夏の章・16 盗み聞き
彼女の姿を見たような気がした。誉はカレーライスを乗せたトレイを手にしたまま、足を止めて視線を彷徨わせた。
――気のせいか。
栗色の髪をした女子学生は彼女ではなかった。似ているのは髪の色だけ。安堵と軽い失望が、誉の胸を掠める。
――どうかしているな、まったく。
昼休み。学生や教職員たちが入り乱れる大食堂。彼女がいてもおかしくはないが、別にいなくてもおかしくはない。わかってはいるが、いつの間にか彼女――山田ひなたの姿を目で追ってしまう。
不味い。駄目だ。
そう思えば思うほど、ひなたのことが気になってしまう。駄目だと思うから、余計に気になるんだと開き直れば……と思っても、やはり事態は変わらない。
「誉くん、どうしたの?」
篠原の声に、誉は我に返った。フライ定食をトレイに乗せた篠原が、何やら好奇に満ちた眼差しを向けている。
「……席が空いていないか探していたんだ」
奴はへんなところで妙に勘が鋭い。こいつにだけは淡々と答える。しかし。
「そこ、空いてるけど」
くい、と顎で指し示したのは、すぐ手前にある、誰も座っていないテーブルがあった。
「今日は人が少ないみたいだから、結構どこも空いているけどね」
確かに。二人分であれば、座る場所などいくらでもあった。
「…………」
何も言い返せず、黙って手近な席に腰を下ろす。続いて篠原も隣の席に腰を下ろすと、じいっと誉を凝視する。
「……なんだ」
「いやー、最近ぼんやりしていることが多いなってね」
「そうか?」
「うん。心ここにあらずって感じかな」
「心外だな」
内心、ヒヤリとしつつ、篠原の視線から逃れるように、スプーンを手に取り、せっせと目の前のカレーライスを口に運び始める。
片手での生活も、すでに一週間以上。相変わらず不自由ではあるものの、ずいぶんと慣れてきたものだ。しかし、食事はやはり片手でも食べやすいものを選んでしまうので、カレーライスや炒飯のような一品ものが多くなってしまう。
やはり、この間のカレーの方が美味かったな。
先週、山田家では好評だという、ひなたの作ったカレーの味を思い出す。学食のカレーが美味くないわけではない。山田家のカレーも同じ、じゃがいもと人参、玉ねぎと牛肉という、ごく普通のカレーだった。
しかし、これが無闇に美味かったのだ。そのことをひなたに伝えたいのだが、つい伝えそびれてしまい、タイミングを逃しているうちに期末試験が近くなってしまった。
試験期間が終わるまではアルバイトは休みだ。こんなことなら、早く言えばよかった。もし会えるとしたら、学食や売店や、キャンパス内を歩いている時くらいだ。一応メールアドレスも知ってはいるが、個人的な用件で送るのは、あまりよろしくはないだろう。
「…………」
カレーライスを半分くらい食べたところで、ふと気がつく。いつもはやかましいくらい話し掛けてくる篠原が、一言も口を聞かずに黙々と定食を食べている。食事時くらいは、たまには静かにして欲しいとは思っていたが、いざ静かにされると妙に居心地が悪い。
「篠――」
「しいっ!」
人差し指を立てて、言葉を遮られる。理由がわからず、怪訝な面持ちをしていたのかもしれない。察した篠原は、背後にちらりと目配せをすると、耳を澄ましてみろというゼスチャーをする。
「?」
よくわからないが、取り敢えず耳を澄ませてみる。
「いいなー智美ちゃん」
聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「彼氏とネズミーランドなんてさ。いいなー」
この声は……山田ひなた。間違いない。
「だったら、ひなたも早く見つけなよ。彼氏」
「ええっ、無理だよ!」
もうひとりは知らない女子学生の声。恐らく彼女の友人なのであろう。
二人の会話の内容は、いわゆる恋バナというやつのようだ。背後で聞き耳を立てている輩の存在にも気づかず、二人は実に楽しそうだ。
……ちょっと待て。
これは俗に言う「盗み聞き」というやつではないのか。
篠原を見ると、箸を握り締めたまま、興味津々に耳を傾けている。
「おい篠」
「しいっ!」
誉を鋭く制すると、盗み聞きを続行する。
そういえば、こいつは昔から人の色恋沙汰に首を突っ込むのが好きだった。止めたところで無駄であろう。諦めた誉は、せっせとカレーライスを胃の中へと詰め込む。
しかし、さっさと食べ終えて席を立とうと思っているのに、つい注意が背後の会話へと向いてしまう
「でもさ。ひなたも、好きな人くらいいるんでしょ?」
「え」
ひなたの声に、緊張感が宿る。何故か誉まで緊張してきてしまう。
「あ、いるんだ」
「いないよ」
「嘘、いるでしょ」
「いないってば」
「絶対嘘。いる、絶対いる!」
「だから、いないってば!」
ひなたの友人もなかなかしつこい。それ故か、ひなたもムキになって否定している。しかしそれが本当にいないからなのか、照れ隠しのためなのかは判別をしにくい。
「別に隠さなくてもいいでしょ。ひなただって『順也』くんって呼んだりしちゃってさ、仲良さそうじゃない。小原先輩カッコイイし、気にならない方が無理だって」
――ああ、そうか。
途端、上昇していた体温が、すうっと下がっていくような気がした。
ひなたと順也が一緒にいる姿を思い浮かべる。なかなかお似合いではないか。二人が一緒に並んで歩いても仲のいいカップルにしか見えないだろう。
これがもし……。
ふと、浮かんだ想像に誉は失笑する。
もし、なんてあるわけがない。もし彼女の横に並んでいるのが自分だったら……なんて。
「カッコイイよね。順也くん」
「ほらほら、そうでしょ」
いかん。これ以上聞いていは。
背後の話し声を遮断するかのように、ひたすらカレーライスを平らげる。最後に水で流し込むと、小さく息を着いた。
「先に戻っている」
席を立ちながら、一応篠原に声を掛ける。
「え?」
篠原は驚いたように顔を上げる。
「どしたの?」
「一時半から会議だった」
咄嗟に口から最もらしい言い訳が飛び出した。一応は事実である。
「まだ資料をダウンロードしていなかったんだ」
まるで逃げるようにこの場を立ち去ろうとする己を弁護するかのようだ。聞かれてもいないのに、つい言い訳を口にしてしまう。
空の皿が乗ったトレイを手に取ると、脇目も振らずテーブルを離れた。
何なんだ。一体どうした。
自分でもよくわからない。おかしな気持ちだ。上手く表せないが、胸の奥が、頭の芯が、妙にざわついて気持ちが悪い。
……今は会議だ。会議のことを考えよう。
そうだそうだと自分に言い聞かせながら、誉は研究室へ向かう足を早めた。




