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2-06 花冠物語

 劇団にはふたりの看板役者がいる。

 天真爛漫な御令嬢。誰からも、演劇の神からも愛された、演劇のために生まれたこの世の奇跡。

 灰かぶりの御人形。貧しい出自も、心無い誹謗も中傷も、彼女の美貌と技量を隠せなどしない。

 けれどそんなふたりには、隠された本当の顔がある。

 身分を偽り、素性を隠し、一夜の夢に一生を懸けるふたりの天才を、運命がひとところに導いた。

 運命の名は、『花冠物語』。

 この国でかつて演じられた伝説の舞台である。

 心の中に、人生の答えがある。

 リーアには絶えず突き付けられる問い掛けがある。

 死んだ母から、暗い目をした妓楼の隣人から、道行く見知らぬ人間からさえも。

 ――人間でさえ娼婦の子は娼婦になる。では淫魔の子は?

 返す言葉はあの日から変わらない。

 妓楼の屋根の上、劇を見た。公女様の十歳の誕生日に隣国からきた劇団。その日は奇しくもリーアにとっても十歳の誕生日で、あの日初めてリーアは贈り物というものを貰ったのだ。

 ――あたしは何にだってなれる。望むもの何にだって。



「だから、仕事なんてねえって言ってるだろ!」

 押しかけて来た小汚い少女に、ロレンスは声を潜めて怒鳴りつけた。

 こういう手合いはいくらでもくる。おまけに、未だに小僧扱いされるロレンスよりさらに一回り年若く見える少女は、あろうことか角と尻尾まで生えていた。

「どうしてよ! 才能ある役者は歓迎だって表に書いてあるじゃない!!」

 道具頭も兄貴分たちも居ない今、舞台裏はロレンスの領分だ。急用が重なったとはいえ、ようやくこの場を一人で任せてもらえたのだ。面倒事など起こされたらたまったものではない。

「そりゃ人間だったらの話だ! 才能以前の話なんだよ! 劇団に淫魔の仕事はなんてあるかよ!」

 すでに公演は始まっている。ロレンスら裏方は舞台に上がることこそないが、劇の最中はやるべきことなどごまんとある。

 着替える衣装、小道具や大道具の入れ替え、客に売る飲み物の確認と用意、それに、舞台袖で出番に備える役者の――、

 そこまで考えて、はたとロレンスは手を止める。

 このタイミングならもう舞台袖に居なければならないはずだ。

「おい、ラズーの婆さんはなにやってんだよ……」

 舞台から聞こえてくる台詞からして、出番まで幾許も無いはずだ。普段であればとっくに控えている時間だというのに。

 余計なことをするなと少女に言い付けて、ロレンスは舞台裏を駆け回る。見つけた老婆はうずくまったまま呻きを漏らし、震えながら脂汗をかいていて、ロレンスはその様子だけで事情を察した。

 老婆は腰を悪くしていて、たまにこういうことがあるのだ。だが、今日はいつに増して酷い。これでは舞台どころか立ち上がることもできるまい。

「なにがあったの?」

 振り返ると、先程の少女が立っていた。

「見りゃわかるだろ。役者の婆さんが腰をやっちまったんだよ」

「どういう役なの」

「主人公に追い払われる物乞いの老婆だよ! 端役だが、居なけりゃ話が成り立たない。くそっ! なんだってこんなときに……」

 お前には無理だ、と言外に伝えたつもりだった。

 止める間もなかった。少女は衣装の外套を手に取ると、少女は舞台に向けて駆けていく。

「馬鹿野郎! 止めろ! 舞台に出るなんて無茶だ!」

 その皴ひとつない手で、鈴のような喉で、どう老婆の役をこなそうというのか。

 追いかけるロレンスが舞台に続く角を曲がったとき、既に少女の姿はない。


 老婆がいた。

 ロレンスが舞台上の少女を視界に捉え直したとき、目に映ったのは薄汚れ擦り切れた布の塊でしかない。

 それでも老婆がいたのだ。その背が、歩幅が、歩く速さが、外套越しに辺りを窺う頭の動きが、その中身を知るはずの自分にさえ、老婆だとしか思えなかった。

 目の前でよろよろと裾を引きずる汚れた布の内側にいるのが老いさらばえ、痩せ衰えた老人であることを疑う観客が、いや、疑う役者さえ、ひとりもいるだろうか。

 手も差し出さず、台詞も発さず、顔すら見せぬまま、少女は言葉の体すら成さないくぐもった呻きひとつで、慈悲を求めて見せた。

 常と違う老婆の演技に呑まれ、主役が一息遅れて物乞いを蹴り飛ばす。

 はっきりと躊躇が見て取れた。自分は本当にこの老人を蹴り飛ばしてよいのかと、そう書いてあるような腰の抜けた蹴りは、けれど老婆を派手に転倒させ、客席が押し殺せない動揺でざわついた。

