13 上司面談(またの名を、面倒臭いやつ)
代筆課に戻る道すがら、廊下であまり良くない響きの声が聞こえてきた。
「あの方、昨日もまた定時で帰ったんですのよ!? しかも鐘が鳴ったら本当にすぐ!」
「空気が悪くなること、気付いていないのかしら」
…またこれか。
私は内心げんなりとして、足を止めた。
声の発信源は、この少し先、廊下の横にある休憩室だ。『室』と付いているがドアはなく、廊下から丸見えなので、当然声もよく聞こえる。そして思い当たる節がありすぎる愚痴の主は──私と同じ代筆課の女性文官たちだ。
彼女たちは、担当する部署こそ違うが、私と同じように定例会議の議事録のようなそれほど重要度が高くない書類を担当している。代筆課の部屋の中では同じ空間、同じ並びで、毎日私が定時で帰るのを目の当たりにしている。
「そういう人がいると大変ねえ」
相槌を打っているのは、別の課の女性文官。彼女たちの友人。
おっとりとした口調で、どこか得意気に続ける。
「こっちの部署は、みんなで協力して残業してでも仕事を片付けるわよお。そういう感じじゃないの?」
「そうなんですの!」
「それです!」
私の同僚たちの声がさらに大きくなる。
「普通はそういうものでしょう!? でもあの方、自分の仕事だけ終わったらすぐに帰ってしまうんですの! それでは心証が悪くなるのも仕方ありませんでしょう!?」
「何かお手伝いできることはありませんか、の一言もないの! こっちは残業してるのに!!」
まるで自分たちは被害者だとでも主張するかのような言い草だが、私から言わせると、
「アホか」
この一言に尽きる。
まず、前提が違う。みんなで協力して仕事を進める部署ならともかく、代筆課は個々人で処理する業務しかない。そして各個人が担当する書類の種類や依頼部署は、前年の実績を鑑みて、課長が割り振っている。
私が担当する書類の量は、彼女たちより少ないわけじゃない。むしろ私の方が多い。
では何故、私は定時で帰って彼女たちは残業三昧なのか。
理由は簡単だ。彼女たちは、休憩時間以外にもこうして事ある毎に席を外し、休憩室で駄弁っているから、仕事が進まないのである。
…そんなしょうもない理由で残業してる奴の仕事を手伝えって? 寝言は寝て言え。忙しいんだよこっちは。
内心で悪態をつき、溜息とともに歩みを再開する。休憩室の前にさしかかると、それまで楽しげに響いていた『どこかの誰か』をこき下ろす声は波が引くように小さくなり、ぴたりと止まった。
「……やば……」
僅かに焦りを含んだ呟きが耳に入る。
そう思うなら、誰が通ってもおかしくない場所でそういう話するなよ。
私は無表情を保ち、休憩室を一瞥もしないままその場を通りすぎた。
十分離れると、後ろから叫び声のようなものが聞こえた。内容までははっきり分からないが、非難のニュアンスが含まれているのは間違いない。
「──仕事しろ、暇人」
ドスの利いた声で呟き、私は代筆課のドアを開けた。
その日の夕方、課長から声を掛けられた。
「セラフィナさん、遅くなって申し訳ない。定期面談しようか」
「分かりました」
机の上に広げていた書類を片付け、私はすぐに席を立つ。
代筆課では年に1回、この時期に課長との面談がある。課員の仕事の負担状況を把握し、仕事の割り振りや昇給・昇格の参考にするためだ。
時間がかかることもあるため、面談は1日1人ずつ。今日は私の番だった。
それは良いのだが、既に予定時間を30分近く過ぎている。
定時までに終わるといいんだけど、と内心呟きつつ、課長に続いて隣の打ち合わせ室に入り、扉を閉めた。
大きな会議用テーブルの対面に座ると、さて、と課長が切り出す。
「セラフィナさんの仕事の評判はすこぶる良い。字も綺麗だし誤字脱字も少なく、読みやすいと他部署の課長からも評価をいただいているよ」
「ありがとうございます」
ウチの課長は貴族だけど、穏やかな性格で平民だからと差別もしない。
素直に頭を下げる私を、課長はにこにこと見詰めている。
が、その笑顔が不意に曇った。
「ただね…その、他の課員が残業しているのに毎日終業時間ぴったりに帰るのはいかがなものか、という苦言をいただくこともあってね…。何とかならないかな?」
何とかとは。
「先に帰るな、他の課員と一緒に残業しろ、と?」
「いや、その…」
「代筆課の仕事は個人でこなすものなのに?」
「うーん…」
私が淡々と問うと、課長は腕組みして唸り始めた。
待つこと暫し。
「…セラフィナさんは、ここに就職して4年目だよね?」
「そうですね」
「そろそろ昇格しても良いんじゃないかと私は思っているんだけど、残業実績がないと、なかなか推薦できなくてね…」
ひどく困り果てた顔で言われるが、その内容が完全に意味不明だった。
役職持ちではないヒラの文官にも、実は細かい格付け的なものがある。詳細は公表されていないが、給与テーブルが違うらしい。課長が言う『昇格』は、この格付けをランクアップさせるということだ。そこは分かる。
が、ランクアップの推薦に『残業の実績』が必要とは、これいかに。
ダラダラ意味もなく残業してた方が評価されるって? どこの昭和だよ。
「残業ですか? 給料が倍になったら考えます」
笑顔で応じたら、課長がキュッと眉を寄せた。
