夏の章・12 ひなたの謝罪
恐る恐るドアの向こうから姿を現したひなたは、誉と篠原にぺこりと頭を下げる。
「あの……こんにちは」
ぎこちなくお辞儀をするが、目線を下に向けたまま、こちらを見ようともしない。
「どうしたの? あ、この間はあれから大丈夫だった?」
「え?」
篠原の問いに、ひなたは疑問符を浮かべる。
「ほら土曜日、合コンでベロベロだったじゃない。飛沢先生は送り狼にならなかった?」
「篠原」
何て言い草だ。篠原を牽制するように睨みつけるが、篠原はどこ吹く風。「冗談冗談」と笑って受け流してしまう。
「でも、ちょうど俺らが居合わせていてよかったよ。ダメだよ、これからは気を付けないと」
「あの……篠原さん、わたし……」
黙って篠原の話を聞いていたひなたが、恐る恐る口を開く。
「土曜日、篠原さんもあそこに……?」
「うん。飛沢先生と一緒に飲んでたんだ」
途端、ひなたの顔がみるみる真っ赤に染まる。自分でも自覚したのだろう、赤い頬を隠すかのように両手で頬を覆う。
「あ、あの。土曜日の、ことですが、実は、あまり良く覚えていなくて」
覚えていないのか。
一気に身体の力が抜ける。安堵のためなのか、脱力感からなのかわからない。
しかしまあ、案の定というべきだろう。確かに彼女は随分と酔っていた。記憶が多少飛んでいても致し方あるまい。
それに、覚えてくれていない方が誉としてもありがたかった。
あの時の彼女とのやり取りを思い起こすと、何とも言えず気恥ずかしい。別にやましいことなど、何ひとつしていないのだから恥ずかしいことなど無いはずだが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだから仕方がない。
誉が密かに胸を撫で下ろしたのも知らずに、ひなたは気の毒なくらい赤い顔をくしゃりと歪める。
「でも、さっき小原くんに会いまして、色々説明をしてもらいまして……あの、皆さんに大変ご迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」
身体を二つに折るように、深々と頭を下げる。
「山田さん、顔を上げて。ほら、気にしない気にしない」
篠原は宥めるように、穏やかな声を掛ける。
「若い頃は誰だってやりがちなことなんだし、大事には至らなかったわけだしさ。でも今後は気を付けようね」
「……はい」
ようやく顔を上げたひなたに安堵しつつも、篠原に対しては非常に腹立たしさを感じずに入られない。
ひなたが参加していた合コンに、ちゃっかり飛び入り参加しておいて、ひなたの件については関わってもいないくせに。
だが誉も人のことは言えない。実は色々と世話を焼いてくれたのは順也であり、誉は家まで送り届けただけだ。
篠原に対する様々な不満を飲み下すと、小さく咳払いをする。
「お礼を言うなら、私たちよりも小原くんに言いなさい」
誉の素っ気ない物言いに、ひなたは怯んだように視線を足元に落とした。
「わかりました……あの、でも、先生が家まで送ってくれたって弟が教えてくれて…………」
さらりと頬に掛かる髪の隙間から、ひなたの今にも泣き出しそうな顔が垣間見える。たちまち罪悪感が胸の中に立ち込めるものの、今更フォローの言葉が見つからない。
「だから、あの……ありがとうございました」
「……ああ」
決まり悪い気持ちで、頷くことしかできない己が情けなくて堪らない。結局何も言い出せず、堅苦しい沈黙が訪れる。
「――ええと、そろそろ僕はお暇させて貰おうかな」
沈黙に耐え切れなくなったのだろう。篠原が独り言のように呟くと、ひなたは我に返ったように顔を上げた。
「あ、ごめんなさい。わたしも長居してしまって…………」
ようやく真っ直ぐに顔を上げたひなたの視界に、普段とは違う誉の姿が飛び込んできた。
「!」
驚いたように瞠目する。誉の三角巾で腕を吊った姿に、今更気が付いたようだ。
「せ、先生、その怪我は」
真っ赤だったひなたの顔の血の気が、見る間に引いていく。
「うん脱臼だって」
誉に代わって、篠原がさらりと答える。
「脱臼って……あの、どうして」
紙のように白い顔で、ひなたはおどおどと訊ねる。
「ああ、それはね」
誉がすかさず「何も言うな」と囁くものの、篠原は敢えて知らん顔で話を続ける。
「日頃の運動不足がたたったんでしょ。山田さんも、今から気をつけておいた方がいいよ。こういう軟弱な中年にならないように」
「……おい」
ひなたに余計な気遣いをさせないように言っているのだろうが、これは誉に対して随分な言いようだ。
しかも、彼女の前で中年呼ばわりしなくても!
