ボーイ・キス・ガール
「リーファのクチん中と、この娘の手首とヒザ……総合病院の、救急外来しかねえか?」
後部座席に、しゃくりあげるナディアを乗せながら、ユンファさんがボヤく。
助手席にリーファ、その後列に、京子叔母さん、最後列に、ぼくとナディア。ぼくから、距離をとって座ってるのが、ちょっとこたえる。
「……色々聞かれるかもね」
京子叔母さんの、難しい声。
……そうだ。二人を同じ病院に連れていけば、リーファと、ナディアかケンカしたのはすぐ分かる。下手すりゃ、学校に通報だ。
ユンファさんが、呟いた。
「奥さんも、DVで通報されちまうだろ。最近厳しいしな」
「うち、病院いかんでも、大丈夫で……」
京子叔母さんが、遮った。
「そうだったら、苦労しないの。どうせ日曜日だから、保険証あっても同じだし、取りに帰らなくていいわよ」
「お財布はあります。保険証も。病院、一人で行けますから、駅前で……」
「その病院が決まらないのよ。そのケガだと、保護者がいるわよ。いいから、座ってなさい」
フードを被って、うなだれるナディア。
リーファも助手席で、うつむいてる。
ぼくの気分は、最悪だった。
泣きたい。
パキスタンに行って以来の、トラブルしかない毎日は、最悪の形で幕を閉じそうだ。
……なんにも残らなかった。
昨日、あんな事しなかったら……
でも……
そんなに悪い事したか?
視界がにじむ。
窓にもたれて、顔を伏せた。
喉が引きつるのを全力で押さえる。
無理だった。
自転車のブレーキの甲高い音がした。
「……何しとんねん、凛?」
顔を上げると、サイドウィンドウの向こうに、ママチャリに乗った、母さんの顔があった。
度の強い眼鏡をかけた、ひっつめ髪の小柄な姿を見て思い出す。
そうか、そこのスーパーに買い物に行くって言ってたよな。
自転車を停め、ぼくの背後のナディア、助手席のリーファを見た。
「凛、簡潔に」
「ナディアが、リーファを、ナディアママが、ナディアを殴った。ナディアの左手首、ヒビ入ってるかも。右ヒザは昨日から。悪いのはぼく」
「最後のは後や……邪魔すんで。口開けて」
リーファと、ナディアの怪我を診た母さんは、
「当てとき」
といって、生鮮食品と一緒に入れてた氷袋を2重にして、二人に渡した。
自転車のスタンドを払って、言った。
「うちに連れといで。医者行きにくいやろ」
さっさと進み出した、母さんのチャリを、ユンファさんが、低速で追い始めた。
車2台が、すれ違える広さしかない生活道路を、ノロノロ進む。
「……ちょっと、病院」
京子叔母さんの抗議を、ぼくが遮った。
「母さん、医者なんです。元がつくけど」
「よし……と」
ナディアの手首に、テーピングを終えた母さんが、居間のテーブルに、ハサミを置いた。
「リーファちゃん、口ん中は、ほっといても治るわ。頬は冷やしとく事。これ、うがい薬」
小さなボトルをリーファに渡し、ナディアを見た。
「ナディアちゃんは、明日、レントゲン撮ってもらいなさい。これ、痛み止め」
どれも、病院でもらった余りの薬だ。
一緒についてきた、京子叔母さんが、感心して見ていた。
「母さん。ナディアの手首……」
「全国大会までに、治るかは知らん。明日、病院で教えてくれるやろ。駄目なときは、三人で考え……でもな」
母さんが、眼鏡越しに、ぼくらを厳しい眼で見た。
「アンタら、大阪大会に出すために、みんなにさせた苦労、どうケジメとるかも、考えとき」
……そうだ。
軍用ヘリまで動員してくれた、ナディアの実家、バロチスタンまで、付いてきてくれた、リーファパパ、手を尽くしてくれた、オリガ……
泣き出す、ぼくらに取り合わず、三人、さっさと追い出された。
京子叔母さんは、母さんと、話すみたい。
仕方なく、ぼくらは、物置になってる、玄関近くの洋室に集まる。
六畳の広さに、棚や、衣裳箱なんかが積み上げられてるから、ナディア以外は立って話すしかなかった。
緑の擦り切れたじゅうたんを見つめて、誰も話さない。この家には珍しい、女子の香りが立ち込めてる。
みんな、かなり参っていた。
話す事なんか思い付かない。
……昨日の事。
全ての元凶。
どう言おう。
うつむいて、無言の二人を見てたら、急に腹が立ってきた。
何の相談もなく、突っ走ったリーファ。
捻挫した左で、パンチした、ナディア。
口ついてるよな? 話し合いって出来ないのかよ?
……なんか、何もかもイヤになって来た。
正直に言ってやろうか?
『何であんな事したか、自分でも分からない。スゴく、後悔してる』って。
ってか、大騒ぎする様な………
事だよな。
学校でバレたら、終わりだ。
いや、もう終わり、電車でチカンがバレた、重役並みに終わりだ。引きこもり確定だよ。
にしちゃあ、どっか、罪悪感薄いの、僕がおかしいのか?
あれ?
……あ。
思い出した。
オリガの事を除いても。
ぼく、キスって昨日が初めてじゃないぞ?





