379話~それ、くれよぉ!~
鈴華とセレナさんが連れ去られた。
その凶報を聞いて、周囲は騒然とした。桜城ファランクス部のみんなは悲鳴を上げ、泣き出してしまう娘も少なくない。伏見さんと海麗先輩は「すぐ探しに行こう」と今にも走り出しそうで、西園寺先輩はゲロった男を更に絞りあげようと無茶していた。
それを、ローズ先生や部長が収めようとしている。
大混乱だ。
大会スタッフ達も、どうするべきかと右往左往している。
そんな中、蔵人は携帯と小さな紙切れを取り出して、電話を掛けていた。その紙切れは、以前アマンダさんから貰った名刺だった。
なかなかコールに出てくれなかったが、10コール目で漸く繋がった。向こうからは、トーンを抑えたアマンダさんの声が囁かれる。
『黒騎士君か?済まないが、後で掛け直させて…』
【セレナ・シンガーが連れ去られました。私のチームメイトも一緒に、特区の外へテレポートされました】
迷惑そうな彼女の申し出を無視して、蔵人は一方的に、そして端的に状況を伝える。
すると、電話口から息を飲む音がして、次いで【失礼します、大統領】と言うアマンダさんの声が遠くで聞こえた。そして、すぐにアマンダさんの硬い声が返ってきた。
『黒騎士君。状況を詳しく教えてくれ』
蔵人が状況を説明すると、アマンダさんは一瞬言葉を失ったが、すぐに捜索班を送ると約束して電話を切った。
これで、状況は少しだけマシになった。でも、解決した訳では無い。特区外と言っても広すぎて、鈴華達が何処にテレポートさせられたか分からない。
唯一知っているのは実行犯の男だけだが、奴は【南の方へ全力で移動させる】という命令までしか送っておらず、何故そんな事をしたのかは本当に分からないみたいだった。
男もまた、誰かに利用されている形跡があった。
どうするべきか。早く助けに行かないと、特区の外は危険だ。
蔵人は、行きの飛行機で見た特区外の光景を思い出す。昼間から抗争を繰り広げていたギャング達の事を思い出すと、居ても立ってもいられない衝動に駆られる。
そんな蔵人の肩に、誰かが手を置いた。
ローズマリーさんだ。
【ブラックナイトさん。わたくしもご協力致します】
そう言って、彼女はスマホを持ち上げて見せる。
画面は通話画面になっており、そこには〈カーネギー社長〉の文字が。
【我が家は外にも明るいので、すぐに見つかると思います。ですから、あまり深刻にならないで下さいまし】
「ローズマリーさん…」
蔵人は、驚きと感謝で言葉を詰まらせる。
カーネギーって確か、アメリカの穀物メジャーの最大企業だった筈だ。広大なアメリカ農業地帯を広く手がける会社が協力してくれるのなら、全く見えなかった特区外の状況も、ある程度分かる気がする。
鈴華達が見つかる希望が、見えた気がした。
「ありがとうございます。ローズマリーさん」
【当然の事ですわ、ブラックナイトさん。頭をお上げください】
蔵人が顔を上げると、ローズマリーさんは優しく微笑んでいた。
だがすぐに視線を外して、厳しい顔になった。
彼女の視線を追って後ろを振り向くと、こちらへと走ってくる集団が見えた。
その先頭に立っているのは、金髪の美女。
【話はスタッフ達から聞きました、桜城の皆さん】
「カトリーナ…社長」
カトリーナ・デュポン。
決勝戦では選手を道具のように扱っていた彼女が、一体ここに何をしに来たのだろうか?と蔵人は身構える。
しかし彼女は、こちらを見ると眉を下げて悲しそうな顔をした。
【申し訳ございません、ブラックナイトさん。桜城の皆さん。大会運営の警備が不十分であったが為に、スタッフの中にアグリアの構成員を紛れさせてしまいました。その責は、出資者である我々にもあります】
大貴族のご令嬢である筈のカトリーナが、謝罪の言葉を述べる。それは、日本人の自分達が考えるよりも遥かに重い事だろう。
でも、そこまでの事をするだけ、彼女の中では確固たる自信がある証拠でもある。
ついさっき起きた騒動を、アグリアの仕業と断定する何かを。
【ふざけんな!俺はアグリアなんかじゃない!俺は特区の優良市民でっ…!】
テロ組織の構成員と見なされた男性は、再び暴れ出そうとした。
でもその前に、カトリーナの護衛が押さえてけて、身動きを取れない様にした。
加えて、
【ジェーン。この男を調べなさい】
【かしこまりました】
執事服の女性が前に出て、男の頭に手を置いた。そして、目を瞑って何かを探り出した。
【社長。この者が操ったのは、大会サポータのメイジーです。私の記憶では、彼女はAランクのテレポーターであり、最大射程は13マイルだった筈です】
「おおっ!」
蔵人はつい、大きな声を上げてしまった。この情報で、捜索範囲が一気に狭まったからだ。
これで、闇雲に探さないで済む。鈴華達へのルートが明確に開かれた。13マイルと言うことは、大体20kmくらいだから、それ程遠い距離じゃない。
行ける!
