雨の日の――逃亡劇?(過去)
突然聞こえた金切り声に、私は思わず馬車の窓を覗こうと動く。しかし、その前に馬車が一度大きく揺れた。
「きゃあっ?!」
侍女が悲鳴を上げる。中途半端な体勢でいた私は、声を上げる暇もなく座席から転がり落ちる。
「えっ、えっ、何?!何が起こってるの?!」
上半身だけ身を起こした私を囲むように、侍女の二人はしゃがんだ。まるで何かから守るように。馬車は止まってしまった。
とても、嫌な予感がした。
ばしゃばしゃと激しく水が跳ねる音がする。土砂降りの雨の中から怒声が聞こえた。
侍女に抱き締められながら、外の物々しさに私は何かが起こっているのだろうと口を閉ざす。
「おいっ!おい!!出ろ!!」
護衛騎士が使わない、荒々しい言葉と共に馬車の扉がガタガタと揺れる。内側から鍵を閉めているので、外からは開けられない。
力任せに開けようとしているらしく、錠を壊そうと剣で扉を刺すような音と共に馬車に衝撃が響く。
「アリサ様?!」
外から侍女の甲高い悲鳴が聞こえる。
護衛騎士達はあんなに居たのにどうなったの?と手が震えた。
けれど、怒声と共に馬車の揺れがおさまったり、また揺れたりしているので、全滅している訳ではないらしい。馬車に直接危害を加えられている訳だから、おそらく護衛騎士達の中には無事でない人もいるはずだ。
もう一度大きく馬車が揺れた。
馬車の片側の扉が大きく軋み、歪む。幸いにも誰かが入れるようでは無かったが、ボタボタと歪んだ扉の隙間から水滴が滴り落ちてくる。
きっとここが壊れるのも時間の問題。
「お逃げ下さい。アリサ様」
侍女の一人が反対側の扉の鍵を開ける。挟み込まれるよりは、と思ったのだろう。
私はその指示に従って、侍女に連れ出された。開いた扉の方には、後ろの馬車で着いてきたはずの侍女達が濡れ鼠になりながら固まっていた。
馬車から降りたのか、馬車が壊されたのか。
馬車から降りた途端、足元が泥だらけになる。大粒の水滴が頭を濡らす。それはこめかみを伝って、頬に滑り落ちた。
「こちらです」
侍女に手を引かれて走り出す。
向かう先は薄暗い森の中。天候も相まって、一層不気味に見える。
「み、みんなは?おじ様は?」
侍女達が私を取り囲むように走る。私の手を引いていた侍女は、息を弾ませながら私を見下ろした。
「アリサ様の馬車と私達侍女の乗っている馬車のみ、強襲に合いました。馬車が持ちそうに無かったので、潰れる前に脱出した次第でございます。……国王陛下御一行は、その……」
言い淀んだ侍女からなんとなく察した。彼女が続けようとした言葉の続きを口にする。
「……先に、行ったのね?」
「…………は、い」
侍女の声が弱まっていた。
彼女だって置いて行かれた一人だった。
国王陛下は王国で一番偉い人。
その人に害が及ばないように、護衛騎士が動くのは当たり前。だから、私の馬車に残された護衛騎士は少なかったのだろう。
「全員で、無事に逃げ延びよう」
自己を奮い立たせる為の呟きだった。侍女達も自分自身の危機が迫っているのに、主である私の事を優先してくれている。
私が逃げ延びる事は、侍女達が逃げ延びる事にも繋がるから。
侍女達は私の呟きを雨の中でも拾ってくれた。私達にはまだ希望があった。それが具体的なものでなくても、起こっている非日常的な現在が続く方が想像出来なかった。
強襲してきた犯人の顔すら知らない。
ただ、森の中を走り続けるだけ。何度も何度も木の根っこに足を取られた。ドレスの裾を踏んで転びそうになった。
ある程度走り続けた後、漸く私達は止まった。
強襲してきた犯人達が一向に追い掛けてくる様子を見せない。きっと護衛騎士達が食い止めてくれたのだろうと。
上がった息が苦しかった。
額にも頬にも、雨か汗か分からない雫が伝って落ちる。みんな泥だらけ。
私も完全にもう追ってこないと思って深々と息を吐く。自分の姿を見下ろすと、侍女と大差ない程に汚れていた。
ドレスはずぶ濡れ。裾の方のレースは泥が沢山跳ねている。何度も踏んだからか、破れている箇所もあった。ドレスはもうダメかもしれないと少し残念な気持ちになる。
立ち止まって一息つくと、足が鈍い痛みを訴えている。そこまで高くないけれど、ヒールの靴を履いていた。
何度も転んでいたせいか、足を痛めてしまったのだろう。少しドレスを持ち上げて、足を見る。
擦りむけて血が滲んでいたり、赤く腫れている箇所があった。
侍女の中に治癒魔法を使える人はいない。でも、護衛騎士の中に使える人はいたはずなので、ドレスから手を離して大人しく待つことにする。
目先の脅威が過ぎ去ったお陰で、その場の空気は緩んでいた。侍女達も怖かったのだろう。安堵の笑みを浮かべている人すらいた。
依然、雨は降り止む気配を見せない。
木陰はまだ雨を凌げるので、何人かに別れて木陰に入って一息つく。私同様に足を痛めたらしい、何人かの侍女が座り込んでいた。私も身体が重くて、泥だらけなるのも構わずに地面に座る。
このまま自国の騎士達の迎えを待つだけ。
待つだけ、そう思っていた。
男の人の微かな声が聞こえる。でも雨に混じって何と言っているのか分からない。きっと相手もかなり声を張り上げているのだろう。
私の傍にいた侍女が、助けが来たと思ったらしい。声を上げようと口を開けたのを、私は咄嗟に塞ぐ。
周りの侍女が私の反応に訝しげな様子を見せたのを感じる。でも、私の背筋は凍りついた。
――どこに……くそ!!