「自分のことを棚にあげるな」
誉が中年なら、同い年の篠原だって中年といえよう。しかし篠原はわざとらしく首を傾げると。
「誉くんと違って僕は、肉体年齢が若いものでね」
「精神年齢の間違いじゃないのか」
「うわ、ひどー。これが教鞭取る人間の台詞とは思えないね。ひどいと思わない? 山田さん…………?」
ひなたを仲間に引き込もうとするものの、どうやら彼女の耳に入っていなかったらしい。篠原に話を振られたものの、まったく反応がない。
「山田さん?」
今度は誉が声を掛けると、真っ青な顔で誉を見つめた。
「わたしの……せいですか? その怪我」
「いや違う」
即座に否定したが、簡単に信じようとはしなかった。
「本当、ですか?」
「嘘をついてどうする」
「でも」
「棚から落ちてきた荷物を受け止めたらこうなった」
多少の嘘は交じっているが、大まかな流れは間違っていない。すると彼女の顔から、疑いの色が薄れてきた。
「荷物、ですか?」
「ああ」
嘘を重ねるのは正直得意ではない。後ろめたさ故に、冷や汗が滲んでくる。
これ以上聞かれたら、あとはどう誤魔化せばいいだろう? そんな時、篠原が救いの手を差し伸べる。
「そうそう、飛沢先生、この春引越ししたばかりでさ、まだ荷物が片付いていないんだよね」
「そうなんですか……」
どうやらこんな猿芝居でも、通用したらしい。ほっと胸を撫で下ろしつつ、さっきから感じる視線に注意を向ける。すると、案の定、篠原が物言いたげな笑みを浮かべていた。
奴が何を言いたいのか、大体はわかる。「無理しちゃって」や「柄にもなくカッコつけちゃって」のような類であろう。恐らく。
もちろん、多少は無理はしているし、格好悪いところを見せたくないというプライドもある。当然、本当のことを話せば彼女が気に病んでしまうかもしれないという危惧もあるが、やはり無様な自分を知られたくないという方が大きいのかもしれない……なんだかんだ言って。
ふと窓の外を見ると、すでに陽は傾き始め、茜色の夕陽が窓ガラスを朱く染めていた。壁に掛かった時計は、六時半を指し示している。
「そろそろ帰りなさい。遅くなると親御さんが心配するぞ」
ひなたの自宅は、大学から程近いが、途中の道は住宅街にも関わらず、人通りも少なく外灯の数も少ない。女性が歩くには、あまりよろしくない環境に思えた。
「え、あの、でもまだそんなに遅い時間ではないような気も……」
戸惑い気味に反論しようとするが、誉は頑なに頭を振った。
「あの住宅街は暗すぎる」
「でも、以前よりは明るくなったんですよ?」
「しかし…………!?」
「はーい、ストップ」
さらに言い募ろうとする誉の口を、篠原は両手で覆い、ひなたの間に割って入る。
「山田さん、お願いがあるんだけど」
「はい」
篠原の改まった口調に、ひなたもつられて居住まいを正す。
「悪いけど、飛沢先生、家に送ってやってくれない? ほら、先生腕がこんなだから、自分のバッグを持つのも大変なんだって」
おい、篠原!
この男は、また勝手なことを言い出した。力ずくで篠原の手を振りほどく。
「これくらい怪我のうちに入らん」
声高らかに宣言するが、篠原の耳には一切入っていないらしい。
「山田さん、先生は意地張っているだけだから。よろしく頼んだよ」
誉を余所に、ひなたと話を進めているではないか。
「山田さん」
こんな奴の話になど、耳を貸す必要など無い。そう告げようとしたが、時すでに遅しとは、このような時にいうものだと知る。
「……わかりました!」
ひなたは力強く頷くと、両手を堅く握り締めた。
「わたし、先生を無事お家まで送らせていただきます!」