そう思って、明るい声を上げた蔵人、でもその横で、ローズマリーさんが掠れた声を上げた。
【待って下さい、カトリーナ。ここから南へ13マイルとなると…そこは…】
【ええ、そうよ、ローズ。恐らく、彼女達が送られた場所はコンプトン】
「コンプっ!?」
蔵人は、また大きな声を漏らして目を見開いた。
それに、顔を強ばらせたカトリーナが大きく頷く。
【コンプトン。アメリカで最も危険な街。LAギャングが集結する無法地帯です】
〈◆〉
「なぁ、おい。ステージって言うかここ、外に出ちまったんじゃねぇか?」
テレポートが終わって周りを見渡すと、そこは大きな道路の真ん中だった。上は青空が広がってるし、風が頬を当たる。どう見ても、外に出ていた。
しかも、周囲の建物はボロボロで、落書きと焼けた跡で埋め尽くされている。道路にはゴミが散乱していて、ゴミと何かが焼ける悪臭が入り交じり、泣きそうな程の刺激が鼻を突く。
何処かで悲鳴と銃声も聞こえるし、後ろを振り返ったら、遠くに馬鹿デカい壁の片鱗も見える。
明らかにこれ、特区の外に出ちまってるだろうがよ、おい。
あたしの後ろで突っ立っていたテレポーターに向けて聞くと、彼女は青い顔で周囲の建物を見上げた。
何か早口で言ってるけど、ちょっと聞き取れんな。英語はからっきしだからよ。
あたしが「分からん」とジェスチャーすると、セレナが代わりに聞いてくれた。
そして、
【彼女も分からないって。ドミネーションで操られた…?ここは特区の外…危険な場所で…きっとコンプトン】
ゆっくりと喋ってくれたから、あたしでも聞き取れた。
最近、周りで英語ばっか飛び交ってたから、あたしも何となくは聞き取れる様になってたみたい。
やっぱ、実際にその国にいると、言葉って自然と覚えられちゃうよな。なんで、学校では座学ばっかしてんだろう?留学させりゃ、一発なのに。
おっと、そういう話じゃないかった。
【マジか。特区の外か。しかもコンプトンって、すげぇやべぇとこだってボスが言ってたとこじゃんか。早く戻らねぇと】
【うん。テレポーターさん、私達を送り返してくれない?】
セレナが優しく聞いたのに、テレポーターは狂った様に首をブンブン振った。
なんでだ?と思ったけど、セレナが更に聞き出すと、特区の座標が分からないから無理だと答えた。
まぁ、そうだよな。テレポーターは目で見てテレポートする場所を決めて、そこまでの距離を測ってから移動するものって聞く。こんな見通しの悪い所で、それは出来ない。
上空に逃げれば良いんじゃね?って思ったけど、逃げた後にもテレポート出来る保証は全くない。異能力を発動するのに、精神状態が不安定だと上手く発揮しないからな。
スカイダイビングしながら精神統一なんて、普通は出来っこないからな。最悪、3人ともペッチャンコになっちまう。
やっぱ、テレポーター1人じゃ長距離移動は無理だ。中継役で遠視やテレパスが居れば何kmでも移動出来るけど、今のあたしらにはその伝がない。
仕方ねぇ。
【んじゃ先ず、高いとこに登ろうぜ。あそこのビルなんて良いんじゃね?】
【そうだね。そうしようか】
く
あたしらは目に付いた高いビルに向けて歩き出す。あそこからなら、数㎞先を見るくらいは出来るだろう。