荒々しい口調。いや、心情か。
護衛騎士らしくない物言いに、嫌な予感がひたひたと私を襲う。走って上がった体温が、一気に冷えていく。
――どこに行った?!あのクソガキ!!
はっきりとその想いが届いた時、私は弾かれるように立ち上がった。
「み、味方じゃないっ!」
吐き捨てるように周りの侍女に告げると、隣の侍女の手を引っ張って再び駆け出す。ヘロヘロになった身体に鞭を打ちながら、方角も分からずにひたすら足を動かす。
遠くの方から雨に紛れて、声が聞こえる。
知らない男の人達の激しい、怒声。
それが段々と大きくなっていく。激しい雨の音が遮らないくらいの近く。
私の周りにいた女の人がガタガタ震えている。必死に声を漏らさないように、口元を手で覆っている人もいた。ほとんど泣いている侍女もいる。
雨音に祈った。唯一の救いだった。私達の音を消して欲しいと。
見つかっては駄目。
見つかったら終わってしまう。私の貴族令嬢としての全てが。例え無事だとしても名前が穢れてしまう。
すぐ後ろで男の人の声が聞こえる。
一人。悲鳴が上がった。
思わず後ろを振り返ろうとした。それでも今まで手を引いていた侍女に、逆に手を引かれて叶わなかった。
また一人。絹を裂くような悲鳴が上がる。
繋いでいた手に力が込められる。きっと見るな、という事。
声が聞こえる。心が聞こえる。
私の近くを走ってくれていた彼女達がどんどん犠牲になっていく。
とうとう私の手を引いていた侍女が、私から手を離した。
「……お逃げ下さい。はやく!!」
強い口調と共に背中を押された。転びそうになりながら、私は足を動かし続ける。
後ろは振り向けなかった。
悔しくて、辛くて、怖くて。
頬を流れる熱いものは、雨粒なんかじゃなかった。
足元がぬかるみに囚われて、バランスを崩す。
慌てて手を近くの木の幹について、転ぶのを回避した。息が熱い。喉が焼け付くようだった。
けれど、男の人の手がすっぽりと私の手を覆い隠す。すぐ傍から知らない人の息遣いが聞こえたと思った瞬間、地面に転ばされていた。
見上げると全く知らない男。浮浪者のような格好をしているが、妙に清潔感のある男だった。
その姿を見た途端、私は自分の終わりを悟った。
名前を穢されてしまう前に急いで死ななければ。
死ななければいけない。はやく。
手遅れにならないうちに。
急いで死ななければ。
どんな方法を使っても。
剣は近くにない。毒もない。
男は私の顔を見て、ニヤリと達成感のある笑みを浮かべた。
「依頼の姿絵と同じ顔だな。お前がアリサ・セシリア・マンテュサーリか」
依頼?と疑問に思う隙もなかった。男が持っていた短剣を振り上げる。
「仕事なんでね。恨むな――っ?!」
軽薄さすら感じられる男の言葉は、最後まで紡がれる事はなかった。男の手の短剣がいきなり弾き飛んだ。
男も予想外だったらしく、私から距離をとった。
険しい顔で周囲を見渡しながら、男はジリジリと距離を詰めてくる。私は上体を起こして後ずさりをした。
腰がもう完全に抜けていた。膝が笑っている。
叩き付けるような雨の中、一本の光の矢が私の後ろから通り抜ける。
それは的確に男の胸に吸い込まれるようにして刺さった。矢の勢いがあったのか、男はそのまま飛ばされていく。
「大丈夫か?!」
いつの間に近付いていたのか。
立派な軍馬に乗った少年が、弓を片手に薄暗い森の中から姿を現した。




