破邪 3
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日が沈んで少しして、庭の裸の梨の木の近くに人影が現れた。
寝たふりをしていた綾女は、部屋からそっと抜け出して庭に降りる。
梨の木の幹に寄り掛かるようにして、銀色の髪の男が立っていた。なまじ顔が整っているからか、それとも人外の輝きを放っているからか、そこだけ違う世界にでもなったようだった。
「その姿で内裏の中にいて大丈夫なの?」
近づきながら問いかければ、紫苑がふっと緋色の瞳を細めて笑う。
「夜の内裏は静かなものだよ。特に今はね。誰も出歩かないから、気づく人もいないよ」
帝の不調を理由に、内裏に入る人を制限しているらしい。
もともと参内が許されていなければ入れない場所ではあるが、許されている人であっても左大臣の権限で止めているのだそうだ。
「それで、何か話があるんでしょう?」
「話がなければ妻に会いに来てはいけない?」
茶化すように言われて、ムッとする。
今は冗談に付き合ってあげられる気分じゃなかった。昼のあれが気になって仕方がないのだ。
「ふざけないで! 昼の件よ! 誤魔化そうったってそうはいかないんだから」
帝が目を覚ましてくれたのは嬉しかったが、それだけで片付けられる問題ではなかった。明らかに、綾女の体に不思議なことが起きたからだ。
梨の木に寄り掛かっていた紫苑が、綾女の手を引いて階へ向かう。階の下段に腰を下ろして、なんとなく梨の木へ視線を向けていれば、紫苑がぱちりと指を鳴らした。
「わっ」
綾女は驚きのあまりつい大きな声を上げてしまった。
慌てて両手で口を押さえて背後を振り返る。命婦が起きてくるかもしれないと思ったのだ。
別に綾女は不貞を犯しているわけではないし、ただ会いに来た夫と話しているだけだ。だけど場所が内裏だからだろうか、なにかいけないことをしている気になる。
背後で物音がしないのを確かめてから、綾女はほっと息を吐き出して、改めて目の前の梨の木を見やった。
枯れ葉一枚すらなかった梨の木に、白い花が咲いていた。それも満開だ。どう考えても紫苑の仕業である。
「ちょっと、こんなことをしたら騒ぎになるわよ」
「大丈夫、ただの幻影だから、数刻もすれば消えるよ。せっかくの妻との逢瀬だ。少しくらい雰囲気があってもいいだろう?」
「それなら……いい、のかしら?」
妻との逢瀬と言われると、どうしようもなく照れてしまって、綾女はわけもわからず視線を彷徨わせる。
誰も見ていないならいいような、けれども内裏の中で勝手なことをして悪いような、曖昧な罪悪感が胸の中を占めた。
ついでに、胸がざわざわする。いや、どきどきだろうか。これもよくわからない。
胸の中が落ち着かないと同時に、目の前の梨の木はとても美しくて、ひどく懐かしく感じる。
幼い頃、父に抱っこしてもらって、それでも手が届かない花に必死に手を伸ばした。
花に触れられなくて拗ねたら、父が花を一輪だけ手折ってくれて、小さな手の上に乗せてくれたのを覚えている。
(階に座って、お父様とお団子を食べて……)
たまに、父が琵琶を奏でてくれた。
その音色を思い出していると、ふと、頭の隅に何かが引っかかった。
確か、父が琵琶を奏でていたときに、あの梨の木の影に誰かが――
「綾女、ほら、団子だ」
紫苑がどこかから団子の包みを取り出して綾女に渡してくれる。
包みを開ければ、淡い黄色の団子があった。
そう、支子で染められた団子だ。
父は淡く色がついたこの団子が好きでよく食べていた。
父が好きだから自然と綾女も口にする機会が多くなって、でも、父がいなくなってから、白い団子しか口にしていなかった。
この黄色い団子を、いつだったか――誰かが、珍しいと笑った気がする。
あれはどこの、誰だったのか……。
「綾女、昼の話だったね」
思考に沈みそうになった綾女を、紫苑が現実に引き戻す。
(そうだったわ。昼のあの、よくわからない熱の話……)
梨の花を見たせいか、過去に戻ったような錯覚を覚えて頭がちょっとだけぼーっとする。
それを振り払うように首を振って、綾女は梨の木から紫苑に視線を移した。
「兄様の手を握った時に、すごく体が熱くなったの。火傷しそうなくらいに。あれは何だったの?」
「それについては、仮説の話になるんだ。晴明が生きていれば確証が持てたけど、俺ではそちらの話はよくわからなくてね。だけど、おそらくだが、綾女は破邪の力を持っているのかもしれない」
「破邪って?」
「呪いや祟りなどを消し去ってしまう力だよ。妖を見ることができる人間に稀に現れる力だが、本当に百年に一度いるかいないかという稀有な力だ。陰陽師や法師たちは、その力を持っていないがゆえに術を習得し同等の力を得ようとする。晴明はそれを持っていたがゆえに天才と言われた」
「ええっと、呪いや祟りを消し去る力?」
(それを、わたしが持っている?)