 死んだんじゃないの、と観客の怯えたような小さな呟きをロレンスの耳が捉えたとき、薄汚れた布の塊はようやく起き上がる。


 舞台袖で少女が外套を脱ぎ溌溂とした顔を見せたとき、ロレンスは彼女が内側から膨れ上がったような錯覚さえ覚えた。

「どう? 変じゃなかった?」

 何でもないように聞いてくる少女に上手く言葉を返せないまま、ロレンスは自分の見た光景を瞼の裏に繰り返す。

 今まで見たどんな役者より雄弁な、台詞も顔もない端役。

「ねえ。何とか言ってよ。《《あたし、劇をやるのは初めてなの。》》」

 とどめで耳に放り込まれたひと言で、ロレンスはへたりとその場に座り込む。

「…………お前に、才能があるのはわかった。でも、それでもやっぱり無理だ」

 鼻っ柱の強い少女から反論が束で飛んでくる前に、ロレンスは言葉を探す。できるだけ相手を傷つけない表現を探そうとして、諦めた。

「逃げて来たんだろ。どこかの娼館から」

 まさかばれていないとでも思っていたのか、少女が身体を固くする。

「どうして、それを……」

「お前を見れば誰でもそう思うさ。金を盗んだんでもなけりゃ追っ手なんて知れたもんだろうけどさ。人目から隠れて役者なんてできやしねえよ。素性がばれて、罪人を匿ったとなれば劇団はおしまいだ。だから今日おれは、何も見なかった」

 少女の顔が絶望に染まっていく。

 なんてわかりやすいやつだと思う。舞台の上に立つために生まれてきたのなら、こいつはどうして役者の子としてこの世に生を受けなかったのだろう。

「せめてお前が人間だったら、いくらでも誤魔化しようがあったんだ。変な疑いを掛けられずに済むし、もしばれても言い逃れができる」

「人間だったら、いいのね?」

 声にロレンスが顔を上げたとき、既に少女は踵を返していた。

「また来るわ!」

 お前まさか、と呟くロレンスに一声掛けると、通りの雑踏に少女は消えていく。

 消えない。一瞬だけ引き返してきて、捨て台詞を吐いていく。

「今のナシ! やっぱりあたしは来ないわ!!」



「――そんな顔しなくたって、金が払えるなら魔族にだって商売くらいするよ」

 とりあえずで声を掛けた果物屋のおかみさんは、事もなげにリーアの変装を見抜くと、可笑しそうにけらけら笑いだした。

「そりゃあ、まずその服が良くないよ。それから髪型も変さね。角と尻尾を隠してますって言ってるようなもんさ。ま、あんたの場合は顔に書いてるのが一番良くないけどさ。あーもう、そんなに落ち込まないどくれよ。ほら、これ食って良いからさ」

 見たことのない果実を差し出されて、リーアは少しためらって口を付ける。

 美味かった。

 夢中で嚙り付くリーアに、おかみさんはいいのいいのと急に増えだした客の相手をしながらおかわりまでくれた。

「……あんた、店先で美味そうに飯食う仕事とか興味ないかい?」

「あ、あたし。やらなきゃいけないことがあるので」

 おかみさんに礼を言って、リーアはまたあてもなく通りを歩きだす。

 服。どうやって手に入れればよいだろうか。

 当然そんな金はないし――、


「そこの貴女」

 路地裏から声が招いた。

 眼があってこちらに挨拶をするその人物を見たとき、リーアは人形だ、と思った。人形のようだ、ではない。路地裏に打ち捨てられた人形に声を掛けられたのだと。

「その服、わたくしのものと取り換えてくださらない?」

 お貴族様だ。

 今までついぞ高貴な身分の方なんてものを目にする機会はなかったけれど、その挨拶を一目見て理解した。

 そのお貴族様がどうしてこんな場所に居るのだろう。いや、それよりさっきの申し出だ。今の自分にはずいぶん都合の良い話だが、はたしてこんなに美味い話があるものか。

 恐る恐る、相手の顔を窺う。

 改めて見ても、ものすごくきれいな顔をしている。だが彼女を人形のようだと思った理由はそれだけではない。感情が抜け落ちたようなその表情からは、何を考えているのかさっぱり読み取れない。

「誓って貴女に迷惑はかけませんわ」


 減るものなどないと申し出を受けたが、ちょっと失敗したような気もする。

 どぶ川の水面に映る自分は、ひどくちぐはぐに見えた。

 自分がこれなら、高貴なお方が自分のお古など着れば、どんなおかしな生き物になっていることだろうか。

 なんとなく、怖いもの見たさで隣を見る。

 怖いものを見た。

 同じであるのは服だけのはずなのに、まるで鏡を見ている気分がした。

 先程の令嬢はどこに行ってしまったのだろう。

「……違うわね。体重の掛け方かしら?」

 その呟きに、そうか、とリーアは納得する。彼女はリーアの立ち方を真似しているのだ。

 ――服装には、相応しい振舞いがある。

「あの。さっきの挨拶、もう一度してもらってもいいですか」

 快諾してくれた彼女のその所作を、ひとつも余さぬよう、目に焼き付ける。

 背筋を釣り上げ、裾を摘まむ。全ての動きを意識の下に従属させる。これだ。これが上に立つ者の振舞いなのだ。

 ほんの一瞬遅れて真似た礼のタイミングは、顔を上げるときには、完全に一致していた。

「貴女、すごいのね」

「ええと、あたしは、あなたの方がすごいと思うけれど……」

 それから、劇団を探しているという彼女に、リーアは案内を買って出た。

「でも、どうして劇団に?」

 リーアの問いに、少女は並んで歩きながら答えた。何気なく発した質問に、少女は強く、強く感情を滲ませる。

「夢があるの。十歳の誕生日に劇を見て、それ以来一度も忘れたことがないわ。ねえ、知ってる?」


 知らぬはずもない。

 彼女の口から出たのは、あの日見た劇の題名。

――花冠物語。

 運命に導かれた、奴隷と王女の物語だ。

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