16.浄化(5)
翌日は、夜に出かけることになった。
「昨日に引き続きだが大丈夫か、巫女殿」
賢者が心配そうに顔を覗き込む。
「ここを出るのは暗くなってからでしょう? それまで休みますから大丈夫です。それに、満月を逃してはいけないような気がするんです」
「まあ、確実なことは何もないが、満月の明るさは、狂気を孕んだ印象があるな」
「では、また夜に」
そう言って部屋に戻ってきたものの、奈月はすることがなくて困ってしまった。
毎日お世話になっているので、何かできることがないか、村長の奥さんのところに行って聞いてみた。
「巫女様、そんなこと気にしなくていいのに。と言っても、することがないのも退屈よね」
そう言って、乾燥ハーブを作ったり、唐辛子を干すために紐で縛ったりといった、子供でもできるお手伝いをやらせてくれた。
台所の様子は日本とまるで違っていたけれど、家族のために食事を作り、健康を維持するために心を配るのは、ここでも同じだった。
奈月はここに来て、あまりに現実離れしたことばかりしてきたので、こうした日常の小さな活動が愛おしかった。できることならすぐにでも陽一の元に帰りたい気持ちが浮かんでくる。
そんなふうに気持ちが逸る一方で、神の使いだというガルムのその先も、きちんと見届けたいと思うのだった。
山に日が落ち、向かいの森の上に赤みを帯びた月が昇り始めた。満月だ。
「巫女殿、そろそろ行くか」
「はい」
賢者と奈月は、一気にオオカミの森近くに飛び、そこから浮遊する絨毯に乗った。
昨日下見をしていたので、オオカミの群れを見つけるのはすぐだった。
黒い大きな個体の周りに、十二頭いる。
「昨日は十頭だったな。増えたのか、よそから来たのか」
「どうします? 近づきますか」
「いや、何かしら変化があるかもしれぬ。しばし待とう」
長丁場になるかもしれないからと絨毯にすわり、寒そうだなと言って賢者は、裏が起毛になったマントを奈月に貸してくれた。フリースを思い出す暖かさだった。こんなふうに、ふとした時に日本を思い出す。
絨毯の上でマントに包まってぬくぬくしているうちに、奈月は眠くなってきた。ウトウトしていると、賢者に呼ばれた。
「巫女殿、どこかに行くようだぞ」
月はいつの間にか高い所にあった。
賢者の絨毯は、群れの斜め後方、はるか上空をついて行く。
辺りは満月の光で、何もかもがくっきりと浮かび上がっていた。
「ガルムも俺たちに気付いているかもしれないな」
「気付いていて、敢えてどこかに誘っているのでしょうか」
「絨毯の影が地上に落ちていたからな。目敏いものだ」
オオカミの群れは、木々の中を進み、やがて開けた場所で止まった。
満月の前を黒い雲が横切って、少し暗くなった。オオカミたちは動かない。
「賢者様、ガルムというのは何頭もいるのですか、それともボスだけを指すのでしょうか」
「本来は一頭だけだが、それが率いるオオカミたちも、ガルムと総称されたりする」
「今の村人たちにとっては、ただの人殺しオオカミですよね」
黒い雲が流れ去って、満月の皓皓とした光が、真っ黒い集団を照らした。
大きな個体が岩の上に登って、下顎を上げ、月に訴えるように長く吠えた。
アオオ――――――ン
アオオ――――――ン
アオオ――――――ン
動物の声など聴き分けられない奈月にも分かる、それは魂を引きちぎられるような悲しみに満ちていた。
それに続いて十二頭も、月に向かって吠え出した。同じように悲しみを引きずった声だ。
さらに森のあちこちから、呼応するオオカミの遠吠えが聞こえた。
賢者はゆっくりと絨毯を下降させた。
漆黒だった大きな個体の額に、白い模様が浮かんできた。