「…いや、その、残業実績がないと昇格推薦できないって話で…あ! その、ちゃんと仕事は評価しているよ!? でも、客観的な説得材料として、残業実績が欲しいなと」
慌ててフォローらしきことを言い始めるが、
「そういうの、要らないんで」
気付いたら、ポロッと本音が漏れていた。え? と首を傾げる課長に、笑顔で続ける。
「残業時間で評価されるなら、昇格は不要です。もっと他に推薦しやすいたっぷり残業してる人、いるじゃないですか」
試しに先ほど私の愚痴を言っていた同僚たちの名前を挙げると、課長はウッと言葉に詰まった。経験年数的には問題ないはずなのだが。
「いや、彼女たちは…他の部分がちょっと…」
正直な御仁である。
でしょうね、と頷き、私は課長に倣って腕組みする。
「課長、私の昨年の仕事実績って、同じ議事録系を担当してる他の人に比べて多いですか? 少ないですか?」
「…それなりに多い方だね」
「単位時間あたりにこなす仕事量に換算するとどうです?」
訊くと、課長は手帳を取り出し、ぱらぱらとめくって──
「……圧倒的に多いね」
ぼそりと呟いた。
他の人は残業していて私は定時で帰っているから、当然といえば当然だ。
「それを推薦の根拠にできないんですか?」
お給料が増えるならそれに越したことはない。提案してみるが、課長は渋い顔のままだ。
「いやでも……うーん…。残業してくれればすぐにでも昇格できるんだよ?」
「それって「昇格したんだからもっといっぱい残業しろ」って言われるやつですよね」
「う」
「あと、自分の業務を定時までに終えたら、残業帯にやることなんてないじゃないですか」
「それは……他の人の手伝いとか」
その発言に確信した。苦情とやらは他部署の偉い人などではなく、例の休憩室愚痴大会参加者からのものだ。
「自分がダラダラしてるの棚に上げて私が定時で帰ることに文句を言う暇人の仕事を、手伝えと?」
「ひ、暇人って」
課長が困惑もあらわに呻く。
純粋に量が多くて終わらないという人の仕事なら手伝うのもやぶさかではないが、そもそも仕事をしていない人間の肩代わりは御免だ。働かない輩を何とかするのは下っ端ではなく、課長の仕事である。
それに、
「そもそも個人で仕事をこなす前提の部署で、他の人の手伝いって、残業してまでするものですか?」
「……」
課長がとうとう沈黙した。
数秒後、パタンと手帳を閉じてがっくりと肩を落とす。
「……頼むよ…みんなと上手くやってくれよ…」
みんなと言っているが、例の連中のことだろう。
「仕事に対するスタンスが全く違うんで無理ですね」
「少しくらい残業したって良いじゃないか…それで全部丸く収まるんだよ…毎日1、2時間くらいでいいから…」
どうやら課長にとって最大の課題は、私に対して一部課員が不満を抱いていること、らしい。まあ文句も苦情も最終的に全部課長に行くからな。
で、私は一人、相手は複数かつ貴族のご令嬢方だから、単体で片がつく私の方に要求をぶっ込んできた…と。
…馬鹿だなあ。
「課長。お宅の娘さんが、職場で同じように上司から「他の人から文句言われたから毎日1、2時間残業して」って言われたらどう思います? 本人の仕事は定時で終わるのに」
瞬間、課長の顔から表情が抜け落ちた。
「──」
暫し、考えるように視線を彷徨わせ──スン、と真顔になる。
「なるほど、分かった。やっぱり残業はしなくていい」
課長は筋金入りの愛妻家、かつ子煩悩だ。家族の時間を大事にしている彼にとって、娘がそんな理不尽な理由で残業を強要される、つまり家族の時間を奪われるのは耐えがたいことだろう。分かってくれたようで何よりである。
「…代わりに、他の人の残業を減らすために、君の担当する仕事を増やしても良いだろうか?」
オイ。
ニコニコと訊いてくる何も分かっちゃいなかった課長に、私もとびきりの笑顔を作って応える。
「それ去年もやったと思うんですけど。──で、やった結果、例の方々の残業、減りました?」
「うっ…」
私は毎日定時で帰るから他の人の残業時間はよく知らない。けど、予想はできる。
案の定、課長は思い切り目を逸らした。まあ仕事量が減ったら無駄口叩く時間が増えるだけで、残業は減らないんだよね。ああいう連中は。
去年はこの結果を予想しつつも「まあやるだけやってみれば?」と思って了承した。けど、今年はもうダメだ。無駄だと分かり切っている施策に付き合う義理はない。
「お仕事は、お給料に見合う量と難易度でお願いします。他人の愚痴を言うばっかりでマトモに仕事しない高給取りの尻拭いはお断りです」
例の連中は全員貴族家出身なので、少なくとも確実に私より給料が高い。
断固拒否の構えをとる私に、課長は少々怖い顔になった。
「…これは業務命令だ、と言ったら?」
「課長がそんなこと言うとは思えませんが、世の中には「割に合わない仕事はさっさと辞めるに限る」って格言がありますよ、とだけお答えしておきますね」
直訳すると、「ンなこと言うなら即座に辞めるぞ」である。
「……」
課長はぴたりと固まった後、眉を寄せて若干目を潤ませ、口元だけ微妙に笑みを浮かべてこちらを見詰めてきた。
大の大人が、『ぴえん』みたいな顔するんじゃありません。




