夏の章・2 この不可解な気持ち
「実は、初めて学食に来ました」
普段、ひなたは母親が作ってくれる弁当を持参しているが、その母親は親戚が入院したとかで昨日から不在。だったらたまには自分で作ってみようと思ったものの、残念ながら寝坊。
せっかくだから学食へ足を運んでみようと思ったらしい。
「いつもお昼、ひとりなの?」
篠原の質問に、ゆるゆると頭を振る。咀嚼したものを飲み込んだ後、ひなたは質問に答えた。
「いつもは友達と食べているんですけど、風邪引いちゃってお休みなんです」
「へえ、そうなんだ。しばらく寂しいね」
「こればっかりは仕方ないです」
ひなたは困ったように眉を下げる。
二人が会話を弾ませる傍らで、誉はひたすらうどんを啜っていた。
さっさとこの場から退散したい……。
自分から話題を振ることもできず、上手く会話に混ざることもできず、会話をせずとも適当に相槌を打つこともできない。
自分がこの場にいなくても、はっきり言って何の問題もないだろう。とすれば、さっさと食事を終えて立ち去るのが一番だ。
それにやらねばならないこともてんこ盛りだ。運悪く配属されてしまった委員会の資料作成もやらなければならない、学会へ行くための航空チケットも予約しなければならないのだから。
よし。
会話が途切れたタイミングを見計らって、退席を告げようと口を開いた時だった。
「飛沢先生!」
真正面から名を呼ばれ、思わず顔を上げる。
明るい癖のある髪に縁どられた端正な顔立ちの青年が、手を振りながら近づいてくる。文学部きってのイケメン青年、小原順也が無邪気な笑顔を振りまいているではないか。
「あ、ひなたちゃんもいる」
「こ、こんにちは」
やや堅い声だが、順也を見上げる瞳はキラキラとしている(ような気がする)。
「小原くん、今日もキラキラビームを集めまくってるね」
と篠原。篠原の発言は意味不明ではあるが、言いたいことはわかる。確かに順也が登場した途端、周囲の学生たちの目もキラキラしている。明らかに。
「えーなんですか、それ?」
このような反応に慣れているのか、当人はケロリとしている。
「ここ座っていい?」
いつの間にかひなたの隣の席が空いていたらしい。そのままちゃっかりと座り込むと、ひなたの手元を覗き込む。途端、ひなたの表情に緊張が走る。
「ひなたちゃんは、うどん?」
「う、うん」
緊張しているな。
無理もない。こんな絵にも描けぬイケメンが、こんなに近くになたら緊張しない方がおかしいだろう。
誉と居る時もずいぶんと緊張していたが、緊張の種類が違う。
…………まあ、当たり前か。
年若いイケメンと比べてどうする。そもそも、どうして比べる必要がある。
「先生も、ひなたちゃんと同じですか?」
「ああ」
「美味いですよね、ここのうどん」
と言いつつ、順也のメニューは大きなかき揚げが乗った蕎麦である。
「ちなみ僕はカレーうどん」
「見ればわかります」
「だよねー」
篠原と順也のやり取りを見ていたひなたが、くすりと笑う。
会話に花が咲く、というのはこのようなことを言うのだろう。和やかに緩んだ空気の中、若者二人は楽しげに話を始めている。
「今日智美ちゃんと一緒じゃないんだ?」
「うん。風邪引いちゃったんだって」
「ああ、そう言えば昨日、声が嗄れたよね。カラオケやり過ぎたって言っていたけど風邪だったんだね」
「うん。喉が痛いならやめようって止めたんだけど……」
「あ、ひなたちゃんと行ったんだ、カラオケ」
次第に緊張も解けてきたのか、ひなたの表情も柔らかい。
「…………」
もしかすると「あとは若い人同士で」という状況であろうか。
篠原もそう思ったのか、お互い顔を見合わせてしまった。
引っ込み思案な彼女が、周囲の人間と打ち解けている。非常にいいことだ。もちろん学生の本分は勉学に励むことだと思うが、学生時代に様々な人間と出会い交流を広げていくのも大切である。
だが……。
誉は思わず、胸元を押さえる。
何だろう、このもやっとした変な感じは。
「………………」
さっきと同様、やっぱりよくわからない。恐らくこれも、今わかる必要がないということに違いない。
そうだ。
そうに違いない。
誉はひとつ咳払いをすると、椅子から腰を浮かした。
「申し訳ない。先に退席させてもらう」
途端、篠原と順也が「えー」と咎める声を上げる。
「先生、もうちょっといいじゃないですか」
「すまないな」
上手い言い訳が見つからず、謝罪の言葉だけを述べる。
「そうだよ、先生。もうちょっと学生と交流の時間を取った方がいいんじゃないの?」
おい篠原、さっきのアイコンタクトは何だったんだ。
若い二人の邪魔になっているのではなかろうかと、お互い思ったのではないのか?
順也の発言に乗っかる篠原に、冷ややかな視線を送る。
「お前も昼休みはそろそろ終わりじゃないのか?」
「うちの事務室は休憩時間が不定期だから」
「…………そうか」
いまいち信用ならないが、本人が言うのならそうなのであろう。
「それでは失礼する」
誉が立ち上がりトレイを手に取ると、「もう仕方ないなあ」とぶつくさ文句を言いながら篠原も重たい腰を上げる。
「じゃ、お二人さんごゆっくり」
冗談めかして篠原がひらひらと手を振ると、ひなたは慌てたように居住まいを正す。
「すみません……お昼休み、お邪魔をしてしまいまして」
「いえいえ。こちらこそ、野郎二人のむさ苦しい面子に引き込んじゃってごめんね」
「いえそんな」
ひなたは、ぶんぶんっと首を振る。
「じゃ先生、また」
と言うのは、ひなたではなく順也だった。人懐っこい笑顔を向ける彼に、誉は静かに頷く。
「ああ」
気が付くとあれほど混雑していた学食内も、ずいぶんと落ち着きを取り戻していた。びっしりと埋まっていた席も、今は空席が目立つほどだ。返却棚に空いた食器と一緒にトレイを乗せると、背後から控えめな笑い声が聞こえてきた。
何気ない振りをして振り返ると、順也の広い背中と、ひなたの小さな背中が並んでいるのが見える。
やはり学生は学生同士が楽しいのだろうな。
よくわからないが、無意識のうちにやるせないため息が漏れる。
「おーい、誉くんどうしたの?」
ぼんやり立ち尽くす誉に、篠原が声を掛ける。
「あ……いや」
我に返ったのと同時に、胸元のポケットに入れた携帯電話が振動していることに気付いた。
メールか。
携帯電話を取り出し、液晶画面を確認する。
メール受信一件。
取り敢えず、誰からのメールかだけでも確認しておこうと、念のため開いてみる。
――父さん?
昼間からメールを送ってくるなど珍しい。
圭介がメールや電話をしてくるのは、大抵仕事が終わった後だった。だからこんな時間帯に連絡を入れてくるなんて。
何かあったのだろうか?
ふと不安がよぎるものの、メールチェックは研究室に戻ってからだ。
誉は携帯電話をポケットに戻すと、足早に学食を後にした。
お父さんのメールが、ちょっとした波乱を呼ぶ予定です。




