。
「はい」
「実は私が食べようと思って買ったものだから、他のがよければ買っておくが」
「え?」
先生が、いちご味?
大人の男の人がいちご味やミルク味……甘いものを好んで食べるという印象はまるでなかった。まして飛沢なら絶対に口にしたりしないと思い込んでいた。
「かき氷ではなく、ハーゲンダッツの方がよかったかな」
ひなたの戸惑いを、こう解釈したらしい。
「いいえ、あの!」
ハーゲンダッツは好きだが、こうも暑いとやっぱりかき氷の方がいい。
「かき氷がいいです、いちごもミルクもどちらも好きです」
「それはよかった……ふ」
不意に飛沢の唇から、普段聞かない笑い声らしきものが漏れる。
「申し訳ない」
微かに震える声で告げられた後に気がついた。
もしかして、先生……笑ってる?
声を上げて笑う飛沢が見られるとは、かなり貴重な気もする。しかし笑っている理由が、自分の言動が原因かと思うと、恥ずかしいやら居たたまれないやら。
「な、何かわたし、面白いこと言いました?」
頬が一気に熱くなる。真っ赤に染まっているのが自分でもわかるくらい。
「いや、面白かったわけではないのだが……」
口元を押さえているが、明らかに笑っているのがわかる。
皆さん! 飛沢先生が笑っています!
時折、柔らかい表情を見せることもあったものの、あからさまに笑っているところは目にしたことがなかった。確か順也も見たことがないと言っていたような気がする。
ということは、わたし相当ヘンな事しちゃったの?
「わたし、ヘンなことでもしたでしょうか?」
「いや、別にそういうわけでは……」
と言いつつも、飛沢はやっぱりまだ笑っていた。
翌日、飛沢の研究室の冷凍庫を開けてみると。
「あ……」
かき氷のバリエーションが増えていた。レモンとオレンジとソーダ、みぞれに練乳あずきに宇治抹茶という渋い味まで加わっていた。
どうやら、飛沢なりに気を使ってくれたのだろう。飛沢がかき氷を買い込む姿を想像して、ちょっとだけ笑ってしまった。