「額に何か見えます」
「三日月形だな。あれが本来のガルムの姿だ。神より額に三日月を刻まれたというオオカミだ」
さらに下降した絨毯の上から覗き込む奈月と、額に三日月を頂いたガルムの目が合った。
金色の目が奈月を見る。
「巫女殿、トーチを」
奈月がトーチを灯すと、オレンジ色の炎はそのままだった。
「うむ、やはり今は正気らしいな。巫女殿、下に降りるぞ」
賢者は絨毯を着地させ、ガルムの立つ岩の下まで歩いた。
「俺はルキディア王国の賢者セレノスだ。ここにいるのが聖火の巫女、奈月だ。魔を払うことができる」
ガルムは岩の上から見下ろして、歯をむき出した。
「何らかの理由で、神の使いの印が抑えられているとお見受けした。満月の光を存分に浴びた時だけ、元の姿に戻れるのだな」
ガルムはじっと奈月を見ている。話をしているのは賢者なのに。
いや、見ているのはトーチの火か。
「心ならず村人を襲ったことが苦しいのではないか」
ガルムのむき出しの歯の間から唸り声が聞こえる。
「それが大地からの魔によるものなのか、誰かからの呪いによるものかは分からぬが、巫女に払わせてもらえまいか。命は奪わぬ。魔を払うだけだ」
ガルムは尚も、オレンジ色の炎と奈月の目を見つめる。
奈月はガルムに言う。
「これは聖火で魔を払うことができます。魔に相対すると、青白く燃えだします。魔物になりかけていた子供たちを元の姿に戻したこともあります。元より魔物だったものは消滅しました。どうか」
魔を払わせてください、と奈月が言い切る前に、先ほどより厚い雲が月を覆い始めた。
暗くなると同時に、ガルムの額の白い三日月が薄れ始めた。目の光が消えていく。
奈月のトーチが強大な青白い炎を噴き出した。
ガルムは一度姿勢を低くして、岩を蹴って奈月の前に跳んだ。
覚悟を決めていた奈月は、陽一の手のぬくもりを思い浮かべながら、
「行きます!」
と言って、ガルムに向けて青白く巨大な十字を切った。二度、三度、さらに奈月は夢中でトーチを振るった。
辺りが急に明るくなった。雲が去ったのだ。
「巫女殿、もう良いぞ」
賢者の言葉に、奈月は肩で息をしながらトーチを振り上げていた手を降ろした。
目の前には黒いオオカミが横たわっていた。額に白い三日月が浮かんだガルムだった。
「ガルム!」
奈月は駆け寄って跪いた。ガルムの一回り小さくなった体は、呼吸に合わせて静かに腹が上下していた。
やがて眼を開けたガルムは、金色の眼で奈月を見た。それからゆっくり体を起こし、きちんと座ると、周りにオオカミたちが集まって来た。
「巫女殿、そのオオカミたちにもトーチの炎を近づけてみてくれ」
賢者に言われてトーチを灯すと、オレンジの光は紫色になった。鳥型の魔物になりかけた子供たちと同じだった。
奈月がオオカミに紫色の炎を近づけ、小さく十字を切ると、体がやや小さくなり、真っ暗な洞のようだった目に光が戻った。六頭のオオカミを元に戻した。
七頭目のオオカミは時間がかかった。倒れて苦しんだ末に、黒い祭服を着た神官になった。それから立て続けに神官が現れ、皆、呆然と自分の身体を撫でたりさすったりしていた。
奈月と賢者も、最後のオオカミが人間に戻った後、予想していたとはいえ衝撃が強くて、しばらく言葉を発することができなかった。
グッ、と何かに背中を押され、奈月が振り返ると、三日月を額に刻んだガルムが頷くように顎を引き、仲間のオオカミを連れて森の奥に消えていった。
残された六人の神官たちが、ガルム様だ、月の神が、戻れた、呪いだったのか、などと、てんでに叫び始めて収拾がつかなくなったので、賢者が、パン! と手を打ち鳴らした。
それからまとめて転移で教会に戻った。
