2-20 可変の壁画、空泳ぐ航海船にさよならを
日は登らず。月は欠けず。雲は晴れず。
だけど世界は、時を置き去りにして進みだした。
その先を、見えないモノにするために。
時間が空間に付随するようになり幾星霜。
朝、昼、夜を移動すること無く、ただ夜の街にて一日を過ごす者がいて、ただ朝の街にて一日を過ごす者がいる。
彼にとって、夜の街が世界の全貌だ。彼女にとって、朝の街が世界の理だ。
だけど、二人は見つけてしまった。
止まった世界にて唯一、その歩みを止めなかった未来の片鱗を。
六番街の行き止まり。そこに広がる可変の壁に描かれていたのは、空を泳ぐ逆さまの航海船。
二人はその場所と出会い、廃れていく絵と、それに触れる他人の存在を見つけた。
朝には彼女が言葉を残し、夜には彼が言葉を返した。
出会わないはずの二人が出会い、時を漂う壁と共に二人の世界は動き出す。
そして彼らは辿り着く。
世界が自らの時を止めざるを得なかった理由を。
「――あれが、例の」
「噂は本当だったという事だ」
「で、でも! 本当にこれが存在するという事は」
「所詮噂だろ。迷信だ」
「でも、実際に我々はその噂話に過ぎなかった物を、目の辺りにしているんですよ!」
「確かにそうだな」
「どうしましょう」
「どうもこうもあるか。我々の目的を忘れたか」
「た、確かにそうですけどぉ」
「作業に取り掛かるぞ。いつ、何が起こっても不思議じゃないからな」
「待ってくださいよ、ヴィクター教授」
そこには、男が二人いた。
一人は電柱のような身長に、細かいブロンド髪を背中に垂らす。
一人は口に禁煙用の飴を加えて、身の丈より長い白衣を地面に引きずる。
誰もいないことを除けば、何もかも普通に見える街に、異物であるその二人は目的に向かって躊躇いもなく進んでいく。目指すは街外れの一角、【夜】ソンブレム六番街にあると言われる噂の場所。
時間が空間に定着し、時間の流れはおろか時間という概念すら廃れ忘れ去られた時代に、時間が流動すると言われる回路。その先にあるとされる可変の壁画。
二人の男らは、強い日差しにその肌を焼きながら、身に染みるほど、時間が流れる場所がただの都市伝説ではないことを思い知った。【夜】ソンブレム六番街。書類上、夜と記録された場所に日差しが降りているのだから。
「それにしても暑いですね」
「夜であることを想定して厚着してきたんだ。噂の正体を確かめに来たものの、結局誰も噂なんて信じていなかったのさ」
「もう一つの噂は嘘だといいんですけど」
「世界の終わり、ってやつか。迷信であることを信じたいな。でも、もし本当にそんなことに」
「教授」
教授の言葉を、彼の頭上からする声が遮った。
呆然。カサンドラ助手の表情が停止する。それに気がついた教授は、助手の指差す方向へと、ゆっくりと視線を向け、二人は目にした。
噂に聞いた通りの、色褪せ、瓦解し、多くの言葉を残した――
「空泳ぐ、逆さまの航海船」
可変の壁画を。
◇
「時間が動く通路だぁ?」
【夜】ソンブレム九番街。大勢の人が安酒を水のごとく飲み干す酒屋「マトーグ」。カウンター席に腰を下ろし、片手に顔ほどの大きさのジョッキを持ち、店内に響き渡るほどの声量で叫ぶ大男の姿があった。
「まだ一杯目だぞ、そういう冗談はもう少し酔ってから言わねぇと面白味もないだろ」
その傍らには、両手で耳を塞ぎ鼓膜を守る小柄な男の姿もあった。
「冗談じゃない。本当にあったんだ」
「馬鹿いえ。時間なんて言葉すら久しぶりに聞いたってのに」
「まぁ信じてもらえないのも無理はないか」
「簡単に信じられるか。じっちゃんのじっちゃんの時代からこんな生活をしているっつうのに、今更そんな事言われても面白くもなんともないわ。そうは思わんか、マスター」
カウンターの反対側にて他の客にドリンクを注いでいたバーテンダーは、大男の声を聞いて片手間に器具を片付けながら近寄ってくる。鋭く地面を叩く音が一定のリズムを刻み、それが止まる頃には二人の男たちの前に立って彼らを見下ろしていた。
「ハイドリヒさん。うるさいです」
「悪かったって。でもさ、信じられないだろ! 時間が動くってよぉ」
「もう少しは反省した姿勢を見せてください」
大男、ハイドリヒの性格をバーテンダーが知らないわけじゃない。大雑把で大げさで、とりあえず大がつくものは彼に当て嵌まるといって差し支えない程の男。今更注意したところで、所詮変わらないことくらいはバーテンダーも分かってはいるが、面目上注意はしなければならない立場にいる。
呆れ顔で大きくため息を吐いたバーテンダー、クリュは顔を上げると小柄の男の方へを視線を向けた。
「時間が動く通路、でしたか?」
「そうなんだ。その奥には行き止まりでさ、その先の壁には大きな絵が描いてあるんだ。こう、逆さまの船が空を泳ぐ絵がさ」
「まずですよ、ラグさん。本当に時間が動いているとして、それをどうやって確認したんですか?」
「どうやってって、それは」
「そうだ、おまえ。夜の街から一歩も出ないお前が、時間が動いて朝になったり昼になったりする場所に行って、確認したっていうのか? 日差しが苦手なお前が?」
小柄の男、ラングイン、通称ラグ。
