夏の章・17 友紀への疑問
暑苦しく不自由なギプスが取れたのは、試験期間が始まる前日だった。
両手が使えるのが、こんなにもありがたいものだったのだと、しみじみと実感する。久しぶりに自由になった開放感を味わいながら、今日の夕飯は自炊でもしようかと考える。
外食とも考えたが、最近コンビニ弁当やインスタント食品ばかり続いていたから、簡単でも自分で作ったものがいい。
帰りの電車の中で、そんなことをあれこれと考えていると、もうすぐ自宅の最寄駅に到着するというアナウンスが車内に流れた。
薄暗くなりつつある窓から見える街並を眺めていると、不意に背中を叩かれた。
「こんばんは」
弾かれたように振り返るが、一瞬誰だかわからない。
肩を覆うさらりとした長い髪。派手な雰囲気の美人だが、化粧は控えめで、服装もTシャツと七分丈のパンツスタイルといったシンプルな出で立ちだ。
「……廣瀬さん?」
父圭介の再婚相手、廣瀬友紀だ。悩むこと五秒間。ようやく相手の顔と名前を思い出した。
「お久しぶりです、この間はありがとうございました」
どうやら友紀のことを思い出せなかったとは気付かれていないらしい。
「いいえ、どうしたしまして……お仕事の帰りですか?」
そう言いながら、友紀がどんな仕事をしているのか知らなかったと今更気が付く。
「はい。誉さんも?」
「いえ、今日は病院へ」
「どこか具合でも?」
そうだ。彼女は誉が怪我をしていたとは知らないのだ。しかし敢えて告げる必要もないだろう。
「いいえ、もう治りました」
「それはよかったですね」
「ええ」
困ったものだ、会話が続かない。友紀も会話の糸口を探すのに苦労しているのか、難しい顔をしている。
まあ、お互い話すことも無いしな……。
そう思った瞬間、彼女に抱いていた疑問を不意に思い出した。
これを今更、この後に及んで聞くのはいかがなものかと思う。しかし、一旦再燃した疑問は頭の中でぐるぐると回り始める。
彼女の人柄は垣間見た程度ではあるが、保険金や退職金目当てではないとは思う。もしや父圭介に弱味を握られているという可能性も考えられない。彼女が弱味を握って結婚を迫る……いや、あんな年寄りと結婚して得られるメリットなど、考えられるとしたらやはり保険金……おい、これでは堂々巡りだ。
そうこうしているうちに、電車は駅のホームに滑り込んでいく。最寄り駅に到着してしまった。
「あの、廣瀬さん。お時間ありますか?」
電車が停車する十秒前。反射的に口にしていた。
そんな自分に実に驚いた。驚いたのは誉自身だけではなく、友紀自身も同じだったようだ。実に驚いた顔になっていた。だが、すぐにニコリと笑う。
「ええ、大丈夫ですよ」
あっさりと承諾してくれたものだから、こちらが少し拍子抜けだ。電車のドアが開き、誉に続いて彼女の軽々とホームに降り立つ。
「じゃあ、行ってみたいお店があるんですけど、いいですか?」
子供のように目をキラキラとさせながら、彼女が案内してくれたのは駅から近いコーヒーショップだった。どうやらケーキが美味しいと評判らしく、夕食を取るべき時間帯だというのに店の中はケーキを求めるお客で溢れていた。
タイミングよく席が空いたらしく、店の奥の向かい席に案内される。
「一度だけ来たことがあったんですけど、どれもすっごく美味しいんですよ。前はバナナタルトをいただいたんですけど、カスタードクリームがたっぷり入っていてタルト生地はさくさくでおすすめです」
メニューを開くと、ケーキが写真付きで紹介されている。確かにバナナタルトには「人気No.1」と書かれている。
「……なるほど」
「もしかして、甘いもの苦手でしたか?」
「いえ、甘いものは好きですよ」
「よかった」
一瞬浮かんだ不安げな陰は、あっという間に一掃された。彼女の視線はメニューに釘づけである。
意外だな……。
彼女は落ち着いた女性という印象だったが、ずいぶんと子供っぽいところもあるものだ。そういえばウェディングドレスも、堅くなにプリンセスタイプのものがいいと粘っていたのを思い出す。
「誉さんは、どれにします?」
「……バナナタルトを。あとブレンドにします」
初めての店なら、店で進めるメニューを選んでおけば間違いないだろう。友紀もおすすめだと言っているのだから尚更だ。
「誉さん、決めるのが早いですね。じゃあわたしは…………よし、決めました」
ウェディングドレスを決めるよりも真剣な眼差しをメニューから上げると、お冷のお代わりを注いで回る店員を呼び止める。
「すみません、注文いいですか?」
「はーい。お待ちください」
店員がテーブルにやって来たというのに、まだ未練がましそうにメニューをちらちらと見ている。
もしかしてまだ迷っているのだろうか。わずかな時間だが時間稼ぎに、誉は先に自分の注文を口にする。
「ブレンドとバナナタルトを。それから……」
「……シナモンミルクティーと、杏のフランをお願いします」
堅い声で告げる。店員が立ち去ると、ふうっと気の抜けたような溜息を吐いた。それほどケーキを決めるのに神経を費やしていたのかと思うと、目の前の女性がずいぶんと微笑ましく思えた。
「ごめんなさいね。優柔不断でいつも先生には注意されてしまうんです。ところでお話とは?」
「っ……!」
心の準備が!
