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夏の章・19 まさかの噂

 翌日。顔を合わせた篠原の第一声はこうだった。


「誉くん、俺に何か言うことない?」

「おはよう」

「えー……そうじゃなくて、あるでしょう、言うこと」 

「特にない」


 正直に答えると、篠原は不満そうに眉を寄せる。


「水臭い」

 水臭い?

「そうだよ。俺と誉くんの仲じゃない、水臭いなあ」

 ぽんぽん、と親しみを込めて誉の肩を叩く。

「だから、何の話だ?」


 これから試験監督の業務があるというのに。時間ギリギリに教室へ向かう自分もわるいが、職員なら察して欲しいと思うものの、篠原にそれを要求するのは難しいだろう。


「これから試験があるんだ。後にしてくれないか」

「あ、そうだっけ? ごめんごめん」

 ごめんと言いつつ、まったく悪びれた様子もない。 

「誉くんの頼みなら、友人代表でスピーチだろうが、余興だろうが、ご要望さえあれば引き受けるから。招待状は早めに送ってくれると嬉しいな」

「なんだそれは?」

 思わず眉間に皺を寄せる。

「そんなわけで、よろしく頼むよ。ほら、試験始まっちゃうよ」


 自分で引き止めておいて、さっさと行けと言わんばかりに誉の背中を押す。

 はっきり言って、篠原の言動は意味不明だ。だが、今は追及する時間の余裕はなかった。

 篠原のことは頭の隅に追いやって、慌てて試験が行われる教室に向かった。



 試験が始まると、教室内は水を打ったように、しんとなった。ペンを走らせる音が耳、緊張感で張り詰めた空気が心地よい。

 自分が試験を受けるわけではないから、心地よく感じるのかもしれない。果たして自分が学生の頃は、どんな気持ちで試験を受けていただろうと考えることもあるが、今となっては思い出せない。

 学生らの様子を眺めながら、ふとさきほどの篠原の言動を思い出す。


 そういえば、結婚がどうとか言っていたな……。


 もしやと思うが、昨夜ケーキ屋で友紀と会っていたところを目撃されたのではなかろうか。

 可能性は大だな。

 ちょっと女性とお茶をしていたくらいで、付き合っていると思う方がどうかしている。そもそも、世の中には男と女の二種類しかいないのだ。確かに友紀はちょっと目を引く美人であるかもしれないが。


 中学生じゃあるまいし……。


 いちいち騒ぎ立てるのは勘弁して欲しい。

 誉は苦いため息をつく。

 確か篠原は、父圭介の再婚話は知っている。友紀の正体を明かせば、すぐに誤解は解けるだろう。

 そもそも、自分の浮いた話などに興味を持つようなもの好きな人間は、篠原くらいのものだ。


 もし、山田さんの耳に入ったら……?


 彼女はどう思うだろうか。

 いや、どうも思わないか。思わないどころか「おめでとうございます」などと、笑顔で言われた日には……結構ショックかもしれない。



「先生、篠原さんから聞きました。おめでとうございます!」


 試験期間も半ばを過ぎた頃だった。偶然コンビニで顔を合わせた順也に全開の笑顔で言われ、誉は大いに戸惑った。


「ひとつ聞きたいのだが……篠原から何を聞いたと?」

 昼食用の菓子パンを手にしたまま、ずいと順也に攻め寄る。

「先生、近いうちに結婚するんでしょう?」

「……なんだって?」


 何だかものすごい形相になっているに違いない。誉を見る順也が引いているのがわかる。


「え? あれ? 違うんですか?」 

「篠原の勘違いだ」

「でも、すっごい美人と一緒にいるところを見たって」

「あれは……」


 一瞬、言葉を飲み込む。

 まさか父親の結婚相手だとは……言えない。


「あれは、知人の結婚相手だ」


 父親を知人と呼ぶのとは他人行儀ではあるが、知っている人間を知人の定義とすると、けして間違いではない。まあ屁理屈に近くはあるが。


「またまた先生照れなくても……照れているようには見えませんね」

 まじまじと誉の顔を覗き込む。

「わかってくれて、ありがたい」 


 相当人相が悪くなっている自覚はあった。かなり深く刻まれた眉間の皺をごしごしと擦りながら、誉は苦い息をつく。


「とにかくだ。奴……篠原の戯言には耳を貸さないように」

「はあい」


 順也は素直に返事をするものの、どこか半信半疑なのだろう。納得いかない面持ちで一礼すると、コンビニから退散していった。


 ……篠原め。


 いい加減なことを勝手に広めおって。

 これ以上広まっていないことを祈る……いや、祈っている間にあちらこちらに風潮されてしまいそうだ。

 これは、さっさと本人に釘を刺す必要があるな。

 今後の対策を考えながら、やはり弁当にしようかと思い直して弁当が陳列された棚へと向かう。


「っ!」

 弁当が並んだ棚の前で、立ち竦む人物を目にして足を止めた。


「あ……こんにちは」


 山田さん……!

 財布を手にしたひなたが、ぺこりと頭を下げた。

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