男爵領クロクストゥルム 2
「……ごめんなさい……ちょっと……もう限界かも……」
そう言って、うなだれ口もとを押さえるエミリアの顔は真っ白。
まるでみぞおちあたりが焼けるよう。今にもそこを突き破って何かが飛び出てきそうなほどの気持ち悪さに、もう、一歩たりとも動けそうになかった。
(……グロッキーだわ……)
そもそも、ここにたどり着くまでにも、渓谷の川沿いの道をくねくねと進まねばならなかった。
毎度のことだが、そのくねり具合が、いい感じに三半規管にきた。
ここまでは、なんとか父を想って我慢したが、もう喉にせり上がってくるものを耐えらそうになかった。
エミリアは、激しく懺悔する。
「っ申し訳ありませんお父様……わたしの軟弱さを、お許しくださ──! う……っ」※出そう。
「お、お嬢様、吐きそうなときに叫ばないで! す、すぐお邸に……」
と、馬車を飛び出ていこうとしたニコラを、エミリアは半ベソ状態で必死で止める。
「⁉ な、なんですかお嬢様⁉ 無理しないで!?」
青い顔で自分にすがりつく娘に、ニコラのヒヨコ顔がギョッとする。
「だ、だめよニコラ! こんな……こんな吐きそうな顔で、継母様にお会いするなんて絶対駄目! 第一印象がさいあ、く……」
「そんなこと言っている場合ですか⁉ もう出そうじゃないですか⁉」
「わたし、継母様にはぜったい気に入られたいのっ! だ、だってもし『こんな面倒そうなコブ付きなの⁉』とかお父様が思われたらどうする!? そんなことになったら、わたしもう生きてけないわ! お、おねがいだがら、いかないでぇええっ!」
「⁉ ⁉」
絶望の面持ちのエミリアに必死ですがられたニコラは、結局折れざるを得なかった。
……正直、このやりとりのせいでエミリアの症状は悪化した気もするが……。
町の入口から男爵邸までには、少なく見積もっても三十分は掛かる。この青い顔の令嬢を気遣って進めば、もっと時間はかかるだろう。
ニコラはやれやれとため息。
「仕方ありませんね……本日はもうこちらで宿屋を手配しましょう。ご実家には人をやって連絡しておきます」
「ぅう……」
「わたしは町でお医者様を探してきますから、パールと大人しくしておいてくださいまし!」
宿屋の客室にエミリアを運び入れると、ニコラはそう言って夕暮れの町へ慌ただしく出ていった。
残されたエミリアは、寝台の上でしばし吐き気に呻いていたが、横になっていると、そのうち起き上がれるほどには身体が楽になってきた。
そうすると、気になるのはやはり父のこと。
見上げると、寝台脇には窓。透明なガラス越しの丘の上に、彼女の父が住む男爵邸が見えた。
エミリアは、闇の中、遠くにともるその灯りに恋しげな顔。
「……もう少しだったのに……」
父が自分を心配して待っているのではないかと思うと、体調が悪いことも手伝って、つい落胆が深くなる。
自分はどうしてこう体力がないのだろうか。
このめでたい時に、こうして軟弱さで水を差し、怪我をした父に心配をかける自分がなんとも情けなかった。
(……もしかして……こんなわたし、戻ってこないほうがよかったのかしら……)
気持ちが落ち込んだせいか、学園での出来事が思い出されて、よけい気持ちが暗くなる。
あの出来事は、彼女の中に育っていた自信をごっそりえぐっていった。
しかし、エミリアはハッとして首を振る。
「……いいえ……違うわ。あんな人たちの言葉に惑わされては駄目。今問題なのは、わたしの体力のなさよ……」
エミリアは脳裏に浮かんだドミニクたちの顔を振り払う。
「お父様に心配をかけないためにも、わたしはもっと丈夫にならなくては……」
何か方法はないだろうかと考えて、しかし吐き気もあって頭が煮詰まってきたエミリアは、猛烈に外の空気が吸いたくなった。
胸は焼けるようだが、クロクストゥルムは自然豊かな町。空気もきれいで、景色もいい。きっと窓を開ければ気分もよくなるだろうと。
エミリアはよろよろと寝台の上に身を起こし、客室の中を見渡す。
すると、扉近くに置いてあるカゴの中で、雄鶏のパールがスヤスヤと眠っている。
(あれなら窓から飛び出したりはしないわね……)
にぎやかでかわいいパール。彼にとってはこのクロクストゥルムは見知らぬ土地も同然。迷子にさせるわけにはいかない。
背中の羽毛に頭を入れてしっかり眠る姿を確認したエミリアは、そっと窓枠を押した。
途端、すっと風が吹いてきて。その緩やかな流れは優しくエミリアの髪をなでていく。
エミリアはホッとして深呼吸。
ほんの少しひんやりとした風は、胸の中でのたうち回るような吐き気をやわらげてくれた。
エミリアは、疲れた身体を窓枠に預けて夜の町を眺める。
眼下には明るくにぎやかな大通り。
ここはこの町で一番栄えている通りとあって、宿屋や飲食店、酒場が立ち並ぶ。
陽が落ちたばかりの往来には、この時間を楽しむ領民たちが大勢行き来していた。
そんな人の流れを、なんとなしに眺めていると、すこし気分が楽になる。
ここでは、新領主の娘の彼女のことを、ほとんどの人が知らない。
学園で起こった出来事のことも誰も知らず、誰もエミリアの悪評なんか知りやしないのだ。そのことには、少しなぐさめられた。
負けん気で踏ん張っていても、本当はエミリアだってあんな敵意ばかりの場所で嬉しいはずがない。
父のように、立派に国を支える存在になりたいと目標を掲げて入学した学園が、今や彼女にとっては苦しい場所と化した。
(……どうしたらいいのかしらね……)
エミリアは、ここにきてやっとあの出来事について冷静に考える余裕が生まれた。
これまでは、悲しさと悔しさのあまり考えたくもなくて、勉強に必死で取り組むことでそれを振り払ってきた。
もちろん今でもドミニクやミンディの顔を思い出すだけで苦しいが、彼らから遠く離れたことで、ほんの少しだけ受け止める余力ができたらしい。
エミリアは、空に向けてため息をひとつ。学園に戻ったあとのことを考えはじめて……。
(……そうだわ……誰か、すごく優秀な師匠をお迎えするというのはどうかしら……?)
と、その時だった。
エミリアが頭の中に、屈強な戦士を思い浮かべた時。ふいに、見下ろしていた雑踏の中から高い悲鳴が上がる。
怯えたような声音に思考が割られたエミリアは、瞳を瞬く。
とっさに悲鳴が聞こえたほうへ視線をやると。通りの中に、人々の流れが滞留している場所があるのが見えた。
「? 何……?」
人が多くてよくわからないが、彼らは何かに怯えているようだった。
人々は何かを避けるように後退り、雑踏の中にぽっかり大きな穴があく。そして、その中で、悲鳴の主らしき小さな影が泣きじゃくっている。
「!」
……その光景を目にした瞬間、エミリアの胸が突かれるように痛んだ。
脳裏には、つい先日学園のダンスホールで、大勢に取り囲まれた記憶が蘇ってくる。
大きな男たちに、閉じ込められるようにして敵意を向けられた恐怖は、彼女の身にしっかり刻み込まれていた。そこで味わった苦痛を思い出したエミリアは、思わず喘ぎ、とっさに手が窓を閉めていた。
そして、彼女の足は、いつの間にか寝台を飛び降りていた。