唐突に本題に入られて、動揺のあまり飲んでいた水でむせてしまった。
「大丈夫ですか?」
「…………はい、失礼しました」
咳が収まってから、ごほんと咳払いをする。
そうだ。惑わされてはいけない。誉は気を引き締めると、眼鏡をずいと指先で押し上げた。
「今更ではありますが、どうして私の父との結婚を決めたのですか?」
彼女にとっては思いがけない質問だったようだ。大きな目を不思議そうに瞬いた。次第に決まり悪そうに瞳を彷徨わせると、縋るようにお冷グラスを手に取った。
「改めて聞かれると恥ずかしいのですが……言わないといけませんか?」
「そこそ敢えてお願いします。いまだに疑問なのです」
「え」
迷いに迷ったが、思い切って正直な気持ちを告げる。
「どうして親子ほど歳が離れた父との結婚を、あなたがどうして決めたのかが」
言った。言ってしまった。
彼女がどういう態度に出るか、誉は密かに待ち構える。
もし彼女が退職金や保険金狙いの悪女ならば、恐らく正直になどは答えないだろう。耳当たりの良い理由を述べるに違いない。
「そうですよね……」
数秒の沈黙の後、友紀は羞恥の入り交じった声で呟いた。
「私と誉さんも、二つくらいしか歳が変わらないし……よく考えてみれば先生とは親子くらい歳が離れているんですよね」
よく考えなくてもわかると思うが。
思わず突っ込みたくなったが、彼女の独白に耳を傾ける。
「もし私が誉さんの立場だったら、きっと同じことを考えると思います。ましてや自分の親が親子くらい歳が離れた相手を連れて来たら……やっぱり生理的に嫌ですよね」
いや、そこまでではないのだが。
「もし自分が思春期だったら、その可能性も拭えませんが……幸い中年期ですから……つまりは、単純な疑問です」
フォローになっているのか疑問だが、嫌っているわけではないのだと意思表示する。すると、友紀の表情がふわりと緩む。
「誉さんは優しいですね」
……優しい?
予想外の台詞に、今度は誉が茫然とする。
なかなか思うような話の流れにならない。軽い焦りを感じた時、ふわりの甘い匂いが鼻を擽った。
「お待たせしました」
銀色のトレイを手にした女性店員が、テーブルの前に立った。注文したブレンドとバナナタルトが目の前に並ぶ。シンプルな造りだが、実に美味しそうだ。友紀の前には、シナモンミルクティーと杏のフランが。彼女の注文したものも、丸々とした杏が詰まっていて実に美味しそうだ。
「美味しそうですね」
つい感想を口にしてしまう。
「でしょう?」
まるで自分が作ったかのように何故か自慢げな様子だ。
先ほど投げた質問を忘れたかのように、彼女は喜々としてフォークを手に取った。
質問の問いはどうなったんだと思ったが、せっかくの熱いコーヒーを冷ましてしまうのも惜しい。
彼女からどんな答えが返ってきても、冷静に対応できるよう自分も少しは落ち着かなければ。
既成のものではないコーヒーカップを手に取る。けして味にうるさい方ではないが、このコーヒーはなかなか期待できそうだ。そっと一口、口に含む。
うん、美味い。
友紀も同じように、カップを手に取り、甘そうな匂いのミルクティーに口を付ける。美味しいと、無言の呟きが聞こえてくるかのように嬉し気な表情を浮かべて、彼女はぽつりと呟いた。
「実は中学生の頃から……好きだったんですよね。先生のこと」




