春の章・17 なんだか不思議な気分
今回は、ひなた視点です。
弁当が冷めてしまうと指摘をしたからだろう。飛沢はおもむろに弁当を手に取ると、もそもそと食べ始めた。
すっかり冷めちゃっているだろうな、お弁当。
冷めたコロッケを噛み締める飛沢の横顔を盗み見る。黙々と弁当を平らげる飛沢は、一体何を思い、何を考えているのかさっぱりわからない。
隙あらば飛沢にちょっかいを出そうとする愛犬チビ太を宥めたり叱ったりしながら、この場を立ち去るタイミングを探していた。
別に飛沢が「ここにいろ」と言っているわけではない。飛沢だって、わざわざ引き止めたりはしないだろう。チビ太だって、ひなたが帰ろうという意思を示したならば、素直に言うことを聞くに違いない。
さっさとこの場を立ち去りたいと思う反面、もうちょっとだけ飛沢と話をしてみたかった。
恐らく普段とは違う雰囲気の飛沢が物珍しいのかもしれない。あるいは、怖いものみたさのような好奇心が原因だろうかと自己分析をする。
普段の着慣れた風のスーツ姿。銀フレームの眼鏡。上履き代わりに履いている茶色い健康サンダル。
ちょっとオジサンっぽい出で立ちに加え、眉間に刻まれた気難しそうな皺、全身から発する話し掛けるなオーラ、抑揚の乏しい低い声と、全身に近寄りがたいオーラを纏っている。
でも、別に機嫌が悪いわけじゃないんだよね……。
全身に近寄りがたい空気を纏っているが、話掛けてみれば不機嫌というわけではないし、挨拶をすれば必ずきちんと返してくれる。
ちらちらと様子を伺っていたが、今更だが気が付いた。
そういえば、服装……いつもと全然違う。
思いもよらないところで飛沢と遭遇してしまった、というだけで相当てんぱっていたのだ。相手の服装まで気が回らなかった。
今日は黒いセルフレームの眼鏡。着古したジーンズと、ユニクロのTシャツ。健康サンダルではなく、履き古したスニーカー。そういえば、最初に会った時、大学生だと勘違いしていたことを思い出す。
こうして見ると、先生って結構若いんだ?
若いというよりは年齢不詳が適切かもしれない。服装ひとつでこんなにも雰囲気が変わるなんて驚いた。
普段も、もう少し身なりに気を使えばずいぶんと周囲の印象も変わるのではなかろうか。少なくとも仏頂面の無愛想なんて言われ方はしないと思う。多分。
意外な発見をしてしまったせいだろう。怖いもの見たさ、というのもあるのかもしれない。他にも発見は無いものかと、ひなたは飛沢ウォッチングを続行した。
先生、箸の使い方上手なんだ。
母親に箸の持ち方を散々仕込まれたせいもあって、つい癖で他の人の箸使いを観察してしまう。ひなたより年上でも、ものすごい箸の使い方をする人も多い。
うちみたいに、お母さんの躾が厳しかったのかな?
飛沢の子供の頃を想像してみる。ひなたが小学校の時のクラスメイトにいた、大人びた雰囲気の無口な男の子。きっとあんな感じの子供だったに違いない。
うーん……今とあんまりイメージが変わらないや。
もう一度、つい気になって飛沢の姿を盗み見る。
怖い人じゃ、ないんだよね……きっと。
チビ太にだって懐いているくらいだ。順也だって飛沢を慕っているようだし、パート事務員の大原だって親しげな様子だ。
わたしも、もうちょっと経てば、先生と普通に話せるようになるのかな?
でも、その前に大きな難関を突破しなければならないのだ。
謝らなきゃ。あの時のこと。
今なら言えるかもしれない――?
ふいに思い付いた途端、心臓の鼓動が速くなってきた。
言え。言うんだ、ひなた! 今なら言える! 大丈夫、大丈夫!
自らを叱咤激励しながら、大きく息を吸い込んだ。
よし、言う――!
だが決意を固めたひなたよりも先に、飛沢が話し掛けてきた。
「ところで山田さん」
弁当容器をレジ袋にしまいながら、飛沢がくるりとこちらを向いた。先手を取られ、喉まで出掛かった言葉は行き場を失い、頭が真っ白になる。
「山田さん?」
「は、はははい」
落ち着け! 落ち着けわたし!
自分の動揺を笑って誤魔化すことに成功すると、少しだけ冷静さを取り戻した。
「あ、あの、どうかしましたか?」
緊張でやや上ずった声で訊ねると、飛沢は真顔で訊ねた。
「この子――チビ太のことなんだが」
「は、はい」
「名前の由来は、何か特別な意味合いでもあるのだろうか?」
「……え?」
――ひなたちゃんちの犬の名前、へんなの。
かつてクラスメイトだった少女たちの声が甦る。
子供の頃、遠慮のない友人たちによく言われていたのだ。どうしてこんな大きな犬に「チビ太」などという名前を付けたのか。恐らく飛沢も同じ疑問を抱いているのだろう。
「やっぱり変ですよね」
自分で付けておいて、変などと言ったらチビ太が可哀想だと思う。でも、人に言われるくらいだったら、先に自分から言ってしまう方が楽だ。
「いや、変と言うわけではないが、敢えて見てくれとは逆の名付けをすることに、どのような意味合いがあるのかと思っただけで……」
「そう、ですか?」
「ああ、別におかしいとは思わない。可愛い名前じゃないか」
あ、あれ?
またおかしいとか、変など言われるだろうと身構えていたのに。まさか肯定されるとは思っていなかった。拍子抜けしたというか、気が抜けたというか、ホッとしたというか……とにかく肩の力が抜けた。
「名前……わたしが付けました」
自分でも気付かぬ間に、ぽつぽつと語り出していた。
「おばあちゃんちで生まれた子犬だったんです。五匹生まれて……この子が一番ちっちゃくて可愛いくて……小さい雄の子犬だから『チビタ』って呼んでいたんです。そうしたら自分の名前はすっかり『チビタ』だと思い込んじゃいまして……」
他の名前で呼んではみたが、チビ太はまったく無反応だった。反応するのは「チビ太」と呼んだ時だけ。諦めてジャーマン・シェパードの子犬の名前は「チビ太」に収まってしまったわけだ。
「……そうか。それは仕方がないだろう」
飛沢は納得したように頷くと、弁当容器の入ったレジ袋を手にして立ち上がった。
「さて、私はそろそろお暇しようと思うが、山田さんは?」
「わたしも……お散歩の続きをします」
「そうか」
飛沢は手を伸ばすと、チビ太の頭をくしゃりと撫でた。
「では、よい休日を」
「……よい、休日を」
飛沢は素っ気ない挨拶を残すと、さっさと立ち去ってしまった。
あまりにも呆気ない飛沢の退場に、ひなたはぼんやりと立ち去る後姿を見送ることしかできなかった。チビ太も寂しげに尾を振りながら、ひなたを見上げて低く鳴いた。
特別な話をしたわけじゃない。他愛のない話を交わしただけ。
ただそれだけ。それだけだったけれど、胸の奥がくすぐったいような不思議な気分だった。