その途中で、あたしはテレポーターを振り返った。
【でもよ、ここにはどうやって来たんだよ?テレパス居ねぇだろ?ここ】
【ドミネーションと一緒、イメージが送られて来た…だったから、私は…で、ここがステージだと思ってテレポートしちゃって…】
途中で分からん単語もあったけど、大体分かった。
こいつは本当にただ操られていただけで、そのドミネーターが黒幕っぽい。そのドミネーターが誰かも知らないらしいけど…きっとアイツだ。あの金髪のデコポン。あの女がセレナとあたしを逆恨みしたんだ。負けたのは自分の癖によ。
許せねぇ奴だなぁと、あたしが拳を撫でていると、
【おい!そこの、白人の女ども!】
声を掛けられた。
見ると、大柄な黒人男性が、血走ったギョロ目であたしらをガン見しながら、こっちに近づいて来た。
【そんな格好で何してやがる!死にてぇのか!?】
男は酒臭く、変な臭いもいっぱいした。
服装の事を言われたけど、こいつの方がよっぽど酷い格好をしてる。
羽織ったシャツはボロボロで、お腹の辺りは黒ずんだ物がベットリと着いていた。腰には古びた銃を1丁ぶら下げているけど、一向に引き抜く素振りを見せない。
男はただ、そのソーセージみたいに膨れた指をこっちに向けて、喚き散らす。
【ここはブラッズの縄張りだ!てめぇらみたいな白人は…ひっ、ひん剥かれて…最後は、野良犬の餌にされちまうぞ!】
よく分かんねぇけど、あたしらを心配しているみたいだ。確かにこんな治安の悪い場所で、あたしらの格好は不味い。金持ちと思われて、襲われるかもしれないから。
でも、そんなこと言われてもよぉ、いきなりテレポートされちまって、着替えなんて持って無いぜ?
あたしらが困った顔を見合わせてると、男はニヤリと黄色い歯を見せ付ける。
【なんだ?持ってねぇのか?良いぞ。俺が貸してやるよ。代わりに金を寄越しな】
なんだよ。やっぱ、そっち目的で話しかけてきたのか。
あたしが呆れて男を見上げていると、男はギョロ目を飛び出さんばかりに見開いて、声を震えさせる。
【無いのか?じゃ、じゃあ薬で良いぞ。金持ちなら、持ってんだろ?ヘロイン、コカイン…い、いや、特区から来たんなら"D"も持ってるんじゃねぇのか?それで良い。それが良い!それ、くれよぉ!】
突然興奮しだした男が、あたしの肩を押さえつけた。
だからあたしは、男の魔力を反発させて吹き飛ばした。
男は【ぐぉ!】と呻きながら地面を転がり、ゴミ袋の山に突っ込んで止まった。
でもすぐに立ち上がって、頭にバナナの皮を被りながら、こちらに手を伸ばして近づいてくる。
【くれよ、D、Dを。LTDをくれぇ…】
フラフラと千鳥足で歩く男を見て、あたしは隠す様にセレナの前に立ち塞がる。噛まれてゾンビにでもなったら大変だからな。あたしがセレナを守らねぇと。
テレポーターの方は…。うーん、まぁ、頑張って逃げてくれ。
【くれよぉ…うん?】
ゾンビみたいに呻いていた男が、急に立ち止まる。焦点の合っていなかった目がまともになり、その場で辺りをキョロキョロし始めた。
そして、急に悲鳴を上げる。
【ひぃ!き、来たぁ!奴らだ!】
男は血相を変えて慌てだし、狭い通路に向かってのっしのっしと何処かに逃げてしまった。
何なんだ?あいつ?