彼は、世間一般で謂う所の、一つの時間街にのみ滞在する、異残り物である。
「それは、ちょうど、朝に変わる時に、こう、出来るだけ遠くから、朝日が漏れるのを、確認しただけだけど」
「誰かがライトを使って街を照らしていた可能性は?」
「否定は、出来ない」
「夜の街になって引きこもっているからこうなるんだ! お前もいい加減外に出ろ! 朝の街も昼の街もいいぞぉ!」
「いやだよ、それは。明るいし、暑いし、眩しくて目開けられないし。あとなんか、明るい所で人と会いたくない」
「相変わらずひねくれていますね」
「言わないでくれ、自分でも知っているから」
ため息を吐きながら、肺が空になった分、アルコールを喉に流し込む。
「いい飲みっぷりじゃねぇか! クリュ、こいつに同じやつをもう一杯」
「あまり飲みすぎないでくださいね」
と注意を促しながらも、金を受け取るとクリュは二人に背を向けて棚にある瓶に手を伸ばしていた。
「奢ってくれるのか?」
「奢るか馬鹿者! 『異残り物に飯は与えぬな』と謂うだろ」
「比喩だろぉ、それは」
「がはは! そうだったな!」
またしても大声で笑うハイドリヒだが、背中越しに鋭い視線を送るクリュを見て、二人は同時に口を抑えた。
彼は、普段は温厚だが、怒ると怖いのである。
だがそんな怒った顔もすぐに消えて、数秒後にはラグの前に乳白色のカクテルが音をたてずに置かれた。彼はいつもの如く、感謝の言葉を口にしてゆっくりと香りを楽しみながら口にする。
「相変わらず美味しいね」
「ありがとうございます。でもこれを飲んだら帰ってしっかりと休んでください」
「そうだぞ! ぐっすり寝て、気持ちよく起きたら肉を食え! そうすれば元気になる!」
「疲れているわけじゃないんだけどなぁ。でも、ありがとう」
それから三人はいつもの如く、数時間他愛のない会話をして、結局、閉店時刻に店を出た。入り口で分かれて三人は別々の場所へと歩みだす。
一人孤独に、ラグは街灯すらない夜道に迷い込んだ。
空を埋め尽くす星々。
鼓膜を揺らす突風。
鼻先を真っ赤に染める冷気。
後ろを振り返る。既に二人の背中は夜闇の中へと溶け込んでいて、声をかけるのも、追いかけるのも既に手遅れ。
寂しさを、ただ拭いたかった。
だが、そちらへは行けない。夜の街を出て、日差しが照らす場所へは、足を運べない。
彼の強い拒絶心が、彼本人の逃げ道をなくしていった。
無心で帰路につく。
てくてくと、些細なことまで敏感に感じ取りながら、てくてくと。
ただ只管に、
ひたすら――
『でもさ、信じられないだろ! 時間が動くってよぉ』
ハイドリヒの言葉。
一般的に考えれば当然の反応だろう。
誰も彼の与太話に付き合う程、暇なわけでもない。
でも、ラグからすれば、本当にあった事をただ口にしているだけだ。本当に時間が経過して、朝となり昼となり夜になる通路の先、誰も知らない大きな壁画があるという事実を。その壁画すら、微かだが、徐々に廃れていっているのを。
だけど、誰にも信じてもらえない。誰にも相手にされない。
そんな屈辱に、ラグは少しばかり怒りと悔しさを覚えた。
「本当に! あるって言うのに! 馬鹿やろお!」
気づいた時には、ラグの足はレンガ作りの道路を勢いよく蹴っていた。
目指すは言うまでもなく、【夜】ソンブレム六番街。
そこにある、誰も知らない可変の壁画の元へ。
息が切れる。肺が凍てつく。足が震えている。
それでも彼は、信じたかった。信じていたかった。
あの日出会ったあの壁画に、心を躍らされた事実を。
走り出して一時間弱。
やっとの思いでラグは目的の場所へとたどり着いた。
通路の時間はまだぎりぎり夜といったところ。空を見上げると微かに夜の暗闇が薄れていくのが見える。
「嘘だろ。早く見に行かないと」
ヘトヘトで体が禄に動かないにも関わらず、ラグは再度重い足を持ち上げた。
日が出る前に確認して、早く出よう。その思いだけがラグの心を埋め尽くす。
あともう少し。通路をあと二回ほど曲がった先には、例の壁画がある。
「……はずだ」
徐々に自信がなくなっていく。この通路の時間が動いているのは既に確認済みだ。だけど、彼にとってあの壁画こそが、時間が流動するこの空間のシンボルなのだ。だからそれを実際に目にするまで、彼の中で生まれ続ける疑心暗鬼が消え去ることはない。
残りあと一回。
残り少ない体力を絞りきって、ラグは壁沿いに走る。走る。走る。
やっとの思いで辿り着いた曲がり角に手をかけて、体を全力で引く。が、勢い余って通路の反対側に体が激突した。
いてて、と軽くつぶやきながら、彼は前を見た。
あぁ、そうだ。
この景色だ。
「やっぱり、あるんじゃないか」
ラグの身長を余裕で超える程の壁。そこには青空を悠々と泳ぐ逆さまの航海船が描かれた壁画がラグを出迎えてくれる。
「やっぱり夢じゃないんだ」
疑いが晴れる音がした。不安が消し去り、あまつさえこの秘密を信じようともしない彼らに対して優越感すら感じている。
胸を撫で下ろす感覚に満足した彼は、その場から離れようとした。
刹那、視界の端に彼は異物を捉えた。
誰も知らないはずの場所に、誰も信じていないはずの場所に、
【あなたは誰ですか?】
誰かに向けた言葉が綴られていた。





