鼻塞流鼻水

　枯れ木を燃やす旧式ストーブから、立ち上る黒い煙。

　バラックの屋根に空いた穴から、追い立てられた幽霊みたいに消えていく。

　まんじゅうを食べ終え、土壁にもたれて、ぼんやりそれを見上げていた。

　一日二回の運動以外では、外に追い立てられる事もない……

　って言うか、昨日の朝、やる気のなさそうな看守に――コイツらは覆面をしていない――英語と身振りを交え、僕らの体調が悪いことを訴えたら、舌打ちして薬を持ってきたのには驚いた。

　大事な『商品』である、ぼくの家族はともかく、店長までケアされてる事に、だ。

　【鼻塞流鼻水】【早晩飯後】ってラベルが貼られてあったし、看守の目の前で、ぼくが飲んでも慌てなかったから、毒じゃなさそうだ。

　ダメもとで、お腹が減った事を伝えても、無視されたけど。

　北の幹部が来て、（たぶん）証拠動画を撮るまでに、僕をいかにも【北の囚人】くさくしなくちゃならないから、筋は通ってる。

　いや、もちろんムカつくけどね？

　それからは、朝と夕方、僕らを並べ、 健康状態をチラ見するだけで、放置するようになった。

　

　

　……店長は朝鮮語が出来るから、【在日朝鮮人の通訳】って言う名目で入り込んだらしい。

　もちろん、ものべを通してだ。

　設定は、孤児で、金が必要だから。

　日本人なら【ありえない】ってわかるけど、北朝鮮では当たり前の理由。

　まあ、北からすれば、どうでもよかったんだろう。

　そもそも、ぼくがここに連れ込まれた理由、それ自体が嘘なんだから。

　【一号命令により、林堂家を処刑した】ことにして、大金を受け取る、脱北ビジネスのための。

　北の幹部だけじゃなく、中国、そしてものべも、僕らを使って稼ぐんだって考えたら、イラってするけど、仕方ない。

　そもそも、父ちゃんが『オペレーション・ダークベル』って厨二病くさい【何か】をやって、北を怒らせたのが原因なんだから。

　

◇◇◇

　

　気だるげに立ち上がった店長が、ぼんやりと呟いた。　

　「ちょっと、お花を摘みに……」

　僕の顔を見下ろし、苦笑いする。

　「毎回、ンな顔すんなや、カブトムシ」

　「ホントならついて行きたいけど…… 怪しまれるし」

　

　今、僕らがやってるのは、筋書きのあるプロレス。

　林堂家が運び込まれ、北のおエライさんが来て、金を払ってさようなら、って内容の。

　ただ、ここは未開の山奥。なんの娯楽もない看守たちが、店長の性別に気づいたら……

　そう。

　

　唯一心配なのは、店長が女ってバレることだ。

　困ったような笑いを浮かべ、店長が、ぼくの前に膝をついた。

　白い顔は、ストーブについた煤を使って、大げさにならない程度に、黒く汚している。

　でも、短く切った髪のツヤが消えて行くのを見てるのは、たまらない気持ちだ。

　父ちゃん、何やってんだ？　早くこいよ。

　店長にまで迷惑かけてるのに。

「ンな、怖い顔すんなって。タマは大丈……」

「うれしかったけど…… やっぱり来てほしくなかったよ」

　一瞬だけ固まる店長。

　すぐに微笑んだ。

「……せやな。オレがオマエでも、そう思ったやろな」

「……ね、ぼくは……」

　言葉に詰まった。

　いつでも、いつの間にか、みんなを巻き込んでる。

　危険な目にあわせて……

　 人を殺させて……

　

　うつむいた視界に、映る藁の寝床。

　ちくちくした肌触りにも、湿った掃除用具入れみたいな匂いにも慣れた。

　でも。

　視界がぼやける。

　罪悪感には、慣れそうもない。

　しゃくりあげるのを必死で堪える。

　そっと両手を、肩に乗せてくれた。

「あわてんでエエ。時間なら、あるで？」

　その時。

　ガタガタと木戸が揺れた。

　さっきとは違う、大柄な歩哨が現れ、ぼくを手招きする。

　立ち上がったぼくに向かって首を振り、膝立ちで振り向いてる店長に向け、朝鮮語で何か命令した。

　全身が熱くなり、毛穴が開く。

　ヤバい。

　気づかないふりをして、近づいた。

　鼻水を垂らすに任せてるぼくは、バカに見えただろう。

　でかい手が視界をふさぐ。

　頭を掴んで突き飛ばされた。

　「凛！」

　声出すなって、バレるだろ？

　みっともなく、藁の上にひっくり返ったけど、それどこじゃない。

　やっぱりダメか、どうすりゃいい？