男の去った方向を見て、私は訳分からんと首を傾げる。
そうしていると、音が聞こえた。
幾つもの重低音のエンジン音。それが、こっちにどんどん近づいてくる。
そして、
【ひゃっはぁああ!】
何台ものバイクが道路の向こう側から現れて、ゴミを蹴散らしたり横転した車を飛び越えながら、道路を爆走する。
そして、あたしらの数m手前で急停車した。
バイクに跨る男が、こっちを見て舌なめずりする。
【おうおう。居るぜ。…な奴らが…ってた通りだな、姉御!】
バイクをブイブイ鳴らしながら喋るから、あんまり聞き取れなかったけど、誰かに指示されて来たっぽい事を言う男達。
殆どが黒人やヒスパニック系で、小柄なアジア人が数人紛れている。白人の姿は見えない。
そんな彼らの背中から、1人の女性が降り立つ。
太っちょな黒人のおばさんだ。教会でゴスペルとか歌ってそうな腹だけど、その背中に担いだライフル銃が、おばさんが聖職者じゃねぇって言っている。
おばさんはあたしらを見ると、【ふんっ】と鼻を鳴らした。
【特区の白人様が、こんなとこまでお散歩かい?】
【私達は、ただ、迷い込んじゃっただけで…】
セレナが弁解するけど、おばさんは余計に笑みを深くして、背中のライフル銃を前に回した。
【知ってるよ。あんたがセレナ・シンガーだろ?結局、貴族に靡いちまったあんたの目を、あたしらが目覚めさせてやるよ。おい】
【へい】
おばさんが合図を送ると、バイクに乗ったままだった男がエンジンを吹かす。
そして、思いっきりアクセルを回して、こちらに突っ込んできた。
【【【ヒャッハー!】】】
そのまま、あたしらを轢き殺そうって?
そのくらい、
「何でもねぇぜ!」
あたしは周囲に磁場を形成し、力を上へと反発させる。すると、鉄の塊であるバイクは地面を離れて宙に浮いた。
乗っていた男も振り落とされ、突撃してきた数台のバイクだけがフワフワと上空に浮いている状態。そこから、
「まだまだ行くぜ!」
更に磁場を広げて、不良共のバイクを全部範囲に収める。十数台のバイクが宙に浮いて、不良共はポカンとそれを見上げていた。
「返してほしかったら、あたしらに道を開けな」
【小娘が…調子に乗りやがって!】
額に青筋を立てたおばさんが、あたしに向けて銃を構えた。
それに、あたしも手を前に出して構える。おばさんの方に、強力な磁界を張る。
【くたばれ上級国民!】
「パルス」
発砲に合わせて放った電磁パルスが、銃弾の威力を殺して跳ね返らせる。同時に、浮遊させてたバイクも彼女らの方に吹っ飛んで行った。
銃弾が地面を跳ねて高い音を出し、それにビビった男達が飛び跳ねて踊る。おばさん達の近くにバイクが飛んで行き、彼女達は慌てて身を屈めた。
彼女達が顔を上げたのは、あたしの攻撃が全部過ぎ去って暫くしてから。それでも、恐る恐る顔を上げて、周囲の惨状に顔を顰めた。
そして、あたしの方に恐怖混じりの視線を向けて来る。
【くそっ!これだから、特区のバケモノは…】
あたしに喧嘩を売った事を、悔いている様に吐き出す彼女。でも、一向に退こうとしない。
代わりに、後ろを向いて誰かを手招きした。
【出番だよ、お兄さん!】
【分かってるよ。うるさいなぁ、もうっ!】
不貞腐れたような声をして前に出てきたのは、ロボットだった。
おっと、違った。ロボットみたいにゴテゴテしたパワードスーツを着込んだ奴だった。フルフェイスを被っているので顔は見えないけど、声からして男だ。しかも、何処かで聞いたことある様な声…だと思うけど、あたしの気のせいかも。
【俺が歌ってやるんだ。ありがたく聞けよ、お前ら!】
ロボットは尊大な態度で歌い始める。
セレナとは比べようもない、下手クソな歌だ。
【おおっ!こいつはすげぇ!体に力が湧いてくるぜ!】
【Bランクのバフって、こんなに効くのかよ!】
それでも、不良達には十分効果があるみたいだった。誰もが歓声を上げて、力こぶを作ってみたり異能力を発動させたりした。
