34 寄付…?
逸早く復活したのは、事の成り行きを見守っていた領主だ。
「…どういうことだ? 自分の意思で寄付していたのではないのか?」
「違います。私は孤児院への寄付なんて、全く、欠片も、知りません」
瞬間、領主が厳しい目で人事部長を見遣る。ビクッと肩を揺らした人事部長は、慌てた様子で首を横に振った。
「じ、人事部では、確かに本人からの申し出であると──」
「では財務部は」
領主の視線が別の人物を射抜いた。立ち上がった財務部長は、青い顔で答える。
「財務部でも同様でございます。人事部からの通達により、セラフィナ・アッカルドの給与から4割を差し引き、アッカルド孤児院へ送金しております!」
「何!?」
「おい、こちらのせいにするな!」
「事実でしょう! そちらこそ、我々のせいにしないでいただきたい!」
驚愕の声が上がる中、人事部長と財務部長が不毛な言い争いを始める。
それを半ば聞き流しながら、
「よんわり」
私の口から極めて平坦な声がこぼれ落ちた。
文官として出仕し始めてから4年と少し。私の知らない間に、毎月4割。
…手元に来る金額が安いわけだよ。身分のせいでも、仕事の所掌範囲のせいでもなかったってわけだ……。
その場で崩れ落ちなかったのを褒めて欲しい。
死んだ目で何とか思考を働かせて、私はあることに気付いた。
「…あの」
手を挙げて呟く声は、我ながら地獄から響くようなおどろおどろしい声だったが。
一瞬で場が静まり返り、視線が私に注がれる。
「──そもそも私、採用時の提出書類を自分で書いた覚えがありません」
「……は?」
「何を言い出す?」
お歴々がぽかんと口を開けた。そりゃな。
でも、事実は事実だ。私は淡々と説明する。
そもそも私自身は、学生時代、文官として働く気など欠片もなかったこと。
それなのに、アッカルド孤児院の院長と当時の共立学校の校長が共謀して、勝手に私の名前で願書を提出したこと。特別指導という名目で職員室で筆記試験を、校長の知り合いとの雑談と誤魔化されて校長室で面接試験を受けたこと。
全校集会で突然前に呼び出され、文官に採用されたと祝福されて逃げ道を塞がれたこと。採用書類はとっくの昔に誰かの手で提出されていたこと。
「…採用時の提出書類の中に「孤児院に寄付します」と書いた申請書があったとしても、それは私が書いたものではありません。多分、筆跡が全く違うと思います」
私は代筆課員なので、私の筆跡で書かれた保管書類は結構多い。見比べれば、その申請書とやらが私が書いたものかそうでないか分かるはずだ。
「…」
「……」
混乱と驚愕と…絶望感漂う空気が場を満たす。
領主が「人事部長」と一言呼ぶと、人事部長は弾かれたように身を翻した。
「少々お待ちください!」
貴族にあるまじき慌てっぷりで、足音を立てて部屋を出る。バタン!と扉が閉まる音が大きく響いた。
場に沈黙が落ち──胃が痛くなるような空気を味わうこと数分。いや実際にお腹のあたりを押さえている人が何人かいたから実際にはもうちょっとかかったのかも知れない。とにかくその場で待っていると、慌ただしく扉が開いた。
「お待たせいたしました! セラフィナ・アッカルドの採用時提出書類一式です!」
人事部長は私の横を通り過ぎて真っ直ぐ奥へと進み、領主の前に書類の束を置く。
その額には汗が光っていた。この気温で長袖のジャケットをビシッと着込んでるんだから暑いに決まっている。まあ今回の場合、それ以外の汗も多分に含まれているだろうが。
「…」
領主はぱらぱらと書類をめくり、1枚を抜き出した。
「──確かに、セラフィナ・アッカルドの名でアッカルド孤児院への寄付の申請書が出ているな」
そうして顔を上げ、私の名を呼んで手招く。
素直に進み出ると、領主は私の前にその書類を掲げた。
「どう思う?」
流麗な筆跡で書かれた非常に整った体裁の申請書。
普通こういう書類は決まった様式があって必要項目を埋める形で作成するものだが、これは上から下まで全部一から書いたらしく、件名も定型っぽい文章部分も全く同じ筆跡で書かれている。
給与の4割をアッカルド孤児院へ寄付する。なるほど確かに文面は人事部長の言った通りだ。
一通り確認して、私はきっぱりと言い放った。
「私の字じゃありません。偽物です」
「証拠は?」
「筆跡が全く違います」
この書類の字体は、筆記体に近い。一つ一つの文字を独立させて書くのではなく、繋げて書く形だ。
女性的で優しい雰囲気になると言われていて、実際に貴族女性はこういう字で書く人が多い。
私の字とは全く違う。というか、私はこんな流麗な文字は書けない。
「…ふむ」
領主は小さく頷き、こちらに白紙とペンを差し出した。
「ならば、其方だったらこれをどう書く?」
書いてみろということだろう。私が紙とペンを受け取ると、秘書官が素早く椅子を持ってきた。礼を言って腰掛け、ペンを握る。
左手の麻痺が半分でも治っていてよかった。ゆっくりと左手で紙を押さえると、右側に偽物の申請書が置かれた。これを見本に書けということか。でも──
「…」
領主と、その周囲の重鎮たちが身を乗り出して注目する中、私はさらさらとペンを走らせた。
書くべきことはそれほど多くないので時間はかからない。数分もしないうちにペンを置き、左手を下ろして右手で紙を領主の方へ向ける。
「──どうぞ。これが証拠です」
白紙の中央にさらりと書かれたのは、私の署名。
ただしそれは流麗な筆記体ではなく、一つ一つの文字が独立した、ゴシック体に近い字だ。
男性のような筆跡だが、残念ながら私にはこういう書き方しかできない。
受け取った領主が苦笑した。
「…代筆課の仕事のように、丸ごと写そうとは思わなかったのか?」
「これは仕事じゃありませから」
即答し、それに、と周囲に視線を走らせる。
「──この内容を丸写ししたら、本人が書いた正規の申請書として偽物と差し替えられる可能性もありますので」
瞬間、斜め後ろから覗き込んでいた人事部長がカッと赤くなった。
「なっ…! そのようなことをするわけがない!」
私は瞬時に振り返り、冷めた目で人事部長を見上げる。
「そう疑わざるをえない程度には私の中で信用がガタ落ちしているんですよ。今、この場にいる全員」
「──それは私も含んでいるのか?」
背後から領主の声がして、お歴々がサッと青ざめた。
私は振り向き、紫紺の目を真っ直ぐ見返して頷く。
「当然です。私を誰が娶るかとか誰の養女にするかとか、心底くだらない口喧嘩を本人の前で繰り広げる老害を放置しているトップなんて信用に値しません」
「ろっ、老害…!?」
「領主様に何という言い草…!」
「不敬だぞ!?」
ピーチクパーチクうるさいな。
私は敵意と殺気を込めた目で周囲を見渡し、一人一人を睨みつけた。
「敬意を払えと言うなら、敬意を払える程度の仕事をしてくださいっつってんですよ。何ですか仕事中に家の問題持ち込んで本人そっちのけでギャーギャー騒いで。こっちは忙しいんですよ。いい加減にしてください」
喧嘩ならよそでやれ、私を巻き込むな──と言いかけて喉の奥に押し留める。
口調が荒れつつある。そろそろ敬語が抜けそうだ。
目が合うと、一人、また一人と次々口を噤んで目を逸らしていく。睨まれて黙るくらいなら最初から変なこと言わなきゃいいのに。




