エミリアの嫉妬 10 雄鶏の愚行
その光景を見て、ニコラは深々とため息をついた。
(ああ……お嬢様がまたやらかしている……)
男爵邸の裏庭。義兄の片方の膝に、ちょんっと少し遠慮がちにのせたエミリア。横向きになった顔は、大きな感動に満ちている。
しかし、勢い任せのその大胆な行動には、当然まわりは驚いている。
中でもグンナールの驚きは相当なものだったらしい。
瞳はこぼれそうなほどに見開いて、全身もぴしりと凍り付いている。どうしていいか分からないというように、宙で浮いたまま停止した腕。ややのけぞった背もギシリと音がしそうなほどに硬直。
表情も呆然としたまま微動だにしないところを見ると、多分あれは、頭が真っ白になっているのだろう。ニコラはどうにもグンナールに申し訳ない。
(もっと……兄妹というものについて、お嬢様にきちんとお勉強させておくべきだった……)
おそらく世の中には、膝枕をしあうような仲のいい兄妹もいるだろうが……少なくとも、出会って今日の今日の義理の兄妹がやることではないはず。
エミリアとグンナールが仲良くなればいいと願っているニコラも、さすがにこれはちょっと令嬢が先走りすぎている気がしてならない。
しかし、とはいえだ。エミリアの表情の輝きを見てしまうと、即座に止めるのもためらわれるのだ。
ミントグリーンの瞳はいっそう明るくなり、青白かった頬も額も興奮できれいなピンク色に染まった。
虚弱で年中顔色が優れない彼女がこんなに血色がいい日はそうそうないのである。
現状が惜しいニコラは、考えた。
(……でもな……お嬢様は、旦那様の新しい奥様にご子息がいらっしゃるなんて知らなかったし、予習できっこなかったもの。……ある意味これは、旦那様のせいだわね)
どうやら彼女は、とりあえず、この状況は男爵のせいだということで片付けることにしたらしい。
うん、責任は男爵様に取ってもらおう。もしグンナール坊ちゃんが怒ってしまったら、男爵伝手にグネルにとりなしてもらえばなんとかなるだろう、と、いうことで。
ニコラは安心して令嬢の奇行を見守ることにした。
(それにしても……お嬢様、すっごく幸せそうねぇ)
ズレているなぁとは思うものの、先ほどまで泣いていたエミリアが、ああして幸せそうな顔をしていると、ニコラはとてもホッとする。
やはり病は気から。精神が暗くなれば、身体も弱りやすくなる。特に、エミリアのような体質のものにとってそれは死活問題である。
グンナールには悪いが、この無礼は、少し多目に見てもらえないだろうかとニコラは祈るような気持ちでエミリアの新しい義兄を見つめ──と。
「あ」
そんなヒヨコ顔の婦人の目に、ふと、二人のそばをコッコとうろつく小さな影が飛び込んでくる。
とたん、ニコラの眉間にグッとしわが寄った。
「コッコッコ……(チカラのショウチョウ! チッカラのショウチョウ!)」
「………………」
せかせかと、どこかものほしそうな顔で二人の周りを歩き回っている雄鶏。
どうやら彼は、あろうことかグンナールが凍り付いて動けない隙に、彼の腕に輝く“力の象徴”──か、どうかは、パールが勝手に言い張っていたことだが。とにかくそのウロコをはぎ取ろうとしているらしい。
なんとまぁ大胆なことだろうか。
ただのニワトリがやることとはいえ、竜人族の青年の腕に向かって何度も何度もバサバサ跳び上がっている姿を見たニコラは、呆れ果ててしまって言葉もない。彼女は慌ててパールに向かって駆け寄った。
「(やめなさいおバカ!)」
「コケ!?」
白い羽毛に包まれた身を、問答無用でガシリとわしづかむと、パールは不満そうな鳴き声。が、ニコラはしったことではないと彼を睨む。
「コケェ!?(ナニヲスル!?)」
「(おだまり! 暴れないで!)」
「コケ、コケケェェエ!(オレノ、ウロコォッ!)」
「(うるさい! 何が、オレノ、よ! 寝床に放り込んでやる! あんたはミミズでもつついてなさい!)」
「コケ!?(!? ミミズ!? ドコダ!?)」※好物
……こうしてパールは、ニコラによって裏庭から強制退場させられた。
ニコラが慌ただしくパールを連れ去ったあとも、エミリアは嬉しそうにグンナールの膝のうえ。
どうやら喜びのあまり感動が胸に迫り、今はその想いを噛み締めるフェーズのようである。
両目を閉じて、両手を祈るように組み合わせ、ジーンと身震いする顔は額までもが真っ赤で、分かりやすく彼女の静かなる興奮を伝えてくる。
グンナールは、そんな彼女が可愛くて仕方がなかった。
……しかし。そんな青年の、すっかり魂をつかまれたような表情を見て、顔色を変えた者らがあった。
女中のイドナとマチルダである。
(……な、なにあれ……)
(…………)
二人はムッとした顔でグンナールの表情をつぶさに観察する。
竜人態の彼の表情は、種族の違いもあって、彼女たちにとってはとても分かりにくいものであったが……しかし、エミリアが現れたことで、それはとても分かりやすいものへと変化した。
先ほどまでの彼は、イドナたちに迫られても反応は薄かった。
マチルダに興味を示したかに思えた時ですら、その表情は冷静で平坦。でもまあ、最初のアプローチなのだから、こんなものか、と、マチルダは思っていた、の、だが……。
しかし今、義理の妹を膝にのせた彼の動揺はあからさま。
はじめはエミリアの言動に驚き、固まり、けれどもそれはしだいにぎこちなく和らいでいって、彼の瞳は今や令嬢を甘く見つめる。
おそらくだが、その表情の変化に彼自身は気がついていない。
これが、マチルダたちは気に入らない。
だって、それは自分たちが欲しかった視線なのだ。
いや、それは義理の妹に向けるもの。きっと親愛の情であり、恋情ではないはず……とは思うものの。
彼は、さきほど彼女たちがさりげなく腕に触れた時だって、二人が期待したような反応は何も見せてくれなかった。
それなのに、今、たかが“義理の妹”の頭を膝に乗せたくらいで、彼は露骨に絆されている。
それは、彼の自分たちに対する態度と比較すれば違いがよくわかった。
彼の目はずっとエミリアに向けられていて、自分たちの存在などすっかり忘れてしまっているよう。これは、二人のプライドに大いに障った。
こうなってくると、自分たちの獲物の膝で無邪気にふるまう娘のことも当然気にくわない。
相手が主家の娘だということは理解していたが、エミリアはやせっぽっちで不健康で、年齢よりもかなり幼く見える。
身分はともかくとして、女性としての成熟具合は自分たちのほうが絶対に上だという意識が二人にはあって。それなのに、そんな自分たちをさしおいて、エミリアが青年の視線を独占することはなんだかとても気分が悪い。
特に、先ほどグンナールの関心が自分に向いたと感じていたマチルダの苛立ちは強く、その瞳の奥には敵意の炎がちらついていた。
しかし、間近でそのような火種が爆ぜはじめたなんてことは──つゆしらず。
(…………これは、なんという素晴らしき体験でしょう……)
エミリアは、いまだグンナールの膝枕への感動に酔いしれている。




