夏の章・11 人の気も知らないで
「先生、その腕……どうされたんですか?」
文学部棟へ足を踏み入れた途端、パート職員の大原奈美と鉢合わせてしまった。
普段よりも早く家を出たつもりだったが、案外朝早くから大学には人がいるものらしい。
やはり、三角巾など、取ってしまえばよかった……。
白い大きな三角巾で腕を吊るしていれば、嫌でも目立ってしまう。治療はしてもらったものの、まだ肩は痛む。まだ歩く振動だけでも痛むものだから、せめて大学に着くまでと思っていたのが間違いだったのかもしれない。
「もしかして骨折ですか?」
痛々しそうに、誉の包帯で厚くなった肩と三角巾で吊られた腕を見つめる。
「いいえ、ちょっと」
大原の視線にたじろぐように、誉はじりじりと後退する。
実を言うと、あまり怪我の話題には触れて欲しくなかった。普段から動き回ることもないのだから、三角巾さえなければ、気がつく者もいないだろうと思っていた。
適当に濁してしまおうかと思っていたが、大原はそれを許してはくれなかった。
「ちょっとって? 無理したら治るものも、なかなか治らなくなってしまいますよ。わたしの息子も体育の時間に骨折した時は……」
「いえ! 骨折ではないので」
「でもその肩は」
「脱臼です」
「脱臼……」
大原は痛々しげに目を細める。
「ですから、大したことはありません」
この大げさな三角巾を外してしまおうと、首の後ろの結び目を解こうと手を伸ばす。しかし、大原は誉のその手をぴしゃりと叩く。
「先生ダメですよ」
まるで小さな子供を叱るように、誉を軽く睨む。
「お医者さんが良いと言うまで、ちゃんと固定しておかなくちゃ。また脱臼しちゃって余計治りにくくなってしまうんですから」
「……わかりました」
大原は少々お節介なところもあるが、嫌な感じはしない。母親のお小言のようだと、篠原がこぼしていたが、確かにその表現は適切である。
まるで叱られた子供のようだなと思いつつ、誉はこっそりと苦笑した。
今日一日のうちに、何度同じことを聞かれただろう?
やはり白い包帯と三角巾という組み合わせは目立つらしく、滅多に話もしたことがない相手からも「どうされたんですか?」と聞かれるからたまったものではない。
だから、篠原が研究室に顔を出した時は、またかと思い、げんなりとした。
「誉くん、山田さんに不埒な真似でもしたの?」
篠原の第一声を理解するまで、数秒の時間を要した。
「…………どういう意味だ」
むっつりと答えると、篠原は下世話な笑いを浮かべながらにじり寄る。
「どういう意味って、わかっているくせに」
「…………」
うししと笑う篠原を睨みつける。すると篠原は「ぶっ」と小さく吹き出した。
「冗談だよ、冗談」
「……………………」
またもや、この男にからかわれていたらしい。苦虫を噛み潰したようなしかめっ面になった誉を見て、篠原は諭すように語る。
「別にやましいことがなければ、怒る必要はないでしょうが。いちいちムキになるっていうのは、不埒な真似をしちゃいましたって宣言しているようなものじゃないの?」
そんな真似などするわけがないだろう!
無防備過ぎるひなたに振り回され、時折理性を試されるような態度を取られたり。まったく、人の気も知らないで勝手なことばかり……。
喉元までせり上がってきた言葉を飲み込むと、かわりに長いため息をついた。
「……椅子から転げ落ちそうになったところを支えようとしたら、こうなった」
「どうして椅子から転げ落ちそうになったのか……それはさておき」
誉の白い包帯を気の毒そうに眺める。
「誉くん、軟弱過ぎ。身体鍛えなよ」
「…………」
労わりの言葉ではなく、それを言うか。
文句のひとつも言いたいところだが、篠原の言い分ももっともではある。小柄な女性ひとり受け止めたくらいで脱臼など、男としては少々情けない。
「そうだな……」
眉間に皺を寄せると、難しい面持ちで頷いた。
「……完治したら、ジムでも通うか」
「お、いつになく前向きな発言」
「後ろ向きな発言をしていた覚えはないが」
「まあまあ」
誤魔化すように、誉の背中をぽんと叩く。
「じゃあ、俺が入会しているジムはどう? 会員の紹介なら、入会費半額になるし」
「考えておく」
「今度パンフ持ってくるよ」
うむ、と無言で頷いた時だった。
――コンコン。
研究室のドアをノックする音が、微かに響く。
「失礼、します」
ドアの向こうから聞こえるか細い声。この声は……山田ひなただ。
誉と篠原は、思わず顔を見合わせた。




