春の章・13 恋の告白?
彼女――山田ひなたが、再び研究室の扉を叩いたのは、二十時を少し超えた頃だった。
「し、失礼します!」
弱気なノックの音とは対照的に、妙に力んだ声だった。
「どうぞ」
明日の会議資料に落としていた視線を上げると、静かに開いたドアの向こうから、何やら思いつめた表情のひなたが姿を現した。
「あの、郵便物、出してきました……」
誉の顔を見た途端、ひなたは視線を泳がせると、またいつもの弱々しい声で告げる。
人の顔を見た途端、一体何なんだ。
ここまで極端な態度を示されると、正直へこむ。いくら相手がひと回り以上年下の学生であろうと、大して親しくもない相手だとしても、へこむものはへこむのだ。
「それで、あの、領収書を持ってきました」
まるでおもちゃの兵隊のようにぎくしゃくとした足取りで、誉の机に向かって歩き出した。誉も椅子から立ち上がると、自ら彼女の方へと歩み寄る。
一瞬、ひなたの表情が強張る。しかし今度は挑むように唇を引き結んだまま、手にした領収書を突き出した。
「これ、です」
まるで果たし状でも突き付けられたような気分になるが、誉は無言で小さな紙切れを受け取った。すぐさま回れ右をして誉の目の前を立ち去ると思いきや、まだ何か待っているかのように俯いたまま立ち尽くしていた。
今日の業務はもうおしまいだ。時間が過ぎているのだから、そのくらいわかりそうなものだが「もう帰ってもいい」の一言が無いと不安なのかもしれない。
「……もう遅いから気を付けて帰りなさい」
するとひなたは、おずおずと顔を上げ、思い詰めた面持ちで誉を見つめる。
「……あの!」
訴えるような必死な声と双眸。緊張しているのだろう。目に見えて、彼女の白い頬が紅潮していくのがわかる。
「飛沢先生……わたし、あの」
振り絞った声はか細いが、必死に何かを伝えようとしているのがわかる。まだ幼さを残した彼女だが、あまりにも真っ直ぐな瞳を向けられると、妙に落ち着かない気分になってくる。
「山田さん?」
「実はお話したいことが、ありまして」
「話?」
「は、はい」
こくりと頷いた途端、ひなたの顔や耳元が真っ赤に染まる。
「あ、あの……」
――一体なんだ、このシチュエーションは。
ひなたの緊張が伝染したかのように、誉まで緊張してきたようだ。心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。
これまでの人生で、このような状況で起こりうるシチュエーションを思い起こせば、ひとつしか思いつかない。
あれだ。口にするのも恥ずかしい……恋の告白というやつだ。
しかし、だ。山田ひなたとは、まだ片手で数えられるほどの回数しか顔を合わせていない。しかも彼女は、誉に対して恐怖に近い感情を抱いているのは明白だ。
このような経緯から、恋の告白に至るには相当無理がある。有り得ないと言ってもいい。
だが。
真っ赤な顔で痛々しい程緊張し、切なそうな瞳で見つめられては……他に何があるというのだろう。
いいや!
誉は力強く否定する。
そんな莫迦な話があるか。あるはずがないだろう、絶対に。
そうだそうだと言い聞かせると、誉は己を奮い立たせようと一歩踏み込んだ。
「山田さん。言いたいことがあるなら、遠慮なくいいなさい」
誉が距離を一歩分縮めた途端。
「すすすす、すみません!」
ひなたは一気に後ろへと飛び退った。まるで忍者を思わせるような身のこなしに、半ば感心をしてしまう。
「あの、やや、やっぱりお話はまた改めて……お時間取らせちゃってごめんなさい!」
ひなたは茹でダコのように真っ赤になりながら、よたよたとした足取りでドアへたどり着く。
「お先に、失礼します!」
音を立ててドアが閉まった途端、室内に沈黙が戻る。
「…………なんだ、今のは」
ぽつり、呟く。
誉の微かな呟きは、壁時計が秒針を刻む音に掻き消えた。
* * * * *
飛沢の研究室から飛び出した後、ひなたは化粧室へ逃げるように直行した。洗面台の鏡に映った自分の顔は、茹でたように真っ赤である。
蛇口を勢いよく捻ると、冷たい水で顔を洗った。化粧が落ちてしまうと、途中で気が付いたがマスカラもアイライナーもをウォータープルーフだ。ファンデーションは多少落ちても大した問題は無い。
「や、やっぱり言えなかったよ……」
化粧が落ちても大して変わり映えしない自分の顔を眺めながら、ひなたは情けなく眉を下げる。
「来週は、ちゃんと言えるかな」
言ったら怒るだろうか。アルバイトをクビにされてしまうだろうか。
今更になって、不安が降り積もってゆく。
――まさか、こんな形で再会してしまうとは思わなかったけど。
もしかしたら、同じ大学の学生かもしれないとは思っていた。でもまさか、先生の方だとは思ってもみなかった。
普段はなかなか人の顔と名前を覚えないくせに、どうして一度会ったきりの飛沢を覚えていたのか謎ではあるが。
――やっぱり、あの目付きかな。
目付きが悪いというわけではないが、真っ直ぐに見据えるような眼差しは、ちょっとした迫力がある。
――あとは、コロッケと、ずぶ濡れの本のせいだ。
この三つのキーワードが揃った時、あの雨の日の記憶が鮮明に蘇ってしまった。気付かないままだったら、どんなに気楽だったろうに。
――やっぱり、怒るかな。
順也も奈美も言っていたじゃないか。実は結構可愛いところがあって、面白いところがある人だって。
――ということは、悪い人ではないってことだよね?
そう思いたい。そうであって欲しい。
「ああ、もう!」
もう一人の自分が耳元で「黙っていればわからないよ」と囁く。でも黙っていたら、ずっと心苦しいままだ。それに、もしかしたら飛沢の気分を悪くするだけかもしれない。単なる自己満足かもしれない。
「大丈夫! うん。たぶん、きっと」
自らに言い聞かせるように呟くと、手のひらで自分の両頬をぱちりと叩いた。




