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11. 井戸の中で

 井戸の中には地下へと続く階段があった。


 じめじめと湿った黴臭いにおいに、二人は顔をしかめる。


 ぶるぶると震えるフォルミーにしがみつかれながら降りていくと、最奥に一人の男が眠っていた。





 その男は雪のように真っ白な髪に、大理石のように妙につるりとした冷たそうな肌をしていた。


 髪の合間からは禍々しい黒い角が生えており、背には巨大な、黒い鳥の翼が生えている。


 そして、この世のものとは思えないほど、美しい顔をしていた。




 隣にいたフォルミーは固まっている。



「フォルミー?」


「ちがう、……こいつじゃないんだ、魔王は。

 少しだけ似てはいるが……別人だ」







「魔王さま!」



 弱々しい声が聞こえたのは、二人の後ろからだった。



 そこには、地味な女が立っている。



 その髪は、珈琲のように暗い茶色。


 痩せこけてぼろぼろで、背中には大きな蝙蝠のような羽根があるのだが、その片翼は燃えおちていた。




 女は目が見えないらしい。


 瞼が開き、ヘーゼルの瞳がのぞいているが、焦点が合わずどこを見ているかがわからない。


 その目は爛々と輝きを放ち、隣にいたフォルミーがびくりと体を揺らしたことに気がついた。




 女は片手を土壁につきながら降りてくると、二人に気がつかず、その間をよろよろと抜けていき、寝ている男の額にそっと口づけを落とした。



 フォルミーは相変わらず震えていたが、ややあって「あの女は……」と、憎しみのこもった声を出した。



 口づけを合図にしたかのように、横たわっていた男がむくりと起き上がる。


 二人は身構えた。



 しかし、魔王と呼ばれた男はこちらを一瞥しただけで、何かをしてくる様子はない。




「魔王さま、ごめんなさい。失敗しちゃいました」



 女は媚びた声で言う。

 


「失敗?」


「ええ。あたし、魔王さまが眠っている間に、あの忌々しい国を乗っ取ったんです!でも、最後の最後でじゃまが入って……。たぶん同胞の男だと思うんですけどね……」


 女は舌打ちをした。


「でも、魔王さま。失敗はしたけれど、道は繋がっています!

 十年くらい前に、人間の子供が開けたから。魔王さまは寝ていたし、きっと通れないくらい狭かったからあたしが行ってきたんです。……でも、今見たら完全に蓋が外れていたわ。ねえ、今から一緒に外へ行きましょう? そして、あたしたちの国をつくりましょう」



 女はうっとりとした表情で言った。



「シガーラ」



 魔王はぽつりと言った。


 女は見えぬ目を恍惚と宙に向け、「はい」と小首を傾げた。



 そして次の瞬間、口からごぼりと血を吐いていた。


 女の胸から、鋭い爪のある手が生えていた。




「まお……さま……? なんで……?」



 女は目を見開き、ぽろぽろと涙をこぼした。



「雲の王国を滅ぼせなどと、誰が言った?」


「え?」


 女は心底不思議そうな顔をしたまま、絶命した。






「そこの者たち」



 魔王が言った。


 フォルミーはびくりと身を硬くしたが、リヴェールは声色に排他的な感情が乗っていなかったのでそこまで警戒せず、前に出た。



 魔王の瞳は血のように赤かった。



「ふうん、……そなたも同胞か。

 ──その血のにおいは、ゾンネレーユの末裔……」



 彼は虚をつかれたような顔をした。



「そうか、そんなにも永い時が経っていたとは」



 魔王はぶつぶつとつぶやくと「此方へ」と言った。

 リヴェールは導かれるように前に出た。


 フォルミーが震えながらその袖を掴んで引き留めるが、不思議と怖くはなかった。




 魔王はぺたぺたとリヴェールの顔を触ると、ふむ、と考え込むような顔をした。

 

「──これは魔力紋だ」


「火傷……ではないのか?」


「? 魔力紋は、魔族の血を引くものなら誰でも持っているぞ」


「魔族の血?」


 それを聞き、書庫で見つけた手記を思い出したリヴェールは、自らの血筋に見当がついた。


「大抵は耳の裏側だったり、まぶたの裏側だったりに生じるものだ。

 そうではない場合、妙に目立つのでな。こうして位置を変えてやれば良い」



 魔王はすいっと指を動かす。


 すると、顔の半分に時折感じていたじくじくとした痛みが、突然消えた。


 その代わり、耳たぶに棘をちくっと刺したような痛みがあった。



「これで良い。見違えたぞ。ずいぶんと見目が良くなったではないか。

 ──しかも、あれほどの魔力紋を持つのだ。世が世なら、そなたが魔王であったかもしれぬな」



 魔王は満足そうに笑った。

 


「それで? 幼子よ。どうしてこのようなところへ?」


「──あなたを倒しに」


「おい!」



 正直に答えるリヴェールに、フォルミーが慌てる。


 魔王はと言えば、きょとんと目を開き、それからくつくつ笑い、こらえ切れぬといったふうに大笑いをした。



「すまぬ。──そうだな、では討伐の証にこれをやろう」



 魔王はそう言うと、己の髪の合間に生えた、山羊のような黒い角を、まるで爪を切るかのような調子でなにげなくぽきりと折り、リヴェールに手渡した。



「殺せと言われてないのだろう? これで十分だ。もう帰ってくれないか」



 角を渡した魔王は、けだるげに欠伸を一つし、邪魔な虫を追い払うようにひらひらと手を振った。


 二人が呆然としていると、魔王はもともと横たわっていた、ごつごつして冷たそうな岩の上にふたたび寝転がる。


 それからこちらを見て「おや、まだいたのか」と言う。



「闇の王国にはもう誰も残っておらぬぞ。我はもう寝る。

 そうそう、井戸の蓋は固く閉めておくのを忘れぬようにな。なんなら、壊してしまっても構わぬ。

 どうせならそこを埋め立てて、花畑にしてもいいだろう」



 魔王はつらつらと述べた。


 そして最後に、リヴェールたちを赤い目で一瞥し、「次は災厄が起こらぬようにな」と言い添えた。







 それから二人は元来た道を戻り、井戸を這い上がった。


 その重たい蓋をしっかりと閉めた。


 リヴェールがぶつぶつとなにかをつぶやくと、蓋の周りをぐるりと縫うように新芽が出てきた。


 それらは固く絡み合い、どんどん成長して井戸を隠していく。



 やがて、小さな赤い花をいくつもぽつぽつと咲かせて、その成長が止まった。



「──あの人を残して来てよかったのか」



 フェルミーが聞く。リヴェールはうなずいた。



「あの人は、──あの場所で朽ちるつもりなのだろう。理由はわからないけれど」



 自分を映す目の奥に、親愛の情が見えた。それから後悔の念も。






 二人が森の屋敷に戻ってくると、そこには、リヴェールとまったく同じ顔をした男が立っており、彼らに目を留めると豪快に笑った。



 それが兄弟の再会であり、──彼らは互いの利害が一致し、入れ替わり生活を始めたのであった。


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