教会の扉は開けられていて、中から引きずり出されたと思われる神官三人が、何かに喰い殺されて滅茶苦茶になっていた。あまりの痛ましさに、賢者は奈月の前に立って視界を塞いだ。
この三人は死んだとは言え、この姿自体が証拠でもあるので、賢者は地面に敷いた半透明のシートの上に死体を並べ、上からも半透明のドームを被せた。
「このドームの中は、冷却した上、時間の進みを遅くしてある。遺体の腐敗は進まないはずだ」
六人の神官はそれぞれ感情の読めない顔をしていた。憎しみと、悲しみと、後悔だけでなく、ガルムへの憧れと神への畏怖、そのような諸々の気持ちが整理しきれないまま、ここに立ち尽くしていた。
「中で話を聞こうか」
そう言って賢者は教会の中に入った。奈月と神官たちも後に続いた。
そこで聞いた話によると、神官たちはイアール国に、神の使いであるガルムを連れ戻すために送り込まれて来たらしい。
最初に来ていた神官たちは、あの手この手でガルムの機嫌を取ろうとしたが上手くいかず、本国の教会から厳しい叱責を受けた。新たな神官も送られてくるし、自分たちの立場がなくなると焦った彼らは、とうとう禁呪に手を出し、ガルムを呪術で言うことを聞かせようとした。
しかし、それは致命的な過ちであった。
ガルムはその呪いで、月の神の加護を失ってしまったのだ。そのことに抗議した神官たちも、呪術でオオカミに変えられてしまった。オオカミとなった神官たちは、我を失い荒れるガルムに付き従い、森を彷徨う暮らしを余儀なくされた。意識は、人とオオカミの半々であったという。
ガルムは時に村を襲い、満月の夜に正気に戻って苦しんだ。呪いは、呪いをかけた相手を襲うことを禁じていたので、ガルムもオオカミとなった神官たちも何もできなかった。
奈月は腹が立って仕方がなかった。あの時の神官を、その場でトーチの炎で消してやれば良かった。自らの所業を嘆くガルムの遠吠えが、まだ耳に残っている。
「奈月殿、その憎しみは忘れるがいい」
「だけど」
「そのトーチでガルムを助けたことを、ただ誇りに思え。もう村にオオカミの被害は出ないのだ」
「うん」
頼りない返事になってしまったが、奈月は、賢者の言う通り、腐りきった神官のことなど忘れようと思った。
オオカミから人間に戻った神官からは、呪いを解いてもらったことに何度も礼を言われた。
また、自分たちも拝金主義のマーナ教には疑問を持ち始めていたので、神官を止めて生きていくつもりだと言っていたが、それは奈月の知るところではない。
彼らが国に戻って、教会にどう報告するつもりか分からないが、ルキディア王国からは、イアール国とマーナ教会の両方に対して、正式に抗議することになるだろう。
そして、月の神の使いであるガルムは、金輪際、イアールの地を踏まないだろうと奈月は思った。
夜も更けたので、国王への報告は明日にして、奈月と賢者は村に戻ることにした。
教会の扉を開けると、いきなり一対の金色の眼が奈月を見ていて驚いた。
「ガルム!」
奈月が駆け寄ると、ガルムは口に咥えていた一房のブドウを差し出した。
「え? くれるの?」
ガルムは、ふいと向きを変え、森の中に走って帰っていった。
「あ、ありがとおー」
奈月は、見えなくなったガルムに手を振りながら礼を言った。
「もらっちゃった」
奈月が賢者にブドウを見せると、
「ブドウはな、豊穣と再生の象徴だ。ガルムからの感謝の気持ちだろう。良かったな」
と、賢者が労わるように言ってくれた。
ブドウを大事に胸に抱えた奈月は、賢者の転移で村に帰った。
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