“恩人様”の捜索 5 エミリアの反省
エミリアはよくこの景色を見たことがあった。
歩いているとき。走っているとき。怒っているとき。何もしていないときも。
何かの拍子にクラリと来て、重力に勝てなくなってゆっくりと空が遠くなっていく、この景色。
だからどこかで、ああまたか、と思った。
諦めの気持ちが強いのは、どうせ重力というものに自分は勝てやしないと身に染みて分かっているからである。
生来、これまで何百回と倒れてきたが、その一回として重力に打ち勝てたことはない。
でも今回はちょっと高さがまずいかもしれない、と、不安に感じるのは、いつものようにめまいによる昏倒などではないからかもしれない。
めまいのときは、いつも著しく思考力が低下して何も考えられない時間が発生する。
でも今回はただの不慮の事故。
手が滑ってバランスを崩しただけであるためか、いつもより妙に思考がはっきりしている。
──と、ここでエミリアはハッとした。同時に、落下する自分に抗うように、手がとっさにつかむものを探し──虚しくからぶる。
普段から転倒なれしているせいか、一瞬くせのように諦めの感情が浮かんでしまったが。そういえば、今は下に人がいる。
もしその人の上に落ちて怪我をさせてしまったらどうしようと思うと、やっとエミリアに慌てる気持ちが生まれる。
でも、すでに脚はバルコニーの手すりを超えて、その向こうに駆け出てきたニコラの悲壮な顔と、伸ばされた腕が見えた。残念なことに、その指先も、彼女に届くことはなかった。
(……あ……落ち、る…………)
何もかもが、不思議にスローモーション。
ふと、エミリアは考える。
(もしやこれは……死の淵、と、いうやつなのでは……? ……まあ……それはそうよ……だって常にあの世に片足突っ込むようにして生きてきたわたしが、この高さから落ちて無事でいられる……?)
それはどう考えても無理なような気がして、気持ちは妙に冷静になる。
ただ、自分に向かって一生懸命手を伸ばしてくれている婦人にはなんとも申し訳なくなった。
ああごめんねとエミリア。
(わたしがビビりなばっかりに……こんなまぬけな最後を……)
願わくば、彼女があまり気に病まないといいのだが。あと、下にいた恩人様を巻き添えにさえしなければ。
(落下距離……わたしの体重を考えても……竜人族の方ならそう負担ではないと思うのだけど……そうよ、きっと反復横跳びでよけてくださるわ。だって、機敏ですものね、竜人族は)
うんうん、と。この間際に、なぜそんなことを……? と、奇妙にも思われるかもしれないが……彼女が自分の死をここまで冷静に受け止めるのには理由がある。
本当は、ずっとどこかで自分が長生きできないだろうと思っていたのだ。
ゆえに、遺書もすでに書いてあった。
もちろん生きていたいとは強く願っている。生きて父の自慢の娘になりたい。
でも、同じくらい考えてきたのは、自分の命がいつまでもつのだろうかということだった。
ことあるごとに虚弱さを発揮して生きてきた。とても、自分の生命力を信じる気持ちは育たない。
よかったわ、と、エミリア。
せめてそれが、父に愛する人が現れたあとで、本当によかった。
グネルはきっと父を慰め、支えてくれる。優しい義兄もきっと力になってくれるだろう。
(……ニコラ、パールをよろしくね。あとのことはお父様に頼って。男爵領で暮らせるよう遺書に書いておいたからね)
(……お父様、グネルお母様……先立つ不孝をお許しください……)
(ああ、騎士になりたかったわ……! ……あとは……)
自分に関わる人々が走馬灯のように脳裏に浮かぶなか、エミリアは最後に頭に浮かんだ人物に、あーあ……と、ため息。……そこには元婚約者のドミニクやミンディはチラリとも浮かんでこなかったが、エミリアはそのことには気がつかなかった。
(……ああ……お義兄様に、好かれたかったなぁ……)
素敵なドラゴン顔の義兄。麗しいウロコに覆われた、彼女の新しい家族。
彼に、妹として認められなかったことが。『お義兄様』と呼ばせてももらえなかったことが、なんだかとっても心残りである。
(……ああ……遺書を書き換えておけばよかった! 死後は、ぜひ妹と呼んでくださいと……!)
そのことを考えると、口惜しさのあまり、思わず顔がすっぱいものを口にしたような顔に。
悔しくて、最後くらいいんじゃないかというやけくそな気持ちになったエミリアは、思わず大きく息を吸い込んだ。そして、今生で一番声が出たんじゃないかと思うくらいの大声でかの人を呼ぶ。
「──っお義兄様っっっ‼」
「っエミリア!」
「!?」
力いっぱい叫んだ瞬間、驚いたことに応じる声があった。
それが義兄のものであるような気がして、えっと目を開けようとした瞬間、身体にどすっと衝撃が。さらに驚いて目を見開くと、その視界に真っ赤な双眸が迫っていた。
その顔が、一瞬義兄グンナールのように見えてエミリアは息を呑む、が……。
「──ぇ……?」
「ケガはないか!?」
しかしよくよく見ると、その人物は義兄ではなかった。
悲痛な青白い顔に赤い瞳。頭には一対のツノ。……彼女がバルコニーから落ちた時、下にいた“恩人様”である。
エミリアは戸惑いを感じて呆然とする。なぜか今一瞬、自分が彼を義兄だと認識していた気がした。
(あれ……? なんで……あ、い、いえ、そうじゃなくて……。受け止めて、くださったの………………)
エミリアはそのことに気がついて、ホッとしながらも慌てた。直前の絶叫のせいか、上手く言葉が出なかった。
「こほっ……す、すみませ……わたしの不注意で……あ、ありがとうございま、す……?」
しかし立ち上がろうとしたがうまくいかなかった。恩人様が、深く深く息を吐きながら、エミリアを腕の中に閉じ込めたからである。大きな腕で包み込むように抱きしめられたエミリアは、目を白黒させた。
「……、……、……よかった……本当によかった……」
なぜか恩人様の声は震えていた。
「……は、い、あの……ありがとうございます……?」
なんだか思いがけないくらい深く安堵されて。エミリアはちょっと戸惑った。
それはまるで、とてもとても親愛を向ける相手にするようなものに感じられたのである。
あと、彼とは二度しか顔をあわせていないはずなのに、どうしてなのか抱きしめられてもぜんぜん嫌ではなかった。
(……不思議……わたし、そんなに誰にでも人懐っこいわけではないのに……?)
どちらかと言えば、親しい者以外には警戒心は強い方である。学園でのドミニクらとのいざこざ以降は特に。
(……もしかして、この方がグネルお母様たちと同じ竜人族だからかしら……)
エミリアは不思議そうに青年の顔を見上げる。
端正な顔を歪めた表情は、安堵と苦しさの狭間にいるようだった。それは泣きそうにすら見えた。
これにはエミリアは一瞬言葉を失くす。彼の心配する気持ちが痛いほどに伝わってきて、とてもとても申し訳なくなって。ひとまず疑問は横に置いて、彼女は自分を固く抱きしめている彼の背におずおずと手を回した。
「……申し訳ありません。ご心配をおかけしました。助けてくださって、ありがとうございます……」
感謝をこめてその広い背をなでさする。
エミリアには、彼が何故こんなにも心配してくれるのかがまだ分からなかった。でも、その姿を見て深く反省した。
自分の死は人より近いものだと、潔く、そして軽く受け止めてしまったが、それは間違いだったかもしれない。
それは、こんなにも人を悲しませうることなのだと。改めて突きつけられたような気分だったのである。