そして、こちらを向く。さっきまであたしを怖がる視線ばかりだったのに、今はそれが無い。
逆に、鋭く危険な色を含んだ視線を投げ付けて来る。手にした玩具で遊びたいと言う、子供みたいな純粋な殺意を。
【ありがとうよ、特区の兄ちゃん。オラ野郎ども、とっとと行くぞ!】
【【イェヤァアア!】】
男達が走り出す。手には鉄パイプやナイフを持っており、その目はギラギラと殺意で満ちていた。
でも、そんな物を持っている時点で勝負は見えている。
あたしは磁力を再び強くして、男達の手から武器を回収する。ついでに、
「おらよ。マグネパウンド!」
手甲を飛ばして、男達の顔面を殴りつける。
ご自慢の武器を取られ、縦横無尽に空を飛ぶ手甲に殴りつけられて、再び男達の目には恐怖の色が浮かび上がる。
確かに身体能力は上がっていた。でも、元がEランクの男だから、幼稚園生に毛が生えた程度の力しかなかった。
なんだよ。バフがかかってもこの程度かよ。
【何やってんだよお前ら!】
あたしの力を前にして、不良達が情けない姿を晒していると、向こう側でロボットが地団太を踏んだ。
【くそっ!役立たずが!これじゃ俺の借金がチャラにならないだろうがよっ!】
借金?あたしらの装備でも売って、借金返そうとしてんのか?あいつ。
あたしが呆れた目でロボットを見ていると、そいつはポケットから何かを取り出した。
青色の液体が入った、透明な小瓶だ。
それを、ロボットはフルフェイスのガラスを少しだけ開けて、そこから飲む仕草をする。
空の小瓶を叩きつけ、ロボットが不良達に向けて叫ぶ。
【よぉし。行くぞ!お前らぁ!】
再び歌い出したロボット。さっきと一緒で、ひでぇ音程にズレたテンポだ。
でもなんだろうな、すげぇ嫌な感じがする歌だ。何だが背中がソワソワするって言うか、嫌な感じがする歌。
そう感じたのはあたしだけじゃなかったみたいで、歌を近くで聞いた不良達は苦しみ始めた。
【いてぇ!頭がいてぇ!】
【やべぇ…はぁ、はぁ…体が、熱い…燃えるようだ…】
【目が痛い!明るすぎて、開けていらんねぇよ】
これは、アレか?バフの掛け過ぎって奴か?異能力を強化し過ぎて、体が付いて行ってねぇんじゃねえか?
【ぐぅう…野郎ども!早く、早くDを飲むんだよ!】
おばさんはそう言って、先ほどロボットが飲んだのと同じものを取り出し、口に入れ始めた。
その途端、苦痛で歪んでいた彼女の顔に笑みが広がる。震える両手を目の前まで上げて、歓喜の声を上げる。
【こりゃ凄いね。快楽が押し寄せて来るよ】
そう言って、あたしらの方を見る。
その目に、もう恐怖はない。
あるのはただ、鈍く光る狂気だけ。
こいつは、ヤバい。
「逃げろ!セレナ!」
後ろを向いて叫ぶ私に、セレナは青い顔のまま頷いて駆け出す。
その時、背後に気配。
【どこ見てんだ?銀髪】
速っ!?もう、目の前まで…。
「磁気浮上!」
あたしは瞬時に足の魔力を反発させて、後方へと逃げる。
間一髪、あたしに振り下ろしたおばさんの拳を避けることに成功し、その拳は地面を叩く。
叩き壊す。
ぶ厚いコンクリートの地面が、お煎餅みたいに粉々だ。
【何だい?ビビってるのかい?特区のお貴族様ともあろうにねぇ】
「くっそ。なんてパワーしてやがる」
おばさんはブースト異能力者っぽいけど、こんなの明らかにEDランクのパワーじゃない。Cランク…いや、Bランク並み。Bランク以上なら特区に居る筈だから、1ランクか2ランク魔力が上昇したって事になる。
そこまでのバフを掛けて平気そうにしているなんて、やっぱ異常だ。
「何なんだよ、さっきのDって」
あたしの呟きに、おばさんは口だけの笑顔を返す。
瞳の奥の狂気が、爆ぜる。
【お高く止まってるお前らの顔面、ぐちゃぐちゃにしてやるよ】
こっちに居たんですね、借金男。
「余程恨んでいるのだろうな」
逆恨みも甚だしいですが。