そんなことを言われても、綾女にはピンとこない。
百年に一度あるかないかとか、稀有な力とか言われたところで、自分にそんな大それた力があるなんて信じられなかった。
そもそも今日まで無自覚だったのだ。
まあ、呪いや祟りと遭遇する機会なんて滅多にないから、力が顕現することがなかったのかもしれないと言われればそれまでだが。
綾女は自分の手のひらを見つめた。
いつもと変わらない自分の手。
ここに、特別な力があると言われても、やはり信じがたい。
「つまり、わたしが手を握ったから兄様は目を覚ましてくださったの?」
「そういうことだね。綾女が、帝の体を蝕んでいた祟りの影響を吸い取って消し去った。体が熱くなったのはそのためだろう。残念ながらすべて消し去ることはできなかったし、そんなことをすれば綾女の体への負担も大きい。だけど綾女のおかげで、帝はしばらくの間は起きていられるはずだ」
「しばらくってどのくらい?」
「さて、数日か一週間か……、目を覚ましてはすぐに意識を失っていたこれまでに比べると雲泥の差だよ」
そうかもしれないけれど、その程度ならよかったと手放しで喜べなかった。数日もすれば帝はまた眠りにつくということだ。
「わたしが定期的に兄様の手を握っていたら、ずっと起きていられる?」
「それはだめだ。言っただろう、綾女の体に負担が大きいと」
「でも、わたしより帝である兄様のほうが大切でしょう?」
「俺にとっては綾女のほうが大切だ」
「……それは、とっても不敬だわ」
だけど、紫苑に帝よりも大切だと言われると、どうしてか胸がぽかぽかする。
でも、わからない。
綾女が鬼の嫁になることは、幼いころに決まっていた。
父が約束したからだ。
しかし、紫苑と綾女が出会ったのはつい最近で、それまでは顔も知らなかった。
綿星を通して綾女のことを訊いていたのかもしれないけれど、ただそれだけで、綾女が大切だと思えるだろうか。
どうして紫苑は、綾女を大切に扱ってくれるのだろう。
ただの昔の約束だけでは理由にならない気がした。
「ねえ紫苑、どうしてあなたは、わたしを大切と言うのかしら」
ただ、天照大神の血を引く妖を見ることができる娘が欲しかったのならば、ここまで大切にする意味もないだろう。
綾女の心を慮り、夫婦と言いながら本当に夫婦になるのを待ってくれている。
彼の優しさが、日に日に胸の奥深くに沁み込んでいくからこそ、綾女は不安だった。
このままだと、抜け出せなくなる。
綾女も、紫苑のことが大切だと、そう思いはじめるのは時間の問題な気がした。
大切なものを作るのは怖い。
だけどそれ以上に、理由もわからずに大切にされるのも怖い。
理由がわからないからこそ、いつか、あっさりと綾女の側からいなくなるのではないかと思えて、とてもとても怖いのだ。
紫苑は答えず、団子を一つ摘まんで綾女の口元に近づけた。
誤魔化されたようでむっとしたけれど、口元にぴたりとくっつけられれば口を開けるしかない。
もぐもぐとほんのりと甘い団子を咀嚼しながら紫苑を軽く睨めば、優しい顔で微笑まれた。
「そのうち、わかるよ」
――そのうち、ね。
ふと、紫苑の声に、ずっと昔に聞いたような誰かの声が重なった気がした。